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第五話

 男は木箱に腰を掛けている。

 休暇とったものの、行く場所がなく、やはり基地にいるしかなかったのだ。


 前線から戻ってきた兵士たちの横顔を眺めながら、男はぼんやりと物思いにふける。


 ここ最近では珍しい二日にわたる長い戦闘があった。

 帰営した兵士たちから疲労の色はあまり感じられなかった。ちょっとばかり遠足に行ってきたような――、確かに一方的なせん滅戦ならば、遠方から砲を雨のように降らせるだけならば、そのようなものなのかもしれない。顔も服もほとんど汚れておらず、ぴかぴかと輝いている。


 男はふと自分の靴の紐がほどけていることに気付いた。

 

 紐を結ぼうと前屈するも、手がわなないでうまく取れない。ようやく輪を作り、くぐして、きつく引っ張る。するとあっさりと紐が切れてしまった。履き古した靴であるから、きっと寿命だったのだろう。


「おい、おっさん」

 顔を上げると、若い、まだ十八にもならないだろう兵卒がこちらを見下ろしていた。


「その木箱には火薬が入っている。危ないぞ」

 

 少年は怒っている。

 言い方は粗野だが、真面目で、善良さが伝わってくる青年であった。


 ああ、知っている。

 そう言おうとして、男は口をつぐんだ。


「まったく。補給が積み荷のままじゃないか。これじゃあ今攻撃されたら弾が打てないぞ。何をちんたら仕事をしているんだか」


 ◇◆◇


 挨拶もせず、男は話し始めた。

「お前は何かを賭けているつもりなのか」


 男の仕事場。

 女は答えない。これは、反抗的な態度とみなされれべきことである。つまり、殴りつける権利がある。だが、男にそうする気はない。すべて終わったことだからだ。


 唯一設けられていた窓は今や解き放たれ、光と空気、そして秩序をふんだんに取り込んでいる。女が望んだのはそれだけだった。男にはその気持ちが分かるような気がする。


 女は与えられた茣蓙の上に毛布を敷いて座っていた。服は新しく与えられ、白く細い一枚つなぎを着ている。

窓に嵌められた鉄格子と脚の鎖を除けば、ここに抑圧的なものは存在していない。


 豆とニンジンをすりおろしたスープにオレンジジュース。どちらも液体だが、筋肉も内臓も弱った女には良いだろう。そう思い、男が昨晩差し入れたものだった。


 女は手を付けていなかった。


「毒は入れていない。ほら、いいから食え。冷たくてもそう味は変わらない」


 女は男をしばらく見つめていたが、おもむろにスプーンをスープの中に差し入れた。そして、一口二口とゆっくりと口に運び、嚥下する。幾日ぶりの食事。それに関わらず冷静に、だが躊躇いなど微塵もなく。


 女の白薄くなった頬がほんのり赤味を帯びる。


 男は女の前に椅子を置いて座り、女が飯を食らうさまを静かに眺めていた。ちまちまと小さな口を動かす女はウサギのように見えた。


「まだおれが新兵だったころ」


 何という理由があるわけではない。

 だが言葉が溢れ、男は語り始めた。


「同郷の先輩がいた。どこぞの小作人の末っ子で、“弟”ができてうれしかったんだろうな。先輩風を吹かし、何かにつけておれの面倒を見てくれた。若いながら敬虔でね、いつも良い市民であろうとして賭け事の集まりには決して参加しなかった。それに優しい人で、動物をいじめなかった。犬、猫、牛、何にだって優しかったよ」


 男は女の顔を見た。

 女は器に目を落としながら、柔らかい液体を噛み続けている。

 男は続けた。


「だがあの日、先輩は突然、おもむろに、おれに賭けを申し出た。そしてその日のうちに爆発に巻き込まれて死んだ。おれにはな、お前があの日先輩が行った賭けと同じ類のものに興じているように見えるんだ」


