後編
そして、とうとう春が来た。
私は学院三年生になった。
ついに恐れていた原作開始の日である。
朝から、私はどうにも落ち着かなかった。
今日、ヒロインが入学してくる。
学院の無駄に豪華な正門を、新入生が次々とくぐっていく。
ヒロインの特徴は嫌というほど覚えている。
栗色の髪に、大きな緑の瞳。小柄で、春の日差しのような笑顔。
名前はミア。
平民出身ながら希少な光魔法の適性を認められ、特待生として学院へ入ってくる少女。
そして入学初日、校舎の階段で王子と派手にぶつかるはずなのだ。
舞い散る教科書。
偶然触れる手。
驚いて見つめ合う二人。
そこから私の破滅の物語が始まる。
「……来ないわね」
一時間経った。
新入生はすべて校舎へ入ってしまっていた。
「リディア、何をしている?」
「ひゃっ!」
背後から突然声をかけられ、思わず肩を跳ねさせる。
振り返ると、相変わらず隙のないアルベルト殿下が立っていた。
「殿下こそ、なぜこちらに?」
「新入生代表への挨拶が終わったから戻るところだ」
「もう終わったんですか?」
「長く話しても誰も聞かない。要点だけ伝えて三分で終えた」
「……そうですね」
この人、会議だけでなく新入生への挨拶までコストカット(時短)しやがりました。
原作では確か、王太子らしく荘厳な挨拶をしていたはずなんだけど。
「それより、来週の予算会議だが、医療費の伸びが少し気になる」
「まず年齢別に分けてください。全体平均だけ見ても原因は分からないと思います」
「俺もそう思っていた。あと地域別も欲しいな」
「なるほど。それなら疾病別も――」
などと、極めて実務的な話をしながら、私は殿下と歩き出した。
その時、校舎の向こうを、新入生らしい小柄な少女が友人と楽しそうに話しながら通り過ぎていった。
栗色の髪。
緑の瞳。
私は一瞬だけそちらへ目を向けた。けれど殿下が、
「薬代なのか、診療件数なのか、それとも高齢者比率なのか、切り分けたい」
と言ったので、
「でしたら、三つにセグメントして比較しましょう。原因が見えた段階でKPIを設定すれば――」
と、私はすぐに仕事へ意識を戻した。
「ああ。その方がいい」
横で答える殿下に集中するあまり、少女のことは、考える余裕もなくそのまま忘れてしまった。
◇
驚くほどあっさりと、一か月が過ぎた。
何一つ、これっぽっちも事件は起きなかった。
三か月経っても、相変わらず何も起きなかった。
半年も経つ頃には、さすがに私も腕を組んで首をかしげるようになった。
おかしい。
原作では、この頃にはヒロインは攻略対象の半分と知り合って、深い仲になっているはずなのだ。
王子とは夕暮れの庭園で二人きりになり、図書館では偶然同じ本へ手を伸ばし頬を染め、夏の舞踏会ではロマンチックなダンスまで踊っている――そんな展開だった。
ところがアルベルト殿下は、相変わらず私と予算の話をしている。
「今年の税収見込み、どう見る?」
「景気の先行指標が少し悪いので、前年並みで置くのは危険です。三パーセントほど下げておいた方が安全かと」
「俺もそれくらいを考えていた。歳出側で優先順位をつけるか」
「大型案件はフェーズを分けませんか? 一気にコミットすると、税収が下振れした時に身動きが取れません」
「そうだな。港湾拡張は第一フェーズだけ今年度で実施。第二フェーズは来年度判断にしよう」
「マイルストーンは?」
「半年後。その時点で物流量と税収をレビューする」
「妥当だと思います」
ちょっと、王太子殿下。
ビジネスの話をするのは別にいいのよ。
私も、楽しいしさ。
でも、それよりもあなた、なんでヒロインと恋をしてないの?
そもそも、ヒロインはどこにいったのよ?
