【04】再会
「……で、あなたはいつからデイビッド・ドゥカプニーになったのよ?」
そう呆れ顔で肩をすくめたのは、ダイアナ・エヴァンスであった。
ブロンドの短い髪の毛をしっかりとなでつけた、いかにもお堅い印象の彼女はクーパーとは同期である。
もっとも仲の良い同僚といえたが、この時の彼女の碧眼は、まるでゴミを見る目つきだった。
そんな同僚の言葉に対して、私物の入った段ボールを抱えたままクーパーは肩をすくめる。
「僕は彼になったつもりはないよ……」
彼が世にも奇妙な体験をした日の翌日だった。
彼は愚かな事に上司にすべてを報告した。完全に勢い任せで何も考えていなかった。
異世界の事や漂流物、次元の穴の事など……。
しかし、当たり前の話だが、まったく相手にしてもらえなかった。
更に教授、闇エルフ、白エルフの三人とも連絡がつかない。スマートフォンのアドレスや通話記録、手書きのメモまで消えていた。
仕方がないので彼は取り合えず、もう一度、彼らの住所を調べたが、そんな人物はこの世に存在しないという結論に至った。
記憶を便りに教授の元を直接訪ねてみたが、彼の家が見当たらない。
闇エルフや白エルフの住居を訪ねてみたが、そこにはどちらも別人が住んでいた。
「そう言えば、ダイアナ。ずっと聞きそびれていたんだけど……」
「なあに?」
彼らは今、FBIニューアーク支局の廊下を並んで歩いていた。
「えっと……あの日、君からメッセージアプリに『電話が欲しい』って、あったんだけど、あれは……僕が、その、異世界人達とあった日だけど」
「ああ……」
「用件は何だったんだ?」
ダイアナはしばらく廊下の天井を見上げながら思案したあと肩をすくめる。
「忘れちゃったわ……多分、きっと、たいした事のない話ね」
「……あはは」
何から何まで万事がこの調子である。笑うしかない。
そうして、クーパーとダイアナはエレベーターホールに辿り着く。
すると、ちょうどエレベーターの扉がひとつ開いた。どうやら上階行きの様だ。箱の中には沢山の人が乗っていた。
「それじゃあ、ゆっくり休んでね。ちゃんとカウンセリングも受けなければ駄目よ?」
ダイアナが右手をひらひらと降ってエレベーターの箱の中へと入った。間もなく扉が閉まる。
クーパーは深々と溜め息を吐いて、その隣にあるエレベーターの呼び出しボタンを押した。
そして、やがて到着した誰もいない箱に乗り、彼は一階を目指して庁舎を後にした。
ここ数日の言動を問題視された彼は、例の事件の捜査から外され、上司から休暇を取る様に言い渡されたのだった。
日が落ちた。
クーパーはリビングのソファーに座り、IPAの瓶を片手に冷凍ラザニアをフォークで突っつく。
スポーツニュースをぼんやりと眺めながら、ここ数日の事を振り返った。
誰も自分の話を信じてくれない事に関しては、そこまで腹は立たなかった。
もしも立場が逆で、同僚の誰かが異世界だとか何だとか言い始めたら、確実に正気を疑った事だろう。
それに、あの闇エルフの魔除けがなければ、自分で自分の記憶が信じられなかったに違いない。
しかし、例えそうであっても、このまま仕事に復帰するのは、どうにも難しいと彼は思った。
また、こんな事が起こってしまったら……。
積み上げていた物が、唐突に崩される。
掴んだ物が、強引に手の中から抜き取られる。
その徒労感は、思った以上に心に堪えた。
何も知らなかった事にして、また明日から頑張りましょう――などと、できるはずがない。
自分はただ真実を明らかにしたかっただけだ。それが正しい事だと信じていた。
しかし、また今回と同じ事が起こってしまうかもしれないと思うと、そのすべてが無駄に思えた。
自身を真っ向から否定された気になる。
簡単に言ってしまえば、彼は仕事に対するやりがいを見失ってしまったのだ。
「はっ。僕はこう見えて、グダグタ悩む未練がましい性格なんだよ……」
そう独り言ちた瞬間だった。
テーブルの上のスマートフォンが震えた。
知らない番号だったので無視をしていると、やがて静かになる。
しかし、少しの間を置いて、再びスマートフォンが震えだした。
「何だよ、ったく……しつこいな」
ちょうどテレビがCMになったので、電話に出る事にした。
「誰だよ?」
『ハイ。元気?』
その相手の声を聞いた途端、クーパーの酔いは一気に醒めた。
闇エルフだった。
