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準備 7

「撤退ですか?」


 フリッチュからの説明を受けたある歩兵大隊長はそう答えた。敵と戦う前に逃げろとはどういうことだと言いたい反応である。


 彼らが受けた説明はこうである。

 フランス各省庁が休みとなる土曜日の早朝には、ラインラントへの進駐を開始。動員されるのは各歩兵大隊と砲兵中隊で計3万3千人。さらに後方に2師団が予備部隊で控える。

 そして航空機部隊が偵察のために先行してラインラント上空を制し、ライン川まで到達。陸軍はその後、3万人はライン川沿いに待機させ、たった歩兵大隊の3部隊3千人がライン川を渡り、もしフランス軍がこの事態の対処のために国境を越えてきた場合には交戦せずに撤退し、すべてを無かったことにする。


 これが今回の作戦の大まかなものであった。さらに物資の運搬や、武器装備の用意等など細かい部分もあるが、それは後々伝えることであり、今は大まかな作戦を通達しなければならなかった。

 ところでこの作戦をフリッチュは一から説明しなければならなかった。これがベックや他の将校が立てた作戦であれば、彼が説明する必要はなかった。しかし、これが1年前に入隊したばかりの中尉の案であったのでそういうわけにはいかなかった。

 

 ヴァルザーの案の優れていたところは、各部隊が果断即決が出来やすいよう、部隊を細かくして進駐する事と物資を最低限にすることで、すぐに撤退が出来やすくすることであった。ただし、弱点もあり部隊が細かくなる分、精鋭を選ぶ必要がある事と、方針を先に細かく指示し各部隊の動きを徹底しなければならないという事であった。つまりすべての部隊が作戦の細かい動きに従う必要があった。

 仮に中尉の名の下で出された案であれば、軍はそう簡単に従わなかったであろう。軍というものは上下関係が厳しい世界であり、若造の案に簡単に受け入れることなどできないのだろう。そのことはヴァルザーも分かっており、


「この案はフリッチュ陸軍総司令官の名前で出してくれぬか」


という。一中尉のこの命令に、陸軍トップは従わざるを得なかった。こうして、フリッチュが各部隊の隊長にすべてを説明する義務を負わされてしまったのである。


「余計な事を」


と毒づいて投げ出したいところであったが、そういう訳にもいかぬ。今説明している3人の大隊長の部隊には、ライン川を渡るという重要な役割が与えられていた。


「諸君の気持ちも分かる。しかし、我々がライン川を渡るのはたった諸君の3部隊、3千人だけだ。すぐに大軍を動員できるフランス軍と戦えば、いたずらに死者を増やすのみであって、何も得られるものなどないのだよ」


 理性ではわかっていても、いざ目の前に敵軍が出た時にその理性に従って行動できるかは、隊長の度量による。それは個人に留まらず、部隊全員の意思統一も図る必要があった。目の前にいる3人は、それが出来る人物だとフリッチュは固く信じていた。


「相分かりました、閣下の期待に我が部隊は答えましょう」

 

 3人のリーダー格とも言うべき人物が、フリッチュの指示に従うことを同意しながら、他の2人に目で合図を送っていた。フリッチュを始め、国防軍首脳陣があくまでも戦争へと起こさないように細心の注意を払っていたことを知っていたからである。大軍を前にそそくさと逃げることには、あまりしたくないがそうも言ってはいられない事は分かっている。


「ところで、いつ進駐するのです?」


 ふと思い出したように、1人が一番大事なことを陸軍総司令官に聞いてきた。


「…実は時間がない、3月7日だ」


 あまりにも早すぎるという反応であった。川を渡るにも、


「…その頃は、ライン川はまだ冷えてますな」


「あぁ、そうだな。諸君の身体も心も冷やすことになり申し訳ないが、諸君には最善を尽くしてもらおうか」


「はっ、了解いたしました!」


 この作戦には、1カ月の準備期間すら与えられていなかった。それは、ドイツ国内にいるであろうフランスをはじめとする各国のスパイ達に、状況を悟られて本国へ報告される前に電光石火で決めてしまう必要があったからである。必要な物資を最低限にした事の1つの理由として、こうした者たちに悟られないようにするためであった。物資の動きは、彼らが情報を得るための格好の餌食なのである。なかには気付く者もいるかもしれないが、情報解析の時間を与えてやる必要はない。


「どっちに転ぶやら…」


 ため息交じりのフリッチュであったが、彼にはまだ他の部隊の大隊長に作戦を通達する役目がまだ残っていた。

 

―こうして、ラインラントへのドイツ軍の進駐が着々と進んでいったのである。

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