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前編

私は、あと二年で野垂れ死ぬ。


それを唐突に思い出したのは、十七歳の秋。王立学院二年生の、よく晴れた、皮肉なほど穏やかな午後のことだった。

正確に言えば、野垂れ死ぬまでにはもう少し時間がある。


来年の春、この学院に一人の少女が入学してくる。

平民出身でありながら希少な光魔法の才能を持つ、栗色の髪と緑の瞳の可憐な少女。その少女こそ、この世界の主人公――ヒロインだ。


対する私は、彼女を執拗に虐め、最後には王太子殿下から婚約を破棄され、国外へ追放される悪役令嬢である。

そして、その後の私がどうなるのか。ゲーム本編では、ほんの数行しか語られない。

頼る者もなく、財産も尽き、病を得て、二十歳になる前にひっそりと死亡。


……嫌すぎる。


私は頭を抱えて机に突っ伏した。

どうして急にそんなことを思い出したのかは、分からない。

前世の記憶が蘇るというのだから、もっと雷に打たれたような衝撃があるものだと思っていた。高熱を出して三日三晩寝込んだ末に、突然すべてを思い出す、とか。


実際には違った。

午後の退屈な授業中、教師が黒板に書いた王国暦をぼんやりと眺めながら、ふと「あれ?」と思った。

それだけだった。


次の瞬間には、前世のことも、この世界のことも、自分の役割も、全部パズルのピースが嵌まるようにつながっていた。

教師の声を聞き流しながら、私は前世の記憶と、この世界で十七年間生きてきた記憶を必死に突き合わせた。


間違いない。

ここは、前世で遊んだ乙女ゲームの世界だ。


そして私は、そのゲームに登場する悪役令嬢――リディア・エヴァンス。

腰まで届く艶やかな金髪に、紫水晶のような瞳。鏡を見るたび、我ながらずいぶん派手な顔だとは思っていたけれど、それも当然だった。


攻略対象である王太子の隣に立つために用意された、いかにも高位貴族の令嬢らしい華やかな容姿。

そして原作では、その美しい顔を怒りと嫉妬で歪めながらヒロインを虐め抜く。


……よりによって、そこなのね。


授業が終わる頃には、背中にじっとりと冷たい汗をかいていた。

その日の学院での予定をどうにか終え、屋敷へ戻った私は、自室の机に向かって改めて記憶を整理した。


前世の私は、大学を出て、それなりに名の知れた会社に入った。

仕事だけは、妙にできた。

与えられた仕事を完璧にこなし、改善点を見つけ、気づけば二十代でチームリーダーに抜擢。その後も順調に昇進したはずだった。


問題は会社がとんでもないブラック企業だったことと、私自身が仕事を断るのが絶望的に下手だったことだ。


『これ、今日中にお願いできる?』


『はい』


『悪い、こっちも見てもらえる?』


『はい』


『担当が休んでるから、これも頼めるかな』


『はい』


そんなことを繰り返しているうちに、終電が当たり前になり、休日出勤も増え、会社の狭い仮眠室の方が自宅より長く眠れる場所になった。

ある日、過労の限界を超えて目の前がブラックアウトした。


そして、次に気づいた時には、公爵令嬢リディア・エヴァンスとして生まれ変わっていたというわけだ。

