影と光の境界線
ある町の住宅街、静かな夜の空気に、シャーペンの芯が紙を擦る音だけが小さく響いていた。二月も半ば、外は凍てつくような寒さだ。
一ノ瀬陽葵は、机の上の問題集を見つめたまま、大きく息を吐き出した。時刻は午前三時を回っている。喉の奥がツンとして、目の前の文字が歪んで見える。
「……私、何してるんだろう」
ぽつりと漏れたその言葉は、誰に聞かせるわけでもない、自分自身への問いかけだった。
双子の姉である陽子は、同じ名門高校への推薦入学をあっさりと決めている。彼女は努力という言葉を一度も口にしたことがないのに、いつも軽やかに、私よりずっと先を歩いている。
リビングでは、陽子の合格を祝って両親が楽しそうに笑い声を上げている。「一ノ瀬家は才能に恵まれているわね」と、母は誇らしげに語る。その言葉を聞くたび、心の中に黒い澱のようなものが溜まっていく。
……たしかに、地頭がいいとか、生まれ持ったセンスだとか、そういうものが存在するのも事実だ。でも、本当に「天才」と呼ばれる人たちは、その才能にあぐらをかいてなんていない。彼らが積み上げている努力は、凡人の想像を絶するほど深く、そして地道なものだということを、私は知っている。
姉である陽子が、一体どれほどの熱量で自分の壁を超えようとしているのか、私には測り得ない。ただ、私にできるのは、姉の影に隠れて、誰よりも泥を啜り続けることだけだ。
学校に行けば、推薦で合格を決めた友人たちが、春休みの旅行計画や、入学後の部活での話に盛り上がっている。彼らの「終わった」という解放感に満ちた笑い声が、一般受験という過酷な試練を目前に控えた私の耳には、残酷なほど遠く聞こえる。
先日、そんな彼らの一人から投げかけられた無邪気な言葉も、今でも胸に刺さったままだ。
「ひまりっていいなー、頭が良くて羨ましい! 天才肌だよね、本当に羨ましい!」
その笑顔を見ながら、私は作り笑いを浮かべるしかなかった。
(羨ましい? ……何も知らないくせに。)
心の中では、毒づくような冷たい思考が渦巻いていた。
(……何にもやっていないから、できないんじゃないの? 私がどれだけ睡眠時間を削ってやってきたか、知るはずもないくせに。もともと不器用で、人一倍時間をかけないと人並みにすらなれない私。それを隠すためにどれだけの努力を積み上げてきたか。努力した結果を『才能』っていう綺麗な言葉で塗りつぶされるのが、何よりも悔しい)
周囲は春の陽気を待ちわびているけれど、私だけが、まだ何一つ確定していない真っ暗なトンネルの中にいるみたいだ。
「やめたい……もう、全部放り出してしまいたい」
心が折れそうな衝動に駆られ、ひまりは思わずペンを置いた。ふと、ペン立ての奥にひっそりとしまってある、小さな手作りのお守りが目に入る。
それは小学生のとき、転校してしまう前に一番仲が良かった男の子が、「ひまりはいつも一生懸命だから、これあげる」と言って手渡してくれたものだった。
あの頃の私は、今よりもずっと明るくて、どんな小さなことでも笑い飛ばせるような女の子だった。それでも、何をやっても空回りばかりしていた私を、彼は誰よりも見ていてくれた。私の小さな頑張りを見つけては、素直に凄いと笑ってくれた。彼が私の何に惹かれていたのか、当時の私には分からなかったけれど、あのまっすぐな視線だけは、今でも不思議と鮮明に覚えている。
もう何年も会っていないし、彼が今どこで何をしているのかも分からない。けれど、色褪せたお守りを見つめていると、当時の彼が私を信じてくれた温かさが、胸の奥にじんわりと蘇ってくる。
(……こんなところで立ち止まってたら、あの時に笑われちゃうな)
周りが春の陽気を感じている間に、私は冬の冷たさを抱えたまま、この問題集と戦い続けるしかない。誰かに期待されているわけじゃない。それでも、私は私を諦めたくない。
(まだ、やめられない。ここで逃げたら、今日まで私が積み上げてきたこの『必死さ』が、本当に消えてなくなってしまう)
ひまりは震える手で、再びペンを握り直した。
姉と同じ場所へ。才能なんてなくてもいい。この血が滲むような努力の積み重ねこそが、私の「芯」なのだと証明するために。
ひまりは、もう一度だけ参考書に目を落とした。名門高校への扉を開くための、孤独で静かな戦いは続いていく。