一度くらい姿を見ているはずなのに、まったく思い出せない。
でも、考えてみれば当然なのかもしれない。
ゲームはゲームだ。
ヒロインにだって、この世界で生きる本人の人生がある。
実際に暮らしてみた結果、王子とは違う誰かを好きになった可能性もあるし、そもそも恋愛に興味がないかもしれない。
目の前にいるのは、ゲームの駒ではない。
生きた人間なのだから。
「……そういうこともあるわよね」
「何が?」
「何でもありません」
「そうか。ところで、この人員配置なんだが」
「また仕事ですか?」
「嫌なら他へ回す」
殿下にそう言われた瞬間、私はすかさず手を伸ばし、資料を受け取っていた。
中身を一瞥する。
「……このアサイン、おかしくないですか?」
「だろう?」
「財務に二人いるのに、現場の実務側が一人しかいない。完全にキャパオーバーです」
「俺もそこが気になった」
「一人リソースを追加しましょう。あと、財務から一人こちらへスライドできませんか?」
「できる。人事局へ話しておく」
「では、それで」
話が終わった。
私は資料を閉じた。
「…………」
「どうした?」
「いえ」
最近、こんなのばっかりだ。
説明がいらない。
私が問題点を指摘すると、殿下はすぐ意図を理解する。
逆も同じだった。
殿下が数字を一つ示せば、何を気にしているのか分かる。
面倒な前置きも、無駄な根回しもいらない。
前世では、一時間かけて説明して、ようやくスタート地点に立てるような不毛な会議がいくらでもあった。
それがこの人とは、わずか十分で終わる。
非常に楽だ。
今私、すっごく充実してる。
……いやいや。
違う!
私はこの人から逃げる予定だったでしょう?
「……資料を拝見させていただきます」
「もう見ただろ」
「そうでした」
クッ! どうしても仕事が気になってしまう骨の髄までワーカーホリックの自分が、ほんの少し嫌になった。
◇
その後も、原作らしい恋愛イベントは何一つ起きなかった。
その代わり、アルベルト殿下との仕事だけは恐ろしいほど順調に進み、気づけば互いに短い言葉だけで意図が通じるようになっていた。
「この案件は一度ペンディングで」
「では先にステークホルダーを整理しましょう」
「マイルストーンは三か月後だな」
といった具合に、いつの間にか二人の会話には異世界とは思えない現代の会議室じみたビジネスワードが当たり前のように飛び交うようになっていた。
異世界に転生して良かった。
二度目の人生にして、ようやく自分のやりたい仕事を、思う存分やれている。
私は今の暮らしに、これ以上ないほど満足していた。
残すところは、あと一つ。
◇
そして季節は巡り――私は十八歳、学院卒業の日を迎えた。
とうとう来た。
原作最大のイベント、卒業記念舞踏会の夜。
ここまで物語は、原作から大きく外れている。
ヒロインとの恋愛イベントも、私による嫌がらせイベントも起きていない。
それでも最後の最後に、抗うことのできない強制力で何かが起こるかもしれない。
むしろ、ここで婚約を解消してくれるなら、当初の目的は達成できる。
野垂れ死にさえ回避できればいい。
国外追放だけは勘弁してほしいが、ただの婚約解消なら歓迎だ。
私は覚悟を決めて、華やかに着飾った人々で埋め尽くされた舞踏会会場へ入った。
やがて銀髪をきれいに整えたアルベルト殿下が壇上へ上がる。
来た。
原作ではここで、
『リディア・エヴァンス! 貴様との婚約を破棄する!』
と大勢の前で宣言される手筈だ。
私は、いつでも頭を下げられるよう身構えた。
殿下が口を開く。
「卒業生諸君。三年間、ご苦労だった」
会場から拍手が起きた。
「これからそれぞれの道へ進むことになる。学院で得た縁と知識を、今後の人生でも大切にしてほしい」
今度は、万雷の拍手。
「以上だ」
殿下は笑顔を振りまきながら、何事もなかったかのように壇上を降りた。
私はその場に凍り付いたまま待った。
まだ何かあるはずだ。
一分。
二分。
五分。
アレ? 何もないの?
