準備 5
―ベルリン、国防大臣室
「フリッチュ君、さぁ質問に答えてもらおうか」
フリッチュは、突然国防大臣のブロンベルクから呼び出しを受けた。フリッチュだけでなく、参謀総長のベックも同席している。
「大臣!その発言はどういうことですか!」
「参謀総長、私は君にではなく陸軍総司令官殿に聞いているのだ」
「ですが、ラインラントに進駐すれば条約違反になってしまう!」
「勘違いするではない、参謀総長。誰もそうするとは言っていない。あくまでも質問だ」
「そのつもりでの質問とは到底思えませんぞ!」
フリッチュが反応する前に、ベックは大臣の質問に反発していた。元々性格的にもブロンベルクとはうまくいっていなかったこともあり、お互いにあまりいい印象を持っていない。見えない対立心が、さらに反発を呼び込んでしまっている。
「大臣、もしそのようなことをすればドイツは戦争に負けますぞ!」
「それをどうにかするのが参謀総長の役目じゃないかね」
「初めから戦争に負けると分かっていて開戦するようでは、参謀総長の役職なぞ糞くらえってんだ!」
「そう感情的に熱くなってしまうようでは、職務を果たせないのではないかな」
売り言葉に買い言葉である。
「大臣がしっかりしてれば、俺の苦労も少なくて済むんだ。このタイミングでラインラントに進駐なぞ、愚か者がやることだ!」
「何を言う、これはドイツの栄光のために必要な事なのだ」
「はんっ、栄光が」
「…参謀総長、落ち着くのだ」
さらに毒舌の応酬が続くかと思えた時、それまで黙っていたフリッチュが隣にいる同僚を宥めた。向かいにいるブロンベルクもまた、フリッチュの言葉で矛先を収めることにしたようである。
「さぁ、答えてもらおうか」
「…3日ですな。歩兵大隊、砲兵中隊をそれなりの規模で動かすとなれば、少なくとも3日はかかるでしょう」
「ふむ、そんなにかかるものかね…。分かった、では総統閣下にそう伝えておこう」
ブロンベルクは陸軍総司令官の答えに多少は不満を抱いたが、納得はしていた。フリッチュの言う通り、それなりの人数を送り込む必要はあるのだし、そうなればそれだけ時間がかかるのは仕方あるまいと思ったのだ。
2人を退室するよう促すと、フリッチュが再び発言した。
「大臣、1つお聞かせください」
「何かね」
「もし、フランス軍が反発してきて侵攻すればどうされるつもりですか」
「…侵攻は無いはずだ」
「ですが」
「…もしそうなれば、ラインラントからは撤退する。そのように進言はしておこう。これで文句はあるまいな」
「…は、失礼致します」
大臣室から離れ、司令部に向かう途中でベックは相変わらずキレていた。
「フリッチュ!貴様も貴様だ、なぜもっと強く反発しない」
「…仕方あるまい、プロイセン軍人は政府に逆らわないものなのだ」
「ふんっ、戦争がしたくてしょうがない連中にとったら便利な言葉な事だ!」
「まぁ、少しだけ逆らったがな」
「なに?」
ベックが振り返ると、フリッチュはこう続けた。
「3日って答えただろう。実はな、もしうまくいけば2日でもいけると思うのだ」
「では、なぜ」
「2日だと、週末で全てをこなせると思って慎重にならないだろうと思ったのだ。3日であれば、土曜に動かし始めても防衛体制が整う前に向こうから攻められる可能性を捨てきれなくなるのだ」
フランス政府と軍は、週末になると完全に休暇に入ってしまう。そのため、土曜日曜に事が起きても、すぐに対応が出来ない。だからフリッチュは1日余分に増やして、対応が出来るように示したのである。これで、少しでもナチスが足踏みすることを願っての発言であった。
「そう上手くいくものかね」
「いや、無理だろう」
ベックの質問に、フリッチュは苦笑いせざるを得ない。
ドイツの国防体制を強固のものにしようとしているナチスにとって、ラインラント進駐は命題であった。だからこそ、イギリスや他の国々に秘密裡に通達し、フランス軍が反発して侵攻してこないよう対策しているのだ。
おそらく、手ごたえがあったのだろう。連合国の盟主・イギリスはドイツに多額の資金を投資していたこともあり、ドイツが崩壊してしまう事は避けたかったのだ。ナチスはイギリスに、今現在のドイツにとって一番の脅威であるフランスの手綱を引く役目を負わせたのだった。