マンハッタンの町並みは、もうすぐ訪れるクリスマスムード一色だった。
そして、それはイーストハーレムのスペイン語の看板がひしめく路地の一角に軒を構えるバーでの事。
店名は『夕暮れから夜明けまで』
その薄暗い店内に並ぶ簡素な木製の円卓や、年季の入ったカウンターはすべて客で埋まっていた。
店内の空気を満たす笑い声、グラスや食器の立てる音。
それらが静まり返ったのは、奥のステージが眩いスポットライトで照らされた瞬間だった。
その光の中に、ストゥールに腰をおろした赤いドレスの女が浮かび上がる。
闇エルフであった。
彼女は無言で店内を見渡すと、抱えていたアコースティックギターの弦を指先でしなやかに弾いた。
物悲しい繊細なアルペジオから始まったその曲は、情熱的なラテンの調べだった。
カッティングの効いたフレーズの合間にパームの打音が軽快に鳴り響く。
演奏中の彼女は、神がかった巫女の様に恍惚としており清廉だった。
しかし、フレッドを抑える左手の動きは正確無比で速く、攻撃的で、どこか狂気じみている。
やがて曲は終わりに近づき、アウトロが店内の闇に溶けて行く――
割れんばかりの拍手喝采。
それが落ち着くと、二曲目が始まった。
そこは、奥まった場所にある二人がけの席だった。
「いや。素晴らしい演奏でした」
クーパーはグラスに残ったペールエールを飲み干し、テーブルを挟んで正面に座る闇エルフに、素直な感想を述べた。
「あはは。ギターはこっちに来てから、だいぶ練習したから」
快活に笑う闇エルフ。
何でも彼女は、週末にはこの店で演奏し、それ以外では他のミュージシャンのサポートをして生計を立てているらしい。
つまり、プロのギタリストという事だ。
今の彼女はステージ衣装から白いタートルネックに、ネイビーブルーのニットカーディガン、タイトなデニムというラフな格好に着替えていた。ステージでは結っていた髪も今は下ろしている。
耳は普通の人間と同じ形だった。今日は認識阻害の魔法を使っているのだろう。
そんな闇エルフに、近くを通りかかった酔っぱらいが声をかける。
「おう、ミーシャ。今日も最高だったぜ」
どうやら、この界隈で彼女はミーシャと呼ばれているらしい。闇エルフは酔っぱらいの賛辞に気安い調子で応じる。
「また来てくれて、ありがと」
すると、酔っぱらいがクーパーに目を止めて、ミーシャの顔とためつすがめつ見比べたあとで彼女に問い質す。
「おい、この男、ミーシャのカレシか?」
「違うよ。そんなんじゃない」
闇エルフは即座に否定するが、酔っぱらいは聞く耳を持ってくれなかった。
「そーか、そーか。ついにおめえも……」
「あー、もう。大切な話があんだから、あっち言ってよ!」
闇エルフは、酔っぱらいに向かって、しっ、しっ、と右手をはためかせた。
酔っぱらいは素直に引き下がってくれたが、去り際に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「おう、にいちゃん、刺されない様に気をつけろよ! ミーシャを狙ってる奴は沢山いるからな!」
周囲のテーブルの客が爆笑する。闇エルフは酔っぱらいに向かって右手を振り上げた。
「早く奥さんのところ帰れ、バカ!」
クーパーは、その微笑ましいやり取りを見ながら考える。
今の彼女には彼が初対面の時に感じた負のオーラはまるで見当たらなかった。
どちらが素の彼女なのだろうと興味をそそられたクーパーだったが、その疑問はひとまず棚に上げて、本題に入る事にした。
「……さっそくですが、この前、あなたに紹介された白エルフさんに会ったあと、おかしな事が起こりました。それについての解説をお願いします」
白エルフと面会したあとに起こった一連の不可解な出来事に関しては、すでに電話で説明していた。
「その前に、魔除けは忘れずにちゃんと首にかけてきた?」
「ええ。電話で言われた通りに」
クーパーは、そう言ってペンダントヘッドを引き上げて見せた。
すると彼女はジントニックに口をつけてから、恐ろしい事を言い始める。
「まず、結論からいえば、あなたは記憶を改竄されたの」
「記憶を……改竄……?」
「そう。あなたが駐車場の車の中で襲われたという、蜘蛛みたいなヤツは情報を喰らう人工精霊だね」
何でも、その人工精霊は、飼い主が指定した標的の所持している特定の情報をすべて食べてしまうらしい。