改めて考えると、前世の私は仕事ができたというより、ただ仕事から逃げるのが下手だっただけではないだろうか。


まあ、それは今はどうでもいい。

大事なのは、まだ間に合うということだ。

ヒロインが入学してくるまで、あと半年。

ならば、その前に婚約を解消してしまえばいい。


王太子にも、ヒロインにも、攻略対象たちにも近づかない。できれば領地へ引っ込み、それでも駄目なら国外へ出る。

父に頼み込めば、辺境の小さな領地くらい預けてもらえるかもしれない。

そこで慎ましく暮らそう。


畑を耕すのもいい。

前世ではベランダ菜園すら枯らしたけれど、そのあたりは使用人に教えてもらえば何とかなるだろう。


うん。完璧だ。

我ながら冴えている。


そうして逃亡計画を頭の中で組み上げたところで、私はふと現実に戻った。


目の前のアンティーク調で高級そうな机には、学院へ行く前から置かれていた書類の山がある。

三か月前から調べている案件で、すでに各領地から相当な量の資料も取り寄せている。途中で放り出したら、現場の担当者が困るだろう。

それに、ここまで調べたのなら問題点くらい整理しておいた方がいい。私が抜けるなら、引き継ぎ資料も必要だ。


「……これだけは、終わらせてからよね」


どうせ半年ある。

三か月で残務を整理し、残り三か月で婚約解消と退避の準備をする。

この仕事だけ終わらせたら、私は逃げる。

絶対に。


◇


「この数字の根拠は?」


「……はい?」


翌週。

私は王城の執務室で、婚約者であるアルベルト王太子殿下の顔を見つめていた。


銀色の髪に青い瞳。端正な顔立ちは、まさに攻略対象筆頭に相応しい。

そして原作では、自信家で尊大だったはずだ。

幼い頃から決められていた婚約者である私にはほとんど関心を示さず、最終的にはヒロインの純真さに惹かれ、卒業式の日に大勢の前で私を断罪する。


――はずなのだが。


そのアルベルト殿下が今、私の提出した資料をかなり真剣な顔で読み込んでいる。


「南部三州から王都へ入る穀物量が、ここ三年で八パーセント落ちている。一方、生産量そのものはほとんど変わっていない。だから問題は生産ではなく、輸送か流通にあると見たんだな?」


「ええ。正確には、こちらの三つの中継倉庫です」


私は机越しに資料を指した。


「各領地から運ばれた穀物は、一度ここへ集められます。ただ、搬入記録の様式が領地ごとに異なっていて、その照合に莫大な時間がかかっています。その間、荷馬車も待たされるので――」


「ここがボトルネックになっている、と」


「そうです。ここがボトルネックに……」


そこで私はピタリと言葉を止めた。

アルベルト殿下が顔を上げる。


「どうした?」


「いえ、何でもありません」


今、この人。ボトルネックって言った?


いや。細い瓶の首に由来する表現なのだから、この世界でも似た言い回しが存在していておかしくはない。

王族教育というのは、私が思っていた以上に実務的なのかもしれない。


「それで、改善案は?」


「あ、はい。まず搬入記録の様式を統一します。それから、倉庫側の確認権限を現場責任者へ移せば、処理時間はかなり短縮できます。現状は、書類一枚の確認にも上役の決裁を待っているので」


