【01】逃亡者
木立の合間を窮屈そうに練り歩く巨体が、地面に転がる丸太を踏み折った。
それはイボだらけの緑色の肌に覆われた鋼の様な筋肉を身にまとい、魔獣の毛皮を腰にまとっている。
鬣の様な赤毛、額には二本の角、縦に割れた瞳と鷲鼻、食べかすの腐臭漂う口腔には、沢山の牙が並んでいた。
悪鬼オーガである。
その恐るべき巨体から逃げ惑うのは、フードを被った黒装束であった。
背負い袋と七弦の琵琶を担ぎ、腰にはベルトポーチと三日月刀を提げ、木々の合間を通り抜ける。
張り出した根の這うでこぼこの地面を疾駆する素早い身のこなしは、まるで兎の様だった。
その黒装束に向かって、オーガは丸太と巨大な骨を蔦で束ねた棍棒を振り下ろした。
しかし、黒装束はするりと飛び退いてかわす。背後で苔むした土と木片が爆散した。
オーガは苛立った様子で牙をむき出しにして吠える。
そのまま行く手を阻む木の枝をへし折りながら、逃がした獲物を追跡する。
その後も、黒装束はオーガの振るう棍棒を飛び跳ねて屈んで、時には大樹の幹を盾にして、かわし続ける。
オーガは更に苛立ち完全に冷静さを失う。
やがて薄暗い森の中を逃げ惑う黒装束の前方に日の光が射した。
黒装束はオーガの振るう棍棒を屈んでかわし、背後から迫る大きな左手から逃れ、光の中へと飛び込んだ。
そこは砂利と砂檪に覆われた川原だった。
黒装束は川縁へと駆ける。
そこには、薄汚れたローブ姿の闇エルフの少女が待ち構えていた。
黒い長髪で、まだ幼さの抜けきらない顔立ちをしている。
身長には不釣り合いな大きさの長杖を持って呪文を口ずさんでいた。
「姫様!」
黒装束が少女の元へとやって来て、担いでいた荷物を素早く地面に下ろした。
すると、オーガが森の向こうから姿を現す。
次の瞬間だった。
少女の唱えていた呪文が完成する。オーガの右足の親指に地面から突如、伸び始めた植物の蔦がぐるりと巻き付いた。
オーガが右足を持ち上げようとした瞬間、つんのめって四肢を地面に突く。
それよりも先に黒装束がオーガへと突っ込んでいた。
「いやあああああっ!」
雄叫びと共に三日月刀を抜いた。
オーガは三日月刀を水平に掲げた黒装束の接近に気がつく。同時に、そのままの姿勢で右手の棍棒を無造作に振るった。
黒装束は低空を翔ぶ燕の様に、その一撃を易々と潜り抜ける。
オーガの喉元へと潜り込んだ。
三日月刀で弧を描きながら跳びあがり、手負いの悪鬼の喉笛を深々と斬り裂いた。
怪鳥の鳴き声のごとき断末魔。
三日月刀を持った黒装束は返り血を避けて退く。オーガは白眼をむいて、地面に突っ伏す。
黒装束は息絶えた悪鬼に背を向けて、三日月刀を、ぶん、と振り、刀身についた血を払って鞘に納めた。
そうして、頭に覆っていたフードをはたき落とし、溜め息を吐いて肩の力を抜いた。
露になった相貌は短い黒髪と褐色の肌。
ぞっとするほど、整った顔立ちをした女だった。
彼女の耳は長く尖っていたが、普通のエルフのものよりも少し短く太い。
彼女は人間と闇エルフの混血であった。
その女の元へと少女が駆け寄る。
「ミーシャよ。見事な剣さばきであった」
ミーシャと呼ばれた女は、少女の方を向いて満面の笑顔で微笑む。
「はい! 姫様こそ、また一段と魔術の腕前を上げられましたね!」
その表情を見て姫様と呼ばれた少女は、ほっと肩の力を抜く。
「……しかし、オーガが棍棒を振るった時は肝を冷やしたぞ」
「あはは、あれしきの事は何ほどでもありません」
ミーシャは笑うが、姫は眉間にしわを寄せたまま首を横に振る。