「……本当だったら異世界に関する情報と、あたしや教授、白エルフと会って話した記憶は全部、忘れるはずだった」
クーパーは、ふと教授の言葉を思い出す。
『どうせ全部、忘れるか』
「……なるほど、もしかすると魔除けは、それを防ぐために?」
闇エルフは頷く。
「でも、魔除けでも、すべては防ぎきれなかった。結果として、あなたの頭の中の異世界や、あたし達の記憶は穴だらけになった。その穴を補完する形で偽物の記憶が作られたって訳」
「だから、ロバート教授や、ブルックリンのあなたのアパート、それから|白エルフのモーガンさんを尋ねても、無駄だったという訳ですね?」
「そう。教授の名前はグレッグソンだし、あたしの住んでるおんぼろアパートはブルックリンじゃなくて、このすぐ近くだし、白エルフの名前もモーガンじゃない」
「……それで、この記憶の改竄を行ったのは、誰でしょうか?」
「あの人工精霊を操る事自体は、かなりの技術が必要だけど、魔術の心得さえあれば誰にでも可能だよ。でもきっと、異世界の記憶を消して回ってるのは、大きな組織の連中さ」
「組織……」
「あたしもよく知らないけどね。あんたがあのとき冗談で『JFKを殺した連中』とか言ってたけど、あながち間違いじゃないかもしれない」
闇エルフは苦笑して、ジントニックをぐいと呷ってからグラスを空にした。そして小首を傾げる。
「飲まないの?」
「ええ。ではペールエールを」
「……そう言えば、電話をかけた時、随分酔ってたみたいだったけど」
「お恥ずかしい」
闇エルフはくすりと笑って、ジントニックとエールを注文する。
「今日は長話になりそうだから、あまり飲み過ぎないでおくれよ?」
「ええ。心に止めておきます」
「……それはそうと、あんた仕事は? 明日は大丈夫なの?」
「実は……」
クーパーは異世界関連の話を全部、上司に報告した結果、狂人扱いされて休職中である事を告白した。
すると、闇エルフは腹を抱えて笑い出す。
「だから言っただろうに……警告はしたよね? あはははは」
「すいません」
「ていうか、何で言っちゃうの。信じる訳ないでしょ? 普通」
「何か、凄い体験をしたあとだったから興奮して、つい……」
「ははは。あんた真面目そうに見えて、ぶっとんでるね。気に入ったよ」
「それはどうも」
それから飲み物が運ばれて来る。グラスをあわせて、お互いに喉を湿らせる。
「……で、何の話だっけ?」
「なぜあなたは例の本が、カリオンの事件に関わる物だとわかったのか……という話です。今日は、それを聞きに来ました」
「そうだったね……」
闇エルフは目線を天井付近にさ迷わせる。
「ニュースで見たけど、カリオンのチェーンソー男の格好は、迷彩柄のコートを着て身長は二メートルくらいあったのよね?」
「ええ。目撃者がそう証言しました」
「……それでね、思い出したの」
「何をです?」
「あたし、その事件の犯人のチェーンソー男と向こうで会った事がある」
「本当に?!」
クーパーは目をむいて驚く。
「だから、あんたが持って来たあの異世界の本を見た瞬間ピンと来たの……“ある事件”って、同じく異世界がらみのカリオンの事件の事なんじゃないかって」
「なるほど。そういう事でしたか……」
「最初、テレビを見た時は、かなりゾッとしたわ。向こうからあたしを追って来たのかもって。仕事を放り投げて他所の国へと引っ越そうかと思ったぐらい……」
「でも、チェーンソー男はあなたを追って来た訳じゃなく、これから異世界へと向かって、向こうを発つ前のあなたに会うところだったと」
「あんたの話を聞く限りだとね……」
「では、差し支えなければ、向こうで、そのチェーンソー男と会った時の事を教えてください」
「もちろん。今日はそれを話したくて、この店にあんたを呼んだんだから……」
そう言って、闇エルフはジントニックで喉を潤した。
そこでクーパーは周囲を見渡す。
「でも大丈夫ですかね? 今更な気もしますが……」
どうやら店内のほとんどの客が闇エルフとクーパーの事を気にしている様だ。
しかし、彼女は何て事のない風に肩をすくめて笑う。
「どうせ、誰も信じやしないって……それに信じたやつがいたって、組織のヤツらが勝手に何とかするよ」
「あはは……そうですね」
「じゃあ、どこから、話そうか……」
そして、闇エルフの長い昔話が始まった――