雨が明けて
高校のころに執筆し、改稿して大学の機関誌で一度発表した短編です。
店のカウンターで唄を歌っていると大抵は弟に怒られて終わるのだが、今日は店の入り口から子供が覗いて唄が途切れた。普段あまり見られない子供の姿に思わず閉じてしまった口を、ベガは次の瞬間に綻ばせる。来い来いと手招きしてやると、子供はぎょっとした顔で逃げた。
「アルー、雨止んだみたい。子供が遊びに来てたよ」
店の奥、工房に向かって叫ぶが、返事はない。糸車の回る音は断続的に続いて、弟がいかに集中しているかがよくわかる。ちょっと寂しい事実ではあるが、それでもベガの顔は緩んだままだった。長雨が止んだということは、遠ざかっていた客足が戻ってくるということだったから。雨の間にきれてしまったストックも、近日中には集めに行ける。あまりに雨が長かったから、緊急用にと織り上げておいた作品も、その材料も、すべて使い切ってしまっていた。今年の春はほとんど雨季に占領されていた。
嬉しくなったついでに新鮮な空気でも吸おうと窓を大きく開け放つと、ガツンという衝撃と「いたっ!」という甲高い悲鳴が同時に聞こえた。驚いて顔を出すと、窓の下で先程の子供が額を押さえてしゃがみこんでいる。思いっきり、それこそ勢い良く窓を開けてしまったベガは慌てて子供の顔を覗き込んだ。
「ごめんね、大丈夫っ? 手当てするから入って!」
今度のベガの誘いには、涙目の子供も素直に頷いた。
とりあえず子供を椅子に座らせて、ベガは工房に顔を出した。朝食後に工房に籠ったきり、ずっと同じ姿勢で弟が糸を紡いでいる。アルタイル、と名を呼んでもピクリとも反応しない。肩をとんとんたたくと、弟はやっと手を止めて姉を見上げた。
「今店に男の子上げてるから、良かったら相手してくれない? 怪我させちゃったのよ。私救急箱探してくるね。どこ置いたっけ」
おざなりな説明ではあったが、弟は了解したとでも言いたげに頷いた。あらぬ誤解でもされていてはベガの沽券に関わるので、強く釘を刺しておかなければ。
「言っとくけど、いじめたんじゃないからね」
「わかってるって。救急箱はそこに置いてる。あ、タンコブはまず冷やした方がいいってよく知ってるよな。姉さんの鉄拳って痛いし、俺のタオル使っていいから、井戸水で」
「殴ったんじゃないったら!」
強く抗議しても、弟はどこ吹く風でひらひらと手を振り返すのみ。最近の弟は難しい年頃だかなんだか知らないが、とにかく生意気でいただけない。身長だってこの間までベガの方が高かったのに、今は見上げないと話せない。
ぶつぶつと文句を呟きながらも言われたとおり、裏の井戸で小さな木桶に水を汲み、弟のタオルを拝借して突っ込む。もう片手に工房の隅から引っ張り出した救急箱を提げて店に戻ると、その短時間で弟は膝の上に載せてお喋りするくらい子供と打ち解けてしまっていた。ちょうどいいので、そのまま支えさせて手当てを開始する。子供の額は赤く腫れていたが、かれこれ十年ほどアルタイルの怪我を見てきた経験から考えても大したことはないようで、しばらく冷やしさえすれば問題はなさそうだった。
「一人でここまで来たのか? ここ町から遠いだろ」
「ちょっと遠いけど、でも一本道だから大丈夫。みんなと待ち合わせしてるんだよ。ハレーが『雨が明けたら小山の向こうのヘンなお店で集合』って」
「ふうん。ハレーが来たらヘンな店じゃなかったって言っとけよ」
「いいけど、じゃあここ何のお店なの?」
「織物屋だよ。俺が糸紡ぎで、姉さんが機織り。ほれ、終了。もう痛くないだろ」
アルタイルとのお喋りに夢中な子供の額に、ちょんちょんと冷え薬を塗れば手当ては終了。もっともお喋りに気を取られてすでに痛みを感じていなかったらしく、ケロッとした顔で元気に膝から飛び降りた。窓から他の子供の影が覗いたからだ。
「お姉ちゃんありがとー。お兄ちゃんもバイバイ」
「じゃーな、あんま怪我すんなよ」
あまり懲りていないらしい勢いで子供は店から飛び出し、すぐに見えなくなった。アルタイルは子供を乗せていた膝も含めて手足を思いっきり伸ばす。ベガは手桶と救急箱を片付けながらくすくすと笑った。
「子守お疲れ様。ねえアル、そろそろストックがきれてきているの。近いうちに取りに行きましょ」
「おー」
頷いた弟の肩越し、窓から見える道の向こうに新たな影が見えて、ベガは表情を引き締めた。
お客様だ。
「サキミ……でしたっけ? その方に今年は酷い日照りになると聞きまして。このままでは村が全滅してしまうと」
「サキミの占いは絶対ですから。では、お求めは『雨雲』でよろしいですか?」
ベガは非の打ち所のないスマイルを浮かべた。遠くの農村の村長だという男性客は、たまたま村に立ち寄ったサキミの紹介でこの店を訪れたとのこと。地図を頼りに単身山を越えて来たはいいが、この長雨で道中かなり難儀したらしい。そこまでして必要とされるのはとても嬉しいことで、表情筋に力も入るってものだ。
「あの、はい。いえ、私こういった店は初めてでして。ただここに来れば村は助かるとだけ……」
もごもごと語尾が消え去る。ベガは内心で感嘆した。事情も知らずサキミを疑いもせず、よくぞ遠い道のりをやって来たものだ。
「ではご説明いたします。当店『紡ぎ唄』は織物屋です。他の店と違うのは売っている品物がただの布織物ではないところです。もちろんご要望とあれば布織物も織りますが。例としましては――」
ベガは手近な棚から、両手で抱える大きさのガラス瓶を持って来