番外編:ぐうたらエルフの悠々自適生活
ここはアルティア国にある名もない集落だ。
緑に囲まれ、山から湧き出す水が豊富な、とても美しいところだった。鳥は歌い、花は咲き乱れ、木の実もとてもよく穫れる。人々は苦労することもなく、自然の恵みを受け取って、静かに暮らしていた。
私はそれが――ずっと続くと、信じていた。
「セフィラ! いい加減にしなさい」
ある日の朝、母の声が家中に響き渡る。鳥たちも驚いて逃げてしまう勢いだ。
私は数日ぶりに、その声に起こされた。
「全く、放っておいたら何日も寝っぱなし、家のことも全然しない。フラッと出掛けたかと思ったら、何日も閉じこもる。そんな生活をもう50年も!」
どうやら自堕落な私の生活に、堪忍袋の緒が切れたらしい。
「うちは今度引っ越すよ。家が傷んでもう限界。あんたはいい加減自立して、ひとりで生きていきなさい」
ええっ! 突然の宣言に、私は飛び起きた。
そんなことをいきなり言われても、何の準備もできていない。いままでずっと実家で暮らして、ぐうたらしていたのだから。
「お母さん、本当に引っ越すの? 私の部屋は?」
「ないよ。これからは、お父さんと二人で暮らすから。夫婦の邪魔をしないでちょうだい」
そう言われては返す言葉もない。
むしろ人間の一生に近い長い長い時間を過ごさせてくれた、それは感謝すべきだろう。
――だけど、突然。
しょんぼりとしている私に向かって、さすがに言い過ぎたのかと母は顔を曇らせる。
けれどもう決意は覆さないと、固く誓ったようだ。
「部屋を片付けて出て行きなさい。今日明日追い出すようなことはしないから」
そう言って、そっと私の頭を撫でた。
私はずっとこの土地で暮らしていた。曽祖父がエルフだったので、私の一族はエルフの血を引いている。その中でも特に私は血を濃く受け継いだらしい。
おかげで普通の人間ならもうおばあさんの年齢だけど、まだ二十歳そこそこの外見だ。
記憶力も心も問題ない。ただちょっと出不精で、行動的ではなかっただけだ。
突然の引っ越しという事態になって、初めて自立しなければならないという意識が芽生えた。
けれど長年の習慣は、なかなか変えることは難しい。
なにしろ私の引きこもり具合は筋金入りで、ある冬の寒い日にゆっくり寝たと思ったら、もう夏になっていたぐらいだ。きっと純粋なエルフの曽祖父もそうだったのだろう。
私は無理矢理気力を奮い立たせ、荷物を片付け始めた。
「……と言っても、服数枚と趣味の道具ぐらいしか持って行けないな」
自分で持てる量を考えて腕組みをする。
この集落には5軒ほどの家しかない。
だからいっそのこと新天地を目指した方がいいと考えた。
――自力で家を建てるより、まず住み込みで働いた方がいい。
そう、思ったのだった。
「あんたに、働き口はあるのかねぇ」
母がほぅとため息をついた。グサリと言葉が胸に突き刺さる。
けれど「手先は器用だから、それを生かすといいかもしれない」とアドバイスをしてくれる。
母は母なりに、心配をしているのがよくわかった。
部屋を片付けていたら、箱に手が当たった。
「何だっけ、これ」
少しだけ開けて覗いてみると、カサリ……という音がする。
慌てて外へ持ち出して、焼却炉に投げ入れる。
危なかった。三年前にかじったパンに、小さな魔物が棲み着いていたのだ。
私はホッと胸をなで下ろした。
「あれ? これは」
今度はこどもの頃から持っている、宝物入れの蓋を開けてみた。
美しい結晶の原石がゴロゴロと入っている。
近くの山で拾ってきたものや、たまに来る行商人から買ったものだ。私は石や金属を加工する、アクセサリー作りが趣味だった。
その箱に、一通の封筒が差し込まれているのに気がついた。
「え、あ、アーク兄さんからの手紙!」
消印は――もう50年も前だ。
昔届いたのを忘れていた。
中を見てみると、カードが一枚入っていた。
手紙も添えられていて、コツコツ積み立てたお金が入っていると書かれている。
いつか、独り立ちするときに役立てるように。
お前のことを、いつも心配しているよ、と。
けれど、ここにはカードのお金を引き出せる店がない。
だからずっと宝箱の中で眠っていたのだ。
「兄さん……」
最後に会ったのは随分昔だ。
かっこ良くて、優しくて、高く抱っこしてくれたのを覚えている。
確か――私が10歳の時に、都会へ働きに行くと言って家を出て行った。それからずっと会っていない。
彼がここに戻ってくることはなかったのだ。
行かないで!