殿下は至って普通に、楽しそうに友人たちと話している。
やがて私に気づくと、こちらへ真っ直ぐ歩いてきた。
今度こそ。何かが起きる。
「リディア」
「はい!」
「卒業おめでとう」
「……ありがとうございます」
「来週の午前中は空いているか? 北部港湾の責任者が王都へ来る。君にも会議へ出てほしい」
「…………」
違う。
絶対に違う。
卒業舞踏会とは、来週の仕事の予定を入れるためのスケジュール調整の場ではないはずだ。
「殿下」
「何だ?」
「何か、私にお話はありませんか?」
「今したが?」
「そうではなくて……もっとこう、私たちの人生に関わるような、重大な発表事項というか、その……」
殿下は少し考えた。
「結婚式の日取りなら、来月正式に決める予定だ」
「そっちですか?」
「他に何がある?」
「……何でもありません」
言えるわけがない。
今日、私との婚約を破棄しませんか。
などと、自分から退職を願い出るようなことは。
◇
そして、それから半年。
なぜか結婚式の日が来た。
本当に、なぜ。
途中で何度も考えた。
おかしい。
私は王太子妃になる未来から、全力で離れる予定だった。
静かな領地へ引っ込み、できれば畑でも眺めながらのんびり暮らすつもりだった。
なのに今、私は最高級のシルクで仕立てられた純白のドレスを着ている。
大聖堂には王国中の名だたる貴族が集まっている。
父は泣いている。
母も泣いている。
兄なんぞ、ハンカチを握りしめて号泣している。お兄様、シスコンかよ。
そういえば、ここ二年ほどは殿下の相手が忙しくて、まともに家族と交流できてなかったかも、などと少しだけ罪悪感を感じてしまった。
すまない、兄よ。かわいいお嫁さんがいるんだから、そっちをかまってやってくれ。
隣に立つアルベルト殿下といえば、それこそ満面の笑みを浮かべて、これ以上はないくらい満足そうな顔をしている。
「リディア」
「はい」
「ぼんやりしているぞ」
「少し、これまでの人生を振り返っていただけです」
「そうか」
祭壇の前で厳かに誓いを交わす。
指輪を受け取る。
地鳴りのような祝福の拍手が大聖堂を満たす。
全部、終わってしまった。
私は正式にアルベルトの妻となった。
つまり次期王妃確定だ。
破滅回避をしていたはずなのに、どうしてこうなったのだろう。
祝福の声を浴びながら大聖堂の長い階段を降りていると、隣を歩くアルベルトが、ふと私の耳元へ顔を寄せた。
やめて。
その低音の響きが心地よすぎて、脳死する。
「そういえば、ずっと聞こうと思っていたんだが」
「何でしょう」
「君、前世でも仕事を抱え込むタイプだっただろう?」
突然のあまりに突飛な言葉に脳の処理が追いつかず、私は足を止めかけた。
「…………はい?」
けれどアルベルトは何事もなかったように前を向いたまま歩き続ける。
つられて、私も足を動かした。
「最初の会議で、俺が『ボトルネック』と言った時、君、一瞬固まっただろ。その次が属人化。少し後にはリソースだのKPIだの、ずいぶん景気よく出てきた」
「…………」
「一度、ロードマップとも言ってたな」
頭の中で、それまで別々に転がっていた記憶の断片が、一斉に一つの線でつながっていく。
「……え?」
「気づくの、遅すぎないか?」
「え?」
「俺は二回目くらいで気づいたぞ」
「えええええええ!?」
思わず大きな声が出た。
大聖堂の前にいた人々が、何事かとこちらを見る。
「声が大きい」
「だ、だって!」
慌てて周囲を気にして声を落とした。
「殿下も転生者なんですか!?」
「今は夫だ」
「そこは今どうでもいいです!」
「ひどいな」
「前世では何をしてたんです!?」
「会社をやってた」
「会社?」
「学生の頃、友人と始めたベンチャーだ。最初は三人だったが、最後はそこそこの規模になった」
「社長!?」
「一応な」
会社名を聞いて、今度こそ私は本気で固まった。
前世の私でも知っている。創業から数年で一気に業界を駆け上がった、新進気鋭の有名ベンチャーだ。
その若き社長は、確か経済誌にも何度も取り上げられた、時代の寵児だったはずだ。
……あんただったのかよ。
「まあ、乗っていた自家用ジェットが墜落してな。気づいたらこっちだった」
「死因まで社長っぽいの腹立つんですけど」
耳元で楽しげにカミングアウトする殿下の姿は、周りから見れば、さぞ仲睦まじい新婚夫婦に見えていたに違いない。