「なるほど。権限を下へ移すわけか」


「責任だけを持たせて、判断権を与えない今の仕組みでは、現場が動けませんから」


「まったくだ。責任者に責任だけ負わせて決裁権を渡さないのは最悪だ」


私は一瞬だけ殿下の顔を見た。

前世の上司に聞かせてやりたい。

殿下は私の視線には気づかなかったらしく、そのまま資料をめくる。


「試算では六か月で輸送量を元に戻せる?」


「かなり保守的に見ています。うまくいけば、もう少し早いかと」


「費用は?」


「倉庫改修まで含めてこちらにまとめてあります」


「回収には二年弱か」


「はい」


殿下はしばらく数字を追っていたが、やがて満足げに資料を閉じた。


「やろう」


「……え?」


「いきなり三か所すべてを変えるのは危険だから、まず一か所で試験運用する。結果を見て、問題がなければ残りへ展開する。それでいいだろう?」


その判断自体には何ら異論はない。

むしろ前世の私なら同じことを言ったはずだ。

問題は、なぜこの人がこんなに食いついてくるのか、ということだった。


「殿下、あの……」


「何だ?」


「私の説明は、もうよろしいのでしょうか」


「いや。まだ聞きたいことがある」


おかしい。

原作のアルベルトなら、このあたりで「ご苦労。下がれ」と冷たく終わるはずだった。


私が何を考え、どういう手順で仕事をしたかには微塵も興味を示さない。

成果だけを受け取り、それがうまくいって当然という態度だったはずだ。

けれど目の前の王子は、私の資料に自分で書き込みまでしている。


「この試験運用、君が責任者をやってくれ」


「私がですか?」


「企画した人間が一番理解している。もちろん、実務まで全部やれという意味じゃない」


殿下はそう言って、無駄のない動作で指を二本立てた。


「担当を二人つける。君は方向性の判断と、問題が起きた時の意思決定だけでいい」


理屈としては、嫌になるほど正しい。

企画した人間が責任者になり、実務は担当へ振る。権限と責任も対応させる。

前世の私なら、むしろ部下にそうしろと説教していたくらいだ。

だからこそ、身についた悲しい性なのか、断りにくい。


「……分かりました」


「助かる」


アルベルト殿下が、ほんの少し笑った。

やばい、ゲームでも顔は間違いなく、どストライクなんだよ、こいつは。


顔が熱くなるのを自覚して、慌ててうつむきながら、執務室を出て、そのまま廊下を歩いた。そして半分ほど進んだところで、ようやく足を止める。

あれ? 何かがおかしい。

私は今日、仕事を終わらせるために来たはずだ。

なのに。


「……仕事、増えてない?」


◇


三か月後。

仕事は順調だった。困ったことに、本当に順調だった。


穀物流通改善は予想以上の成果を上げ、王都への搬入量は早くも回復し始めている。

私は予定どおり、自分がいなくなっても回るように詳細な手順書を作り、担当者ごとの権限も明文化した。

毎週開かれていた無駄な定例会議は隔週に減らし、誰も読んでいなかった報告書も三つ廃止した。これで完璧だ。私が抜けても問題なく回る。


「素晴らしい」


報告を聞いたアルベルト殿下が、しみじみと言った。

私はその感心しきった声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。


「仕事のやり方まで整理したのか。これなら担当が代わっても問題ないな」


「ええ。特定の人間に業務が集中すると、いずれ困りますから。属人化は避けるべきです」


「まったくだ」


また普通に通じた。

殿下は私の作った手順書をぱらぱらとめくったあと、何かを思いついたらしく、おもむろに顔を上げた。

瞳がキラキラと輝いており、目が逸らせない。


「この方式、他の部署にも使えないか?」


「他の部署?」


「宮廷物資局だ。担当者が十年以上同じ仕事をしていて、周囲の誰も全体像を把握していない。本人が病気でもしたら止まる」


「それは危険ですね。一度、業務フローを洗い出して――」


そこまで口にして、私は止まった。

危ない危ない。

完全に殿下のペースに引き込まれるところだった。


「……殿下」


「何だ?」


「私、そろそろ学院へ戻らなくてはなりません」


「チッ、そうか。なら、これだけ持っていってくれ」


え? 今この人舌打ちしなかった?


不思議に思っているかたわらで、机の横から、殿下が取り出したかなり分厚い資料の束に注意を引きつけられる。


「宮廷物資局の現状だ。時間がある時に、ざっと見てもらえると助かる」


「…………」


私は思わず受け取ってしまった。

差し出された資料を断れずに反射的に受け取る、前世から骨の髄まで染みこんだ習性が、これほどまでに憎いとは思わなかった。


自室へ戻ると、その束を机へ置き、しばらく腕を組んで睨みつけた。


「違う」


私は逃げるのだ。

仕事を増やしてどうする。

自分のバカさ加減に辟易していると、ふと、資料の一番上に記された輸送費が妙に目についた。


「……何、この金額」


一枚めくる。


「高すぎない?」


もう一枚。


「同じものを三部署が別々に買ってるじゃない」


さらに一枚。


「発注をまとめれば二割くらい落とせるでしょ、これ」


気づけば、手元にペンとメモを握りしめたまま、窓の外は真っ暗になっていた。


◇


さすがにまずい。

このままでは、ヒロインが入学するまでに絶対に逃げられない。

私は意を決して、アルベルト殿下に切り出した。


「殿下。私たちの婚約ですが、一度見直した方がよろしいのではないでしょうか」


王城の王太子執務室。

向かいに座っていた殿下は、手にしていたペンを静かに置いた。


「理由を聞こう」


「理由、ですか」


来年あなたがヒロインと恋に落ちて、私を追放するからです。

なんてことを口が裂けても言えるわけがない。

不敬だとその場で処断されたらどうするんだ。


「その……私が王太子妃に相応しいとは限りませんし」


「それは、どういう意味だ?」


「どういう、と申しますと?」


「能力の問題なのか、性格なのか、家柄なのか。あるいは健康上の不安か。何をもって相応しくないと判断している?」


ずいぶん具体的に聞いてくる。


「いえ、そういうわけではありません」


「なら、俺に不満がある?」


「不満?」


「何か改善すべき点があるなら聞く。仕事量が多すぎるなら減らすし、人員が足りないなら増やす。結婚後も今と同じように仕事を続けたいなら、その前提で環境を整える」


え、マジ?