兄の袖を掴んでわんわん泣いた。お父さんとお母さんの言うことを聞いて、いい子にしているんだよと、頭を撫でてくれたのだった。
私は少し涙ぐみながら、カードを財布に入れ、手紙はバッグのポケットにしまった。
それから集落の人たちの家を一軒ずつ訪ね、聞いて回った。
「すみません、何か買い取れるものはありますか?」
何しろここには店がない。皆自給自足で生活している。
「ああ、セフィラちゃん、独り立ちするんだって?」
「何か買ってあげたいけど、持っているものばかりだしねぇ」
食べ物も着るものも、同じようなものばかりだ。
趣味で作ったアクセサリーも、増えてしまうので配って回ったから、皆持っていた。
しゅんとしていると、慰めるように「そんな顔をしないで。これは、餞別だよ」と言って、小さな袋を渡してくれる。中にはお金が入っていた。
とてもありがたい。
寝てばかりで役立たずの私にも、こんなに親切にしてくれる。
「うちの子もそうだよ。私だって若い頃は――」
そんな慰めの言葉を掛けて、行ってらっしゃい。寂しくなるけど、元気でね」と笑顔を向けてくれる。
手に入れた、少しばかりのお金を持って、いよいよ私は旅立つことになったのだった。
翌日、空は私の門出を祝うように、晴れ渡っていた。
すがすがしい空気の中で、自立への一歩目を踏み出す。
行き先は、とりあえず兄が向かったメルナドの街を目指した。ここから歩いて三日ほど掛かるけど、大きな街で、きっと働き口もあるだろう。
それに――兄に会えるかもしれない。
そんな期待で胸を膨らませていた。
少しずつ、休みながら歩いて行く。
街道に出ると、白い花が道沿いに咲いていて、とても可愛い。
遠くには山が見え、頂きに雪が積もっているのがわかる。
「きれい」
初めて見る景色だった。
青空にくっきりと浮かび上がるその様は、まるで絵画のようだ。とても創作意欲が刺激され、何か作りたい情熱が湧き上がる。周りの緑も、飛び回る蝶も、何もかもが新鮮だ。
足を休めながら、髪飾りもいいなと考えていた。
数日後、私はどうにかメルナドの街にたどり着いた。
ここに来るまで、本当に大変だった!