しかし、私は頭を抱えて、その場で悶絶しそうだった。できればここからドレスを引きずってでも走って逃げたい。
全部。
全部そういうことだったのか。
妙に数字へ食いついたこと。
権限委譲が通じたこと。
属人化を嫌ったこと。
無駄な会議を片っ端から短くしたこと。
三時間しか寝ていない私を、問答無用で帰宅させたあの完璧な労務管理のこと。
そして、KPIと言った私へ、KGIから決めろと即座に返したこと。
「じゃあ……宮廷物資局も?」
「ああ」
「王立病院も?」
「うん」
「港湾改革まで?」
「それも」
「全部分かってて私に仕事を振ってたんですか!?」
「君、得意だっただろ?」
「そういう問題じゃありません!」
「ちゃんと人員もつけたし、予算も出した。残業も制限したし、休暇も取らせた」
「そうですけど!」
悔しいことに、本当に反論しづらい。
間違いなく、前世より圧倒的に待遇が良かったのがまた悔しい。
だからこそ余計に腹が立つ。
「私、逃げようとしてたんですよ!?」
「知ってた」
「知ってたんですか!?」
「途中からな。急に自分の仕事を手順書にして、人へ渡し始めた。あれは昇進したい人間の動きじゃない。できる奴が辞めるときの辞め方だ」
「だったら止めてくださいよ!」
「だから止めたろ?」
「え? どういうこと?」
「待遇を改善して、人をつけて、仕事を抱え込ませないようにして、辞める理由を徹底的になくしてやっただろう?」
違う、そうじゃない。
「それを囲い込みって言うんです!」
「そうとも言うな」
とうとう認めやがりましたわよ、この人。
「優秀な人間が、自分から辞めようとしてるんだ。普通、引き留めるだろ」
「私は社員じゃありませんけど?!」
「婚約者だったな」
「もっと悪いです!」
アルベルトが楽しそうに声を立てて笑った。
こんなふうに笑う人だっただろうか。
原作では、知らなかった。
ゲームの画面には、こんな魅力的な表情はなかった。
そこまで考えたところで、私はふと思い出した。
「……ヒロインは?」
「ヒロイン?」
「ミアです。光魔法の」
「ああ、奨学生の」
「知ってるんですか?」
「成績優秀だ。王立治療院への就職が決まったはずだが」
いた。
ちゃんといた。物語の裏で、彼女は彼女の人生を真面目に歩んでいたんだ。
「殿下と、その……何かありませんでした?」
「何か?」
「恋とか」
「ないな」
即答だった。
「なぜです?」
思わず訊くと、アルベルトは本当に不思議そうな顔をした。
「なぜって」
そして、私を真っ直ぐ見つめる。
深く青い、サファイアのような瞳に思わず吸い込まれてしまいそうになった。
「俺には婚約者がいたからな。こう見えても一途な方なんだがな。婚約者が理解してなくて俺は悲しい」
大げさに眉間へ手を当て、嘆かわしそうに首を振る姿を見て、そういえば前世でも女性関連のニュースは皆無だったなと、思い出す。
だからじゃないけど、胸が少しだけ鳴った。
ずるい。
今まで経営者みたいなことしか言っていなかったくせに。
「最初は」
アルベルトが続けた。
「君が優秀だから、手放す気がなかった」
「やっぱり人材扱いじゃないですか」
「否定はしない」
「そこは否定してください」
「でも、今はそれだけじゃない」
私は、急に熱くなった顔を隠したくて黙った。
アルベルトも、それ以上は言わなかった。
ただ、私の手を取り、指を絡めて強く握りしめる。
大聖堂の前には大勢の人々がいる。
これから私は王太子妃になる。
そしていつか、王妃になる。
逃げるつもりだった。
静かな土地へ行き、のんびり暮らすつもりだった。
それがどうしてこうなったのか。
たぶん、仕事を一つだけ終わらせてから逃げようなんて考えた、あの日から全部間違っていたのだ。
アルベルトが私の耳元で嬉しそうに囁く。
「これから一緒に、この国を大きくしよう」
私は一瞬だけ、その言葉に胸を熱くした。
そして、すぐに気づいた。
「……会社じゃないんですけど?」
「似たようなものだろ」
この人は、たぶん一生変わらない。
そしてきっと、私もあまり変わらないのだろう。
破滅回避RTAを走っていたつもりが、気づけば王太子妃就任RTAを完走していた。
まあ。
野垂れ死ぬよりは、ずっといい。
――たぶんね。
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