 男は鼻水をすすった。折しも窓から、夜入り前の山の背に、美しく燃え上がる陽の姿が見えた。窓を閉めようとすると、女が男の袖をつかんだ。

「寒くなるぞ」


 女は首を振る。

 男は再び腰を下ろす。


「冬だった。ちょうど今頃と同じだ。動かないカエルを拾い上げて、火薬の傍においたんだ。そしてマッチを擦って、“カエルは逃げ出すと思うか。それともやはりカエルはカエル、冬は動かないままだろうか”、だ。おれには分からない。どうして彼があのような賭け事に興じようとしたのか」


 女は空になった器を股の上に置いて、終末を待ちわびる信徒のごとく、窓から見える西方の真っ赤な陽を見つめ続けた。うたた寝をしている。そう思えるほど、女は静謐で、息を整えていた。


 数え切れぬ時間の束が通り過ぎていくのを感じた。

 顔に散らばる陽光が次第に力を失い、夜が近づいてくる。


 女は瞬きもしない。


「何も難しい話ではない」


 陽が落ちた。

 女は口を開き、澄んだ声を発した。


「カエルは死ななかった。お前の先輩はマッチを投げなかったのだろう」


「何も知らないくせに何故そう言い切れる」

「何も分かっていないのはお前の方だ」


 女は股の上の容器を床に落とし、背筋を伸ばした。

「お前の先輩は敬虔だったのであろう。良い市民であったのだろう。優しかったのであろう。ならばそういうことだ」


 女は男に一瞥もくれず、ただひたすらに窓の外を目をやっている。

 ――何かを“賭けている”。

 男はそう確信した。


「陽が落ちたか。なら、もういいだろう。話してやる。お前らはもうおしまいだ」

 

 静謐さは充足であった。

 男は目を見張った。女の身体は精神で満たされており、ほれぼれするほどである。

 女の一語一語に、男は驚かなかった。

 そのために、己が弱さをささげたのだ。

 

「ここら一帯は既に我々の大群によって包囲されている。夜になった。あと十分も経てば、ここに総攻撃が始まる」

「なぜ分かる」

「そう計画されていたからだ」


 女の言葉に嘘の気配は感じられない。

 男は胸の動悸が高鳴るのを感じる。

 だが、これは不安や緊張ではない。


「丸めた新聞で殴られたとき、載っていた日付が目に入った。あとは太陽の動きを見ていれば今日がその日だと分かる。お前たちは“誘導”されたのだ。迂闊だったな」


 女はふっ、と笑みを漏らした。憐れむような眼が男を見下ろし、そして一回、ゆっくりと瞬きをした。

 これを、この美しさを、胸に宿った確信だけをよすがに、男たちから隠し続けてきたのだ!

 

 久しく感じていない熱情が、男の中で渦を巻いた。

 そして、男は思い出す。

 ――あのとき中佐が部屋を訪れたのは早朝、“夜明け前”だった。


 いてもたってもいられず、男は立ち上がり、何か、わけのわからないことを大声で喚きちらした。


 女は男の行動を“狼狽”と捉えたのだろう。実に晴れやかな笑みを浮かべている。ぴんと美しく伸びた背筋は頑健で、突き崩せそうなところはなかった。


 女は言った。

「夜が明けるころ、ここに座らされているのはお前の方だ。覚悟しておくが良い」


 男はしばらく逡巡していた。だが倦怠と諦念がゆっくり身体を蝕みはじめ、やがて男は考えるのが億劫になっていった。

 女の笑みは沈みかけた太陽のように赤赤と輝き、美しかった。


 そして、男は言った。

「来ない」

 

「は?」

「お前がいう総攻撃は、いや五百もいなかったらしいが、昨日この基地から打って出た守備隊に撃破された」


 女は細い眉をひそめた。


「あのとき、おれが読んでいた官報は前日のものだった。お前の言う“今日”は“昨日”だよ」


 女は言った。

「嘘だ」

 男は応えた。

「嘘ではない」


 女は目を手で隠し、顔を伏せた。指の隙間から漏れる息は震えていた。

 そのあまりのかわいそうさに、男はいたたまれなくなる。


 おもむろに女は顔を上げ、窓の外を見た。

 ぴかぴかに磨き上げられ、緩みのない頑丈な鉄格子の向こうに、夜があった。宵の明星が、一人さみしく輝いていた。

 女にとってそのさらに先には、仲間たちの生活や、あるいはありし日の失われた故郷があるのかもしれない。そんなことを、男は思った

 

「ああ、そうか」


 その声に、躊躇いのなさに、男は震えあがった。

 女は顔を戻し、先ほどとまったく同じように笑ったのだ!