怖い目には遭わなかったけれど、とにかく歩く、歩かなければ先へ進めない。
幸い、ところどころに東屋のような建物があって、なんとかそこで野宿することができた。
街道沿いの小さな村の宿屋で一泊したので、予想より一日多く掛かったけれど歩き通せた。
ふくらはぎはパンパンになり、足の裏はマメだらけだ。
まずは宿屋を探して、ゆっくり休みたかった。
「あの、すみません」
道を歩いていた女性たちに声を掛ける。
「この辺りに、泊まれるところはありますか? あと、ギルドか持ち物を買い取ってくれる店は」
そう言いかけて、膝が崩れた。
「ちょっと、お姉さん、大丈夫?」
彼女たちはいきなり倒れた私に驚いて、声を上げる。目的地に着いた安心から、気が抜けたらしい。
「だ、大丈夫です、ここ数日、歩きっぱなしで」
立ち上がろうとすると、手を添えてくれる。
「宿、ね……どうしよう」
二人は顔を見合わせた。
「こんなにきれいな人だと安宿は危ないし……お金を持っていないならなおさら――」
どうやらこの街は少々治安が悪いらしい。
「ギルドは今日休みだから、そこの道具屋で買い取りをしてもらったらどう?」
すぐ側の、看板が出ているお店を指し示す。
「あと宿は……そうね、とまり木亭がいいかしら」
そう言って、お店と宿を紹介してくれた。
私はありがとうございましたと言って、道具屋へ向かった。
「こんにちは」
古びたドアを押すと、ガランと呼び鈴が音を立てる。
「いらっしゃい」
奥から男性の声がする。
私はスルリと道具屋へ入っていった。
「買い物かい? ゆっくり見てっておくれ」
奥の机の向こうに座っていた店主が顔を上げる。もう老人と言っていい年齢の男性だ。
「あの……買い取りをお願いしたいんです。お金を作りたくて」
そう言って、私は首から提げたペンダントを外した。
「こちらをお願いします」
机の上にそっと置く。
「ほう! これは」
店主の目の色が変わった。
オイルランプの光にかざし、じっと見つめている。
「お嬢ちゃん、これは家から持ち出したものかね? お母さんの宝物かい」
盗品ではないかと疑うような目つきだ。
「い、いえ。自分で作ったんです。アクセサリー作りが趣味なので」
一瞬、主人は固まり、本当か? との疑問を顔に露わにして、ペンダントを二度見する。
服に付いているボタンを見せると、顔色が変わった。
「なんと! お前さんがこれを――いや全く、素晴らしい」
そう言ってランプの前で軽く揺らす。
ペンダントの中で光がキラキラと回転し、周囲に飛び散る。
虹色の光が、薄暗い部屋の中で壁を彩っていた。
「ふむ。ミスリル銀の外郭の中に、水晶が入っているのか。この繊細な装飾、水晶のカッティング。――どれも素晴らしい」
褒められてとてもこそばゆい。
今まで集落の人に渡してきれいと褒められただけで、こんな評価を受けたことはなかった。
「しかし残念だ。うちは素材の値打ちでしか買い取りができない。これはとても価値のあるものなんだが、そこまで払うことはできんのだ」
主人は申し訳なさそうに言う。
「いえ、宿代になればいいんです。手持ちのお金が少なくて、とても困っていて、その――」
私は慌てて手を振った。
それは仕方がない。買い取りというのはそういったものだ。どんなに美しいと言われても、ミスリル銀と水晶の値段にしかならないのだろう。
「もし他にも作れると言うなら、街のアクセサリー店へ納品するか、工房と契約をした方がいい。それ以外にも、個人売買やオークションと言った手もある」
どれも今すぐには難しそうだ。とりあえず、今はわずかなお金になればそれでいい。
「350G。確認してくれ」
「はい。ありがとうございます」
そうして私はなんとか宿代を手に入れた。
すっかり暗くなった石畳の道を歩いていた。途中で何人かの人に道を尋ね、宿の前まで来ることができた。
『風の宿 とまり木亭』
そう、木でできた看板に彫られている。木造の宿は古そうだけれど、温かみが感じられた。
