第1話 三百一件目
王立記録院・婚約解消記録課の書記官には、規則がひとつしかない。
――記録中は、口を開いてはならない。
三年前の配属初日、上官はそう言って規則書を渡した。分厚い規則書の一ページ目にその一文だけがあり、二ページ目からは延々と、用紙の書式について書かれていた。
だから私は今夜も、壁際に立っている。
王立学園、卒業記念夜会。天井にシャンデリアが六基。磨かれた床に、貴族の子女がおよそ三百人。楽団は三十秒前に演奏をやめた。
ああ、始まる。
楽団はいつも一番早く気づく。断罪が始まる夜、彼らは指揮者の合図より先に弓を下ろす。百回も見ていれば、それくらいはわかるようになる。ついでに言えば、給仕が壁際へ下がる速さでもわかるし、今夜の主役が誰かは、開会からずっと汗をかいている男を探せばいい。
今夜の場合、それは第二王子だった。
私は羽根ペンを持ち直し、膝の上の記録板に新しい用紙を留めた。
開始時刻、二十一時十四分。
場所、王立学園大ホール。
立会人、王立記録院婚約解消記録課書記官、ヴィオラ・レン――
「ヴィオラ・レンディッシュ!」
ホールの中央から、私の名前が飛んできた。
ペン先が、紙の上で止まる。
顔を上げた。シャンデリアの真下でジェラルド第二王子殿下がこちらを指差している。金髪を丁寧に撫でつけ、右腕を高く掲げて。半歩後ろには桃色の髪の令嬢が寄り添っていた。ミレイユ・ソレイユ男爵令嬢。顔と名前は一致する。記録係は出席者名簿を暗記させられるからだ。
三百人分の視線が、音を立てるように壁際の私へ集まった。
なるほど。
被告は、私らしい。
疑問はいくつかある。たとえば私は、殿下と婚約した覚えがない。正確には、あるにはある。十年前、家がまだ傾く前に交わされた、紙の上だけの約束が。当の私ですら年に一度も思い出さないそれを、殿下が覚えていたことのほうが驚きだった。
だが、疑問は記録しない。記録するのは事実だけだ。
私はペンを持ち直した。
被告、ヴィオラ・レンディッシュ。当職。
「貴様との婚約は、破棄する!」
二十一時十四分、婚約破棄の意思表示。決まり文句その一。
「貴様は身分をかさに着てミレイユを虐げ、彼女の教科書を隠し、あまつさえ階段から突き落とそうとした!」
二十一時十五分、罪状の列挙、三件。決まり文句その二。ちなみに平均は四・二件だ。三件は少ない。準備の足りない断罪は罪状が少ない。
「証人もいる!」
証人の言及、氏名なし。決まり文句その三。氏名が挙がらないとき、証人はだいたい存在しない。三百件見てきた統計である。
「何か言うことはあるか、ヴィオラ・レンディッシュ!」
弁明機会の付与。決まり文句その四。
殿下は胸を張り、勝利を確信した顔で私を見下ろしていた。隣のミレイユ嬢は震えながら殿下の袖を掴んでいる。怯える被害者の構図。よくできている。ただ、彼女の視線は殿下でも私でもなく、さっきから一度だけ、ホールの奥の暗がりへ泳いだ。
誰を、見た。
これは記録には書けない。事実ではなく、観察だから。
こういうものを書き留める場所を、私はひとつだけ持っている。調書の余白。欄外だ。規程第百三十条、欄外注記は公式記録に含まれない。含まれないから、誰にも読まれない。誰にも読まれないから、本当のことが書ける。三年間、私はそこにだけ本当のことを書いてきた。
ホールは静まり返っていた。
被告は沈黙。二十一時十六分。
誰かが囁く。何も言えないんだわ。図星なのよ。扇の陰の笑い声。これも書かない。事実ではあるが、記録事項ではない。
被告は沈黙。二十一時十七分。
さて。
私は手を止めて考えた。
規則書一ページ目。記録中は、口を開いてはならない。記録の中立性を守るための大原則で、書記官が発言した記録は証拠能力を失う。
だが。
規則書三十四ページ、第九条第二項。
『書記官は、当該記録の当事者となった場合、直ちに記録を停止し、後任に引き継ぐものとする』
婚約解消記録課の書記官は、この国に四人しかいない。ラーラは西部の伯爵領へ。マチアスは南の港町へ。課長は王宮の別件へ。今夜この王都に、後任はいない。
引き継げない場合の規定は、ない。規則書に穴があるとき、現場はどうするか。三年間で学んだ答えはひとつだ。穴の手前までを、正しく踏む。
記録を、停止する。
私は羽根ペンを置いた。
こと、と小さな音がした。それだけの音が、静まり返ったホールの端から端まで届くのが自分でもわかる。三百人が息を呑んだ。書記官が――壁と同じだと思われていた人間が、動いたからだ。
立ち上がる。記録板を胸に抱える。一歩、前へ。
「恐れながら、殿下」
三年ぶりに、記録の場で声を出した。思ったより掠れなかった。
殿下の眉が跳ね上がる。
「……言い訳か。聞いてやる。せいぜい見苦しく」
「いいえ。弁明は、いたしません」
弁明なら簡単だ。私はこの学園に通っていない。三年前、父が学費を払えなくなった日からずっと。教科書を隠すも何も、私は被害者様と同じ建物に入ったことすらない。だがそれを言うのは、あとでいい。
先に片づけるべきことがある。
三百件。三百件の解消を、私はこの壁際と窓口から見てきた。声を張り上げる者、泣き崩れる者、勝ち誇る者。そして知っている。彼らの誰ひとり知らなかったことを。
断罪は、宣言した瞬間には何も成立していない。
婚約が紙で結ばれるこの国では、婚約の死もまた、紙の上でしか起こらない。成立するのは、王立記録院に解消調書が受理されたその瞬間だけ。壇上の宣言など、法の目から見ればただの大きな独り言だ。
そして三百件のうち二百八十七件は、受理の段階で書類がひっくり返っている。
私は顔を上げ、シャンデリアの光の下の殿下をまっすぐに見た。
「殿下。その婚約破棄は、無効です」
ホールがどよめく。殿下の口が、開いたまま止まった。
私は記録板を一度だけ、とん、と指で叩いた。
「――書式が、間違っております」
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