 

「そういうこともあるだろう。あの日、我々が突貫をかけたのは、この総攻撃に先駆けた威力偵察のためであった。わたしは隊長から、敵は少数で銃装もしていないから簡単に蹴散らせる、と聞かされていた。だが、それはまったくのでたらめで、我々は壊滅した。そして今では、あれら一連の指示はお前らを誘導するための戦略だったと理解している」


 だから、と女は続ける。


「問題はない。皆がここにやってきて、お前らを滅ぼす。これもまたなにかの策であろう」

 

 女の話す内容が苦し紛れのデタラメと断言することはできなかった。ここ最近の敵の弱さは不自然と言い得るものだったかもしれない。官報は信用できない。女の精悍な肉体と精神が何よりの反論となっているではないか。

 そして事実、現在、この基地は著しく防衛力を落としている。


 今度こそ男はうろたえ、こう問う。

「これが賭けか? お前が賭けようとしているものなのか?」


「何を言っている?」

 女は怪訝な表情を浮かべた。


「初めから、わたしはなにも賭けてなどいない」


 その瞬間、男は完全に恋に落ちてしまった。


 その証拠に、くそ真面目に固まった女の顔が突然滑稽なものに思え、男は噴き出した。

「そうか。そうか。なるほど」

 男は笑いながら何度もうなずいた。


 女は口の端を引き攣らせながら、憐れんだ目で男を見ている。


「お前は賭けていないと言うのだな。なら、分かった。あらためて賭けようじゃないか」

「何を」

「あんたを」

「は?」

「おれの女になれ」


 女は一瞬あっけにとられたが、すぐに気を取り戻し、苦笑する。


「私の身体など、今なら自由にできるじゃないか」

「違う。お前はおれの妻になるんだよ」

 

 女は男の面に向かって唾を吐き、眉と頬をいびつに歪めた。


「救いようのない馬鹿か? あるいは命乞いとも解釈できるな」

「そうなのかもしれない」

 

 そうだとしてもかまわない。

 男は思う。


「散々自分を痛めつけた男の妻に、喜んでなりたいと言う女がいると思うのか。もし、本当にそう思っているならば、どうしようもないやつだ」

「散々痛めつけたのならば、そう言うのではないだろうか」

「そうかもしれない。いや、お前は馬鹿だよ」

 女の吊り上がった口角が緩んだ。


 男はもう女を見ていない。

 男が見ているのは、いなくなってしまった先輩のこと。

 その脇には、まだかわいい少年だった自分が立っている。


 おれはまだ、カエルの前でまごついていたんだな。

 そんなことを考えている。


 男は言った。

「おれの言う通りのことが起こったらおれの勝ち。お前の言う通りのことが起こったらお前の勝ち」

 男の言葉にくつくつと笑い始めていた女だったが、いよいよ大笑となった。

 その腹から出る、快活で、力強い声は、狭く冷たい男の部屋に収まりきらず、基地が埋め込まれた高台中に響いた。

「まあ、いいさ。皆がやってくればお前は死ぬ。そうでなければ嘘の自供をしたことでわたしがなぶり殺しにされるだけだ」


 男は生涯で一度も賭け事をしたことがなかった。サイコロを投げたことも、カードを切ったこともない。そしてまた、そのように死んでいくのだろう。

 女もまた同じだった。やはり、こうとしか生きていくことができなかった。


「いいだろう。おれたちは賭けるんだ。そしてお前はおれの女になるんだよ」

 男は微笑んで言った。

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