私は「こんばんは」と言いながら、ドアを開けた。
玄関は暗かった。
私の声で気づいたのか、灯りを持った男性がやってくる。
「いらっしゃい。泊まりかい?」
「はい。まず一泊――いえ、二泊をお願いしたいのですけど、あの」
壁に料金表が掛かっていた。
なんとか三泊までなら払える額だ。ペンダントが売れて助かった。
「朝食と夕食は付けるかい? 今日はもう、賄いになっちまうけど」
「はい、お願いします」
そう言って、手付金を支払った。
「お客さん、この街は初めてかい? こんな美人、久し振りに見るよ」
「え、ええ。田舎から出てきたんです」
行く先々で美人と言われ、かえって私は不安になった。
褒められるのは嬉しいけれど、――少し、怖い。
「うちは防犯対策はしっかりしてるから、安心しな。部屋に案内するよ」
男性はランタンを手に取ると、カウンターの隠しから鍵を引き出し、歩き出す。
「落ち着いたら玄関の右手にある食堂へ来てくれ。簡単な料理を用意しよう」
そうしてやっと私は宿に落ち着くことができたのだった。
「ん~よく寝た」
翌朝太陽が昇る頃、私は起き出すことに成功した。
昨夜は歩き疲れて、食事を摂った後、すぐに寝てしまった。
また何日も寝過ごしてしまう恐れがあったので、宿の人に起こしてもらうよう頼んでおいたのだった。
階段を降り、食堂へ向かうと、既に何人かの宿泊客が朝食を摂っている。
「おはようございます」
「お客さん、よく眠れたかい」
宿の女主人がニコニコしながら朝食を用意している。大きなパンと牛乳だ。ここ数日、ろくな食事をしていなかったからありがたい。
パンをスライスしてよく噛むと、じんわりと甘みが広がった。
「ところでお客さん、今日はどちらへ?」
「商業ギルドへ行きたいんです。仕事を探したいんですが、まずはお金を作らないと」
ああ、という顔をして彼女は言った。
「それなら街の中心部だね。ここから歩いても遠くない。石畳の道をまっすぐだよ」
とても親切だ。
後でもう一度、カウンターのところに掛かっている地図を確認しよう。
そうしてパンを牛乳で流し込んだ。
私は商業ギルドの建物の前にやって来ていた。
宿の女主人の提案で、スカーフを頭から被り、顔を隠している。金髪に青い瞳、白い肌の私はとても目立つ。尖った耳を見られたら、誰もがエルフだと疑わない。
重厚そうな扉を静かに開け、受付の人にそっと声を掛けた。
「すみません。魔法カードから、お金を出したいのですけど」
そう伝えると念のため、カードの種類を確認された。
すぐに「そちらの部屋へどうぞ」と案内され、ブースで仕切られた一角へ足を踏み入れた。
「よろしくお願いします」
言いながら頭を下げ、椅子に座る。
担当者は若い女性だ。私とそういくつも変わらない――外見は。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。まずはカードを拝見させていただきます」
財布の中から取り出したカードを差し出すと、彼女はそれを小さな箱に差し込む。
光が放たれ、情報が浮き上がってきた。
「ご契約者のお名前をお願いします」
「セフィラです」
そう言うと、光の色が一瞬青く変わる。
「はい。承認されました。今回は、お取り崩しでよろしいですか」
「あの、お幾らぐらい入っているのでしょう。ずっと放置していたからわからなくて」
すると彼女は指を動かす動作をする。
数値の詳細情報が現れた。
「そうですね――金額はこちらになります」
表示された数字を見て、私は一瞬固まった。
「え? ええと、これ、どのくらいの価値があるんですか? 恥ずかしながら田舎暮らしで、お金を扱ったことがほとんどなくて」
額の大きさがわからない。
いや、食事や宿の料金なら体感としてわかるけれど、――これは。
「家2軒分が購入できるほどになります。ご一家が住まう立派な家です」
私はパニックになった。
え? これは、アーク兄さんが積み立てたお金よね?