「いいや。それでも、やはり不安なのだ。……そちほどの手練れが悪鬼ごときにやられるはずがないと信じてはおったが、万が一という事もある……」
「姫様の剣となり盾となるのが近衛である我が役割。そこは、なにとぞ御容赦を」
「いいや。我慢できん」
姫がミーシャに抱きつき、その豊満な胸に顔を埋めた。
「……みんないなくなった。残ったのは、そちしかおらぬのだ。余をひとりにしてくれるなよ」
「姫様……」
ミーシャも姫の華奢な肩を優しく抱きしめて微笑む。
「肝に命じ、己が役割をまっとういたします」
「うむ……余も更なる研鑽を積もう。さすれば、そちを危険な目に合わさずに済む」
「頼もしい限りです。ミーシャは、そんな姫様に御使いできてとても幸せです」
「ふふふ。……そうであろう?」
姫がミーシャを見上げて得意気な顔をする。
「ええ。これからも、末永くよろしくお願いいたします。我が主よ」
ミーシャは片膝を突いて、姫の手の甲に口づけをした。
そして、二人は目を合わせて同時に吹き出す。
「……では、もう少し下流へまいりましょう。そこで、本日は夜営を……ここでは、悪鬼の死骸につられて他の魔物がやって来るやもしれません」
「うむ」
姫とミーシャは川縁に沿って下流へと下り始めた。
この世界の暦で一〇二四年の冬。
世界でもっとも広大な教圏を持ち、絶大な力を持つ神聖イトー教会が軍事力を盾に大陸の東端にある闇エルフ達の小国オルエグルムへと、とある要求を突きつけた。
それは、当時十二歳になる幼き王女ロザリアの身柄の引き渡しであった。
教会によると、このロザリアこそ千年以上前に文明を崩壊へと導いた魔王ゲデルマの転生体であるというのだ。
魔王はいずれ甦り、再び世界の敵となる。
その魔王を倒した勇者イトーの使徒を標榜する教会曰く『魔王を討ち、世界を守るのがイトーの子である我らが使命である』との事らしい。
そして、勇者イトーの妻のひとりであり、未来を見通す力があったと云われる大賢者メ二レスの予言書によれば『十一の月と七つの晩を越えた後に世界へといでた三つの禍星を持つ者が、新たな暦の始まりよりおよそ千年後に魔王として覚醒する』とされていた。
確かにロザリアの右脇腹には三つ横並びになった痣がある。そして誕生日も予言書に記された期日に当てはまった。
痣の事は、オルエグレムの王族や一部の重臣達の間でずっと秘密にされてきたのだが、どこからか教会側に漏れて今回の一件へと繋がったという訳だった。
王は悩み抜いた末に、娘であるロザリアを教会に差し出す決心を固めた。
オルエグルムは、外交と交易で生き延びてきた弱小国家である。とても娘を庇って教会を相手にするだけの力はなかった。
また守るべきものが魔王の転生体だというならば教会だけではなく、世界を敵に回さなければならない。
多くの国民の事を考えるならば、非情ではあるが仕方のない選択であったと言えよう。
しかし、ひと握りの者達がこれに反発。王女を連れて国外へと逃げ出した。
かくして王女達は、転移術師の力を借りて異世界へと逃げる事にした。
「我々が今いるのはゲルトナ台地の南側です……」
ミーシャが揺らめく焚き火の炎に照らされた地図を指差す。
「ふむふむ」
それを正面から姫――ロザリアが覗き込んでいる。
彼女達はベリントから南下して、北岸と内陸を遮るホロンボロス山脈を越え、南の山肌から突き出たゲルトナ台地の上にいる。
「明日は、ここから台地の東の岸壁沿いにある崖道を下り、魔女の庭へと入ります」
「魔女の庭とは何だ?」
