第9話 内側
拍手も歓喜も興奮もない勝利。熱狂は枯れ、ただ凪人はひたすらに……
目の前で運ばれる東堂杞憂。
凪人は立ち尽くしたまま、動けない。
だが、審判が凪人を出口へ案内する。凪人は言われるがまま歩く。自分がどこへ行っているのかもあやふやなまま。
(俺は何もせずに勝利した。俺の負けだ)
控え室に戻る廊下は、異様に長く感じられた。
『一勝』。
あれほど渇望し、喉から手が出るほど欲しかった結果。だが、いざ掴んだその手触りは、勝利の高揚感ではなく、他人の血の、生温かい感触だけだった。
「――凪人くん」
控え室の扉を開けると、佳紬由が一人で待っていた。
「……おめでとう。まずは、一勝ね」
「……」
凪人は、答えなかった。視線を床に落としたまま、自分の手を見つめている。
「……喜べない、か」
「当たり前だろ!」
凪人は、堰を切ったように声を荒げた。
「俺は、負けてた! アイツが……女王が、勝手に暴れただけだ! 俺の力なんかじゃない……!」
影の中から溢れ出した、あの圧倒的な悪意。
杞憂の腕をねじ切った、あの冷たい感触。
それは凪人の意志など介在しない、ただ、女王が不快だったから。あんなもので勝ったと言えるはずがない。
「そうね」
佳紬由は、凪人の激情を、静かに受け止めた。否定も肯定もしない。ただ事実として。
「でも、凪人くん。それも、『今のあなたの力』よ」
「違う!」
「違わない」
佳紬由の声が、冷徹に響く。
「あなたの内側にある力、あなたが背負わされた力、それをあなたが重荷に感じていることは私も分かっている。それでも、あなたにはその力に責任を持たなければならない。その力があるからあなたは波導士として生きていける。だから、その力を悔いることはないわ」
「おかげで私たちはこうやって出会えたのだからね」
佳紬由は歩み寄り、凪人の震える肩に、そっと手を置いた。
「今はそのままでいい。それでもいつかはあなたの力を信じれる時が来るわ。さあ、2回戦の前に救護室へ行きなさい。穂波が待ってるわよ」
***
救護室のドアを開けると、消毒液の匂いと共に、あの明るい声が聞こえてきた。
「いやー、ホンマ死ぬかと思ったわ! 穂波センセ、あんた神やな!」
「はいはい、喋ってないで腕、動かさないでください」
ベッドの上で、東堂 杞憂が上半身を起こしていた。
波導協会の医師、穂波 早苗が、彼の右腕に波導を使った再生を施している。あの無残に裂けた傷口は、すでに塞がりかけていた。
「……杞憂」
凪人が声をかけると、杞憂は振り返り、ニカッと笑った。
「お、凪人くん。来たか」
「……」
「いやー、完敗や! あんたの勝ちやで!」
あっけらかんとしたその態度に、凪人は言葉を失う。
腕を潰されたというのに、なぜ笑えるのか。
「……俺は」
「分かってるって」
杞憂は、穂波に「センセ、ちょっと席ぃ外してくれへん?」と頼む。
穂波が「無理しないでくださいよ」と釘を刺して退室しようとすると、すれ違いざまに入ってきた佳紬由が声をかけた。
「穂波。杞憂くんの腕、元通りになる?」
「佳紬由先輩。……神経までは完全には。でも、日常生活にも波導士としても支障のないレベルまでは治せます」
「そう、よかったわ。ありがとう」
佳紬由は短く労うと、穂波と共に部屋を出て行った。
二人きりになった救護室。杞憂の表情から、おどけた色が消えた。
「俺のミスや」
「え?」
「凪人くんが『女王』と繋がっとるんは、事前に知っとった。凪人くん、思ったより有名なんやで。……それでも、俺は『影』の中なら絶対安全やと、タカをくくった。あんたの影に、土足で踏み込んだ、俺の負けや」
杞憂は、包帯の巻かれた自分の右腕を見つめる。そこには後悔こそあれ、凪人への恨みは微塵も感じられなかった。
「……」
「あんたが、あの化け物を制御してたわけやない。……でもな、凪人くん。そんな『爆弾』抱えてる奴の懐に、不用意に飛び込んだ時点で、俺はもう、波導士として失格や」
杞憂は、治療中の右腕を、左手でバンと叩いた。
「これは、あんたが勝った証や。正真正銘、あんたの勝利。……だから、謝んな」
「……っ」
「その代わり」
杞憂は、再びいつもの調子の良い笑顔に戻った。
「俺の分まで、優勝、してーや」
凪人の目から、堪えていたものが、溢れた。
宮家に来て、初めて流す涙だった。
恐怖でも、自己嫌悪でもない。ただ、救われたことへの涙。
「……ごめん」
「謝らんでええって、言うとるやろ」
「……ごめん……! ありがとう……!」
「あー、もう! 泣くなや! 男がみっともない!」
「……約束、する。……絶対、優勝する」
***
そうして、凪人も穂波の治療を受け、消耗しきった波導を回復させ、救護室を出た。
静まり返った廊下。
次の試合に向けて気を引き締めようとした、その時だった。
「――すごかったね、木場くん」
不意に、背後から声がかかった。
気配は、全くなかった。
「……!」
凪人が振り返ると、そこには藤原 真が立っていた。
黒い戦闘服。整った顔立ち。
さきほど波導伊織を無慈悲に粉砕した時とは違う、雰囲気も人柄も一変したような。その表情は、遠足に来た子供のように穏やかで、ニコニコと笑っていた。
「藤原……」
「見てたよ。君の試合。すごかったよ。あの最後の波導」
真は、スッと凪人に近づき、顔を覗き込む。
その瞳は澄んでいる。さっきの試合とはやはり人が変わっている。
「凪人くんは、強いんだね」
「それは藤原お前もだろ」
「僕はね、ダメなんだ。一度も一人で勝ったことがないんだ」
「一人でって、さっきだって。それに2回戦も一人で行くんだろ?」
「2回戦も勝ったよ。それでも、僕は二人で一つ。だから僕はいつまで経っても完全にも最強にもなれない」
「言ってることが分からないよ」
「ごめん、全部忘れて。僕は君を倒すよ。僕は導魔があまり好きじゃないんだ」
「だって、僕たちの邪魔をするからね。……じゃあ、決勝で会おうよ」
「じゃあ、2回戦、頑張って勝ってね。決勝で会おうよ」
真は、パッと明るい笑顔に戻った。
真は、足音もなく去っていった。
後に残された凪人は、拳を握りしめた。
(あいつ……何なんだ)
先ほどの試合で見せた冷徹な強さ。
そして今見せた、無邪気で、どこか壊れた素顔。
”二人で一つ”
藤原真という人間はどこにあり、どのようにあれほどまでの力を。
(……今は、考えるな)
凪人は頭を振った。
武舞台のアナウンスが響く。
『――続きまして、二回戦、第二試合!』
『木場 凪人 対 宮 すもも!』
(今は、目の前の敵に集中するしかない。自分の力を証明するんだ)
凪人は、すももが待つ、武舞台へと続く暗い通路へと足を踏み入れた。
互いの手の内を知っている同士の戦い。お互いにある思いも心情も知り尽くした。