何言ってやがりますの、この人。

私は、あまりに魅力的な提案にしばらく二の句が継げなかった。


――いけない、危うく本題から外れるとこだった。


「殿下」


「何だ?」


「これは婚約のお話です」


「だから婚約の話をしている」


どうして婚約解消の相談が、勤務条件のヒアリングみたいになっているのだろう。


「価値観が合わないというなら、それは話し合う必要がある。だが、少なくとも俺は、今のところ君との間に致命的な齟齬があるとは思っていない」


そこで殿下は少し身を乗り出した。


「君は?」


ない。

悔しいことに、本当にない。


仕事の進め方は驚くほど合うし、私の意見を頭ごなしに否定もしない。

必要な予算は出すし、人員もつける。責任の所在も曖昧にしない。

待遇も恐ろしいほどホワイトだ。

前世の会社にこの人がいたら、私は死なずに済んだんじゃなかろうか。


「……ありません」


「なら、現時点で婚約を解消する合理的な理由はないな」


その言い方も妙に前世っぽい。

けれど、反論できる材料がどこにもない。


「他に懸念があるなら聞くが」


「……今のところは、ありません」


「分かった。では、この話はいったん保留にしよう」


殿下はそう言ってペンを取り直した。


「ところで、宮廷物資局の件だが」


嫌な予感がした。


「君の案を採用したら、年間支出が十一パーセント落ちた」


「それは良かったです」


「次は王立病院の調達を見てほしい」


「はい」


条件反射で返事をしたあとで、私は目を閉じ、思わず上を向く。

またやってしまった。


◇


ある日のこと。

王城の執務室で重くなりかけたまぶたをこすりながら資料に目を通していると、アルベルト殿下が突然訊いた。


「リディア。昨日、何時間寝た?」


「三時間ほどですが」


「帰れ」


あまりに即答だったので、私は意味を理解するまで数秒かかった。


「ですが、あと少しでこの資料が――」


「明日でいい」


「明日は学院があります」


「なら明後日だ」


「でも期限が」


「俺が延ばす」


「これくらいなら大丈夫です」


言った瞬間、殿下の表情が変わった。

それまで書類へ落ちていた青い瞳が、怖いくらいに真剣味を帯びて、真っ直ぐに私を見る。


「大丈夫かどうかを、倒れる側に判断させる気はない」


拒絶を許さない力のこもった言葉に、胸の奥がわずかに詰まった。

前世では、誰も言ってくれなかった。

いや。たぶん、言われたことはあったのだろう。

それでも私は、「大丈夫です」と答え続けた。

まだやれる。あと少し。これだけ終わらせれば。

そうして、本当に駄目になるまで働いた。


「これは命令だ。今日はもう帰って寝ろ」


「……はい」


「明日も王城には来なくていい」


「学院がありますので、もともと午後からですが」


「なら、そのまま帰れ」


「分かりました」


その日の帰りの馬車で、私は改めてアルベルト殿下のことを考えた。

原作とは、ずいぶん違う。


尊大なところがないとは言わない。王太子なのだから、自信があるのも当然だろう。

けれど人に対して決して無関心ではない。

仕事をちゃんと見るし、人も見る。必要なら任せるが、潰れるまで抱えさせることはない。


何より、妙に話が通じる。

ボトルネック。属人化。権限委譲。リソース。費用対効果。


この前など、私がうっかり「まずKPIを設定しましょう」と言ったら、何の間もなく、


「その前にKGIを決めないと、数字だけ追うことになるぞ」


と返された。

KPIはまだしも、KGIまで普通に通じるものなのだろうか。


とはいえ、そもそも私はこの世界の言葉を日本語として認識している。

文字も会話も、意識して翻訳している感覚などないのに、最初から普通に理解できていた。

いわゆる異世界転生でありがちな、便利な翻訳機能みたいなものなのだろう。

ならば私が口にした「KPI」という言葉も、実際にはこの世界にある似た概念の言葉へ勝手に置き換わっているのかもしれない。


それにアルベルト殿下は、いずれ国という巨大な組織を運営する人間だ。幼い頃から財政も人事も政治も学び、最高の教育を受けている。

前世の企業経営と似た考え方を知っていても、そう不思議ではない。


最初はただ話が早い人だと思っていたけれど、どうやらそれ以上らしい。

やはり異世界の王族も侮れない。


私はそこで納得し、せっかく浮かびかけた疑問をあっさり頭の隅へ追いやった。

……やはり寝不足はよくない。余計なことまで考えてしまう。

殿下の言うとおり、今日は大人しく寝よう。

お読みいただきありがとうございます。

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