と、ロザリアは首を傾げる。
「その昔……死の呪文と全ての魔法を無効化する大鴉の仮面の力で、この近辺を荒らし回った人喰いの魔女の根城があったと言われています」
「人喰い……それは、まことか?」
ロザリアの顔色が一気に青ざめる。
ミーシャは苦笑しながら頷いた。
「ええ。言い伝えでは、そうなっていますね」
「……で、その魔女は、今は……?」
「大丈夫ですよ姫。その魔女は、ずっと昔、ひとりの騎士により討たれました」
「な、ならば、良し……」
胸元に手を当てて、ほっとするロザリア。しかしミーシャが付け加える。
「……ですが魔女の遺体は、彼女の信奉者がどこかに持ち去ってしまったために、未だに見つかっていません。ゆえに実はまだ魔女は生きていて森の何処かに潜んでいるという噂もあります。最近でも、森で大勢の冒険者が失踪したのだとか……近隣の者達は、これを魔女の呪いであると、噂しあっているそうです」
「ひっ……呪い」
かすれた悲鳴をあげ、ロザリアは表情を歪ませた。
「ええ。魔女の庭には、台地に比べて強力な魔物はいないと聞きましたが……その話が真実だとすると気は抜けませんね」
「ふ、ふん……何にせよ魔女の庭まで降りれば水竜の滝はもう少しなのだろう?」
ロザリアは地図に目線を落とす。
ミーシャは遠い眼差しで答える。
「そうですね。滝壺に無事着ければ、長かった私達の旅も終わりになります」
「うむ……」
彼女達は次の満月の晩に、そこで転移術師と落ち合う予定でいた。
「時に、ミーシャよ」
「何でしょう、姫様」
「久々に、そちのゴルンボが聴きたい」
ゴルンボとは闇エルフ族に伝わる七弦の琵琶の事だ。
その申し出にミーシャは困り顔をする。
「……不用意な音を立てると、魔物が寄って来るやもしれません。安全な場所につくまで、今しばらく我慢してください」
「やはり、駄目か?」
涙目の上目使いで懇願するロザリア。ミーシャは咳払いをして目を逸らし、きっぱりと断る。
「申し訳ありません」
「……そうか。ならば仕方がない……我慢する」
しょんぼりと肩を落とすロザリア。
その姿を見て、ミーシャは「ふう」と溜め息を吐く。立ち上がり、ゴルンボを手に取る。
するとロザリアは、ぱっと顔を上げて瞳を輝かせた。
「一曲だけですよ?」
結局、また甘やかしてしまった。
ミーシャは心の中で苦笑する。そして、手早く調律を済ませると、ゴルンボの弦をかき鳴らし始める。
「うわあ……」
曲が始まった瞬間、ロザリアの渋面が笑顔に変わる。
曲目は故郷に伝わる民謡だった。
ロザリアは気持ち良さそうに瞳を閉じて、拍子に合わせながら肩を揺らし始める。
そんな主の様子を見て、ミーシャの演奏は更なる熱を帯びる。
やがて曲が終わり、たったひとりの観客の拍手だけが、ぱらぱらと闇夜に鳴り響く。
「やはりミーシャのゴルンボは素晴らしい」
「恐れ入ります」
ミーシャはうやうやしく礼をする。
「なあ、ミーシャよ」
「何でしょう?」
「もしも、異世界へと逃げ延びて、落ち着いたら余にもゴルンボを教えて欲しい」
「よろこんで」
「余もミーシャみたいに弾ける様になるだろうか……」
「当然ですよ。姫ならきっとあたしなどよりずっと上手くなれます」
その言葉を聞いたロザリア姫は屈託なく微笑む。
「うむ、そうかっ。……では、約束だぞ」
「はい! それでは姫様。そろそろ先にお眠りください」
「えぇ……まだ余はそちと話をしていたい……」
ロザリアは、不満げに唇を尖らせた。
こうして二人は、順番に睡眠を取って朝を迎えた。




