第24話 教育係
「リタ・フェルデンです! よろしくお願いします!」
声が、課の天井に届いた。
朝の婚約解消記録課に、こんな音量の挨拶が響いたのは、たぶん開設以来初めてだと思う。課員が一斉に顔を上げ、当の新人は深々と頭を下げ、上げた顔は日向の色をしていた。十七歳。文具商フェルデン商会の末娘。字が綺麗、というのが採用理由の筆頭に書かれていた。
「教育係のヴィオラ・レンディッシュです。規程の講義から始めます」
「はい! あの、レンディッシュ先輩って、あの、夜会の」
「規程の講義から始めます」
「はい!」
物怖じをしない子だった。
私は規則書を一冊、彼女の前に置いた。全二百十一条。三年前、私が渡されたのと同じ版だ。リタは表紙を開き、目次を見て、頁の厚みを親指で確かめ、それから顔を上げた。
「これ、全部覚えるんですか!」
「私は覚えました。あなたに求めるのは、引けることです。どの条文がどのあたりにあるか、体で覚えてください。窓口で規程集を引く速さは、依頼人の待ち時間です」
「……先輩、全部覚えてるんですか。二百十一個」
「条文は個で数えません。条で数えます」
「そこじゃなくて!」
リタは笑った。私は笑われる発言をした覚えがなかったが、彼女の笑い方には棘がなく、訂正を求める種類のものでもなかったので、記録に留めるだけにした。この子は私を怖がっていない。三年間、この建物の中で、私に敬語以外の温度で話しかけてきた人間を、私は片手で数えられる。
「先輩、無表情って便利ですね! あたし、顔に全部出るって言われるんです。商談に向かないって、父にも」
「表情は、様式外の情報です。窓口では出しすぎないように」
「様式外……あっ、それ格好いいですね。使お」
使わないでほしい。
講義は午前いっぱい続けた。受理と受付の違い。七葉の構成。差し戻しの手順。リタは呑み込みが早く、質問はもっと早かった。質問の大半は講義の脇道に逸れるものだったが、時々、脇道から本道より深いところに落ちる。
午後の終わり、彼女はその種類の質問をした。
「あの、先輩。規則って、何のためにあるんでしょう」
手が、止まった。
「あたし、採用の面接で訊かれたんです。『正確な仕事のためです』って答えたんですけど、面接の人、ちょっと笑ってて。正解、何だったのかなって」
規則は、何のためにあるか。
三年前の私なら、即答した。秩序のため。記録のため。正確のため。どれでも良かった。どれも、間違いではない。
今の私は、あの一枚を知っている。様式に瑕疵のない申立が、適用の外、の五文字で返ってきたことを。規則が届かない場所に、まだ座っている子がいることを。
守るためだ、と言うのに、私は――一拍、かかった。
「……人を、守るためです」
「人を」
「守れないことも、あります。それでも、そのためにあります」
リタは、少しの間、私を見ていた。それから規則書の表紙を、両手でぱたんと閉じた。
「分かりました! じゃああたし、引けるようになります。守るときに、遅いと駄目なので」
良い答えだと思った。三年前の私より、良い答えだった。
翌日の夕方、窓口研修を終えたリタが、監査室まで私を探しに来た。日向の顔に、初めて困惑が乗っていた。
「先輩、あの、窓口で変な相談を受けちゃって。……婚約届が、二通あるんです。同じ人に」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
続きが気になったら、評価とブックマークで応援いただけると執筆の励みになります!




