第2話 窓口はこちらです
「……無効、だと」
ジェラルド殿下の声が、一段低くなった。
「貴様、自分が何を言っているのかわかっているのか。王族の決定に、書記官風情が」
「わかっております。ですのでまず、私の立場から明確にいたします」
私は記録板を掲げ、規則書の文言を諳んじた。
「記録院執務規程第九条第二項。書記官は、当該記録の当事者となった場合、直ちに記録を停止し、後任に引き継ぐものとする。殿下が私の名を呼ばれた時点で、私は当事者となりました。よって記録は二十一時十七分をもって停止。以後の発言は書記官としてではなく、被告として行います」
ざわ、とホールが揺れる。
規則の話をしただけなのに、人はなぜか、規則の話に一番驚く。三年間で何度も見た反応だ。剣を抜くより条文を諳んじるほうが、この国ではよほど珍しいらしい。
「後任には明朝、引き継ぎの書面を提出いたします。本日この場に後任がいないのは、婚約解消記録課の書記官が国に四名しかおらず、他の三名が全員、王都の外にいるためです」
「知るか! そんなことは!」
「はい。殿下が知る必要のないことです。ですが」
私は一拍だけ置いた。
「殿下が知らなければならなかったことなら、ございます」
殿下の頬が引きつる。隣のミレイユ嬢が、袖を掴む手に力をこめるのが見えた。
「先ほど、無効と申し上げました。順を追ってご説明します。この国において、貴族の婚約は両家の契約書が記録院に受理されて初めて成立します。であれば、その解消もまた」
「書類が要ると言いたいのか。ならば書かせればいいだけの話だ! 明日にでも!」
ああ。
やはりこの方は、ご存じないのだ。
私は少しだけ、殿下が気の毒になった。ほんの少しだけ。教科書を隠された覚えのある身としては――いや、隠されてもいないのだった。学園に通っていないので。
「仰るとおりです、殿下。婚約解消には婚約解消調書の提出と受理が必要です。所定の様式は、全部で七葉ございます」
私は、数えるために指を一本、立てた。
「第一葉、申請の主意。いつ、誰が、誰との、いかなる婚約の解消を求めるのか。日付の誤りは、差し戻しの事由となります」
殿下の後ろで、側近の一人が、そっと手帳を出した。
「第二葉、解消の事由。記載できるのは、日時と場所と行為を特定できる事実のみです。評価と心情は、事由になりません」
手帳を出した手が、止まった。
「第三葉、事由を裏付ける証拠の目録。物証、書証、それぞれ所在を添えて。第四葉、証人の氏名と署名。氏名のない証人は、証人として数えません」
ホールのどこかで、衣擦れの音がした。今夜、証人とやらに数えられるはずだった誰かが、身じろぎをした音かもしれない。
「第五葉、両家の合意確認。そして第六葉、違約条項の確認署名。事由が虚偽であった場合、違約の責が申請者の側に生じることへの、確認のご署名です」
第六葉を読み上げたとき、会場は、何の反応もしなかった。
衣擦れも、囁きも、ない。虚偽なら責が返る、という一葉の意味を、今夜この会場で理解している者は、たぶん一人もいない。理解されない条項がいちばん恐ろしいことを、私は三百件で知っている。理解される頃には、署名の後だからだ。
ホールが、静かになっていくのが分かった。私は脅していない。窓口の職員が、様式の案内をしているだけだ。案内をされただけで人が静かになる書類というものが、この世にはある。
「第七葉、申請人の署名と、資格の事項。――以上、七葉でございます」
「く、くどい! 書けばいいのだろう、書けば!」
「はい。お書きください。書き上がりましたら、王立記録院・婚約解消記録課の受理窓口までお持ちください」
私は記録板を胸に当てたまま、ゆっくりと頭を下げた。
「受理窓口の担当官は、当課書記官・ヴィオラ・レンディッシュ。――私です」
ホールが、今度こそ完全に静まり返った。
誰かの扇が床に落ちる音がする。
殿下の顔から、みるみる血の気が引いていった。ようやくおわかりいただけたらしい。この方が今夜、三百人の前で泥を投げつけた相手は、その泥を洗って、検分して、受理するか差し戻すかを決める、当の窓口なのだと。
「ふ……ふざけるな。担当を、変えさせる」
「可能です。忌避申立という手続きがございます。所定の様式は三葉。提出先は」
私は顔を上げ、初めてほんの僅かだけ首を傾げてみせた。
「――同じく、当課の窓口です」
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