第10話 欄外
署名の件を、私はまだ誰にも話していない。
監査長に相談すべき案件だと、頭ではわかっている。文書偽造だ。被害者は私で、偽造されたのも私の名。だが手が動かなかった。あの「デ」の右肩。あの「シ」の払い。あそこまで私の癖を写せる人間を、私は一人しか思いつけない。
その名前を口に出すと、何かが確定してしまう気がした。
確定していないことは、書かなくていい。書かなくていいことは、まだ、起きていない。……我ながら、法の大原則の悪用だった。
気分を変えるには、書類の山が一番いい。
その日の午後、私は監査長の指示で保管庫に降りることになった。降りる前、監査長は返却の綴りの目録を検めながら、付け足した。
「二年目の秋、ノーラン家の件。あの調書の欄外は、第二葉の左の余白、上から三行目だ。……あの頁は湿気をもらいやすい。綴りの状態を、ついでに見てきてくれ」
頷いてから、気づいた。
第二葉の、左の余白。上から、三行目。
書いた本人の私が、位置までは覚えていない。読んだ人が、覚えている。どの頁の、どの余白の、何行目に、私が何を書いたか。七年分、という言葉の中身が、初めて具体的な座標を持って、目の前に置かれた。
処理に困るものが、また一つ増えた。増えたものの行き先を決めないまま、私は地下へ降りた。監査室の資料返却と、古い綴りの借り出し。保管庫は記録院の地下にあり、二百年分の紙が眠っている。
「おや。新顔だね」
書架の谷から、老人がひょっこり現れた。腰の曲がった、けれど目だけは若い、灰色の作業着の老人。先日、焦げた綴りの台車を押していた人だ。
「監査室の使いかい。それとも婚約解消記録課の、例のお嬢さんかな」
「……両方です。ヴィオラ・レンディッシュと申します」
「はは、両方か。わしはベン。ここの庫番を長いことやっとる。まあ、ゆっくりしていきなさい。ここは記録院で一番、静かで、一番、嘘のない場所だ」
嘘のない場所、という言い方が耳に残った。
返却と借り出しを済ませると、ベン翁は「ついでに」と私を書架の奥へ手招きした。
「婚約解消記録課、直近三年の棚だよ。あんたの書いたもんは、みんなここに眠っとる。……挨拶していくかね。自分の書いたもんに」
妙な誘いだった。妙な誘いだったが、私は頷いていた。
棚には、三年分の綴りが受理番号順に並んでいた。一冊、抜いてみる。配属一年目の冬の綴り。開くと、若い私の字が、様式の中に几帳面に収まっていた。
そして、欄外に。
『原告の母、閉廷後に被告へ目礼。両家の対立は当人同士のみか』
『雪。証人の外套だけ乾いている。開始前から屋内にいた者』
『被告の弁明、三度同じ言い間違い。暗記した文章。誰が書いた文章か』
一冊戻し、次を抜く。二年目の春。
『この課に来て一年。挨拶をした人間の数、課長を含め四名』
手が止まった。
これは、観察ではなかった。様式に流し込み損ねた、ただの、私だ。三年間、こんなものまで書いていたのか。観察に紛れ込ませて、時々、こういう行を。
『今日の受理、三件。今日、私と話した人間、零名。紙とはよく話した』
『欄外は良い。誰も読まない。誰も読まないので、何を書いても、誰も傷つかない。私も』
地下の静けさの中で、私は自分の三年間を、受理番号順に読んでいった。誰にも宛てていない四千枚の余白。書いた本人すら忘れていた行が、そこにだけ、残っていた。
記録されていないことは、起きていない。
なら、ここに記録されているこれは――起きて、いたのだ。ずっと。
「……見つけたかね」
ベン翁が、書架の向こうから静かに言った。
「紙はいいだろう。人間と違って、書いたことを忘れんし、書いた奴を裏切らん。……もっとも」
老人の声が、半段だけ低くなった。
「裏切らんのは、紙が正直だからじゃない。燃やされなかった紙だけが、ここに残っとるからだ」
意味を訊き返す前に、頭上の階段から靴音が降ってきた。庫番宛ての急ぎの使いだった。使いの若い書記官は、ベン翁に届け物を渡し、それから私に気づいて言った。
「レンディッシュさん、こちらでしたか。監査室がお呼びです。……王子殿下側から、たった今」
若い書記官は、息を整えて続けた。
「婚約解消調書、全七葉。――正式に、提出されました」
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