50年前はまだ若かった。そんなに稼げる訳がない。
「こちらは、月300Gを5年、60回分積み立てられたお金です。世界分散~ワールド~に投資され、50年経過しておりますので、複利で膨れ上がっております」
兄は5年間だけお金を掛けたらしい。
出て行ってから、私が成人するまでの間だ。
それを独立資金として贈ってくれた――。
「あの、どうすればいいんでしょう。こんな大金だとは思ってなくて」
素直に困惑を口にする。
「そうですね……」
担当は少し考えてから、こちらを向いた。
「お客さまはこれからどうされますか? ご職業は」
「えっと、しばらく仕事を探しながら、そのお金で生活する予定だったんです」
つまり、無職だ。
「この街でお仕事を探されますか。この金額ですと、生活に必要な分を取り崩し続けても、尽きることはないかと思われます」
「それも考え中で――どうしよう」
兄がここにいるなら、会いたい――。
「すみません、あの、アークという人物に心当たりはありませんか? 兄なんですけど」
そう言いながら、兄からの手紙を彼女の前に置く。差出人の住所は商業ギルドの宿舎だった。
「こちらは……便箋と封筒も商業ギルドのものですね。お兄さまは職員だったのですか」
「それも、わからなくて……」
私は消え入りそうな声で答える。
彼女は消印と差出人を確認し「少々お借りします」と言って手紙を持って奥へ行く。
しばらくして戻って来ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「お調べいたしましたが、何しろ古いお話で、情報が残っておりませんでした」
「いえそんな、50年も前のことなので、気にしないで下さい」
慌てて私は彼女を押しとどめた。
兄の消息はわからなかったが、大金を贈ってくれたことには感謝しかない。
感慨に浸っている私に彼女は言った。
「今回、5000Gを取り崩し、500Gを現金に、4500Gを口座に入れておくのはいかがでしょう。投資分からの取り崩しですと、お渡しできるのが二日後になりますが、口座からなら、どのギルドでも即日現金をお渡しできます」
私はその提案を受け入れて、後日受け取りに来ると彼女に伝えた。
まだ財布にお金は残っている。宿の滞在を延ばして、その間に身の振り方を考えよう。
「ありがとうございました」
担当に丁寧に頭を下げて、商業ギルドを後にした。
あれからメルナドの街を歩き、観光をした。
高台から建物が並ぶ景色を眺め、お店を覗き、屋台の料理も食べてみる。
ここはとても活気がある街だ。素敵な服もアクセサリーもたくさんある。
市場には色彩豊かな食料品が並び、人々の弾んだ声で満ちあふれている。
街はきれいに整備され、路地裏ではこどもたちが遊んでいた。
穏やかな笑い声が絶え間なく響き、清潔な服を身につけた人たちが歩いている。
「お姉さん、ちょっとオレといいところへ行かないか」
そう言われて腕を引っ張られたけど、その様子を見ていた店の人たちが追い払ってくれて助かった。
とても豊かで親切な街だ。
私が暮らすにはどうだろう――と考えていた。
「ただいま戻りました」
陽が傾いてきたのでとまり木亭に戻り、滞在を一日延ばしたいと伝えて部屋に入る。
熱いお茶をカップに入れて、ベッドに腰掛け、手を温めた。
――アーク兄さん。
私のためにお金を積み立ててくれていた。
まだ働き出したばかりで、お給金もよくなかっただろう。
――それなのに。
大きな愛を感じて、胸がじんと熱くなる。
窓から差し込む、日が沈む前の最後の光が、まるで兄のようだと思った。
「お客さん、夕食の時間です」
ドアがノックされ、少女の声にハッと現実に引き戻される。
一階へ降りて行くと、まばらに人が座っていた。今日は夕食を取る人がそんなにいないようだ。
席に座ると、しばらくして温かなシチューが運ばれてきた。私は一口ずつスプーンですくい、ゆっくりとお腹を温める。
初めて食べる味だった。スパイスが効いていてとてもおいしい。
パンをちぎっていると、店の一角がザワザワとさざめいた。
老人がひとり座っている。
常連客たちが彼を取り巻いて、話し掛けていた。
「いやぁ。この宿は本当にいい。落ち着きます」
「最近は物価も安定して、商売もやりやすい」
「今年は穀物も豊作だと言うし、フロスケイルでは新しい鉱山も見つかったそうだ」
そんな話題だった。
旅の途中の商人たちが、隠居した宿屋の主人に話し掛けているようだ。
彼らの様子を眺めていたら、こちらに気づいたのか、視線を向けてくる。
「やぁ美しいエルフのお嬢さん。見掛けん顔じゃな。この宿は初めてかね」
「ええ、田舎から出てきて、昨日からお世話になっています」
そう言って、軽く頭を下げた。
「この街は、ええじゃろう。旅の途中かね。働きに来なさったのか」
「そう――ですね。独り立ちしようと思って。仕事を探しに出てきました」
「そうか、そうか」
老人は皺だらけの顔を嬉しそうにほころばせる。
「若いうちに経験するのはいいことじゃ。あんたもいろいろなものを見て行きなさい」
若くはないんだけどね。
そう思ったが、彼の顔を見ていたら、ふと兄のことが頭をよぎった。
「あの、私、兄がいるんです。もしかして――彼のことをご存じないですか」
恐らくこの老人は、兄と同年代だろう。
メルナドの街で長く宿屋をやっているのなら、知っているかもしれない。
「お兄さん? どんなお人じゃ」
「名前はアーク。この街に55年前に来ています。その後何年か商業ギルドで働いていたようなのですが、消息がつかめなくて――」
私と同じ、金髪に青い瞳。多分顔も似ているだろう。
エルフの血を引いているから、成長は遅かったはずだ。
「55年前か……」
老人は考えを巡らせるように、視線を宙に浮かせた。
しばらく遠い目をしていたが、ふと私の顔を見て、弾かれたように声を上げる。
「おお、アークか! よく知っておるよ。儂がまだ16歳の頃、あいつがこの街へやってきたんじゃ。あれは生意気なヤツじゃった」
老人は嬉しそうに笑って、懐かしむように目をつむる。
「そう、かおりさんがこの宿に連れて来て、儂の服を着せたんじゃ。それで商業ギルドへ行って、働くことになっての。世の中の流れを見るのがとても上手かった」
私は驚いた。
こんな大きな街なのに、知り合いに出会えるなんて。
「あの、お茶をどうぞ。おじいちゃんも」
少女が食後のお茶を運んでくる。
私は軽く会釈した。
黙ってお茶を飲んでいると、彼は続ける。
「そう、商業ギルドで、世界分散~ワールド~の商品選定の仕事をしていて……20年ほど前のことかの。アルティアの王都ラディアにある、商業ギルドへ移ったはずじゃ」
「本当ですか、それ」
私は思わず立ち上がった。
兄の消息までわかるなんて。
「ああ。皆でお祝いをしたから間違いない」
あ、あの時の金髪の兄さんかと、奥から宿の主人の声が上がった。
「あんたもラディアに行ってみるといい。徒歩でも行けるが、安全な辻馬車を使った方がいいじゃろう」
それから、宿の人や宿泊客に、親切にラディアへの行き方を教えてもらった。
別の話題に移る頃、私はそっと席を立ち、部屋に戻った。
明日、運輸ギルドへ行って、辻馬車の乗り方などを教えてもらおう。
そうしてラディアへ行って、しばらく滞在することにした。
「お世話になりました」
数日後、私は宿を引き払った。
顔を隠せるフード付きの上着を買い足して、辻馬車の乗り場へ向かっている。
予定より遅れたのは、寝過ごしたからだ。
兄に会えるかもしれない――そう考えたら思い出が次々に浮かんでしまい、なかなか眠れなかった。
結局明け方になってようやく眠りにつき、昼過ぎになっても部屋から出てこなかった私を、宿の人が起こしてくれた。
優しい風が私の頬を撫でていた。
兄に会って、街が気に入ったら部屋を借り、アクセサリーを作りながら暮らすのもいいかな。
私のこれからの長い長い人生は、あたたかな人たちに支えられて続いていくのだろう。
晴れ渡った空に流れる雲。
そんな景色を眺めながら、石畳の道を歩いて行った。
----------
※この世界を舞台にした短編もあります。続けて読んでいただけると嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
同じ世界を舞台にした短編をいくつか投稿しています。
もしよろしければ、そちらもお楽しみいただければ嬉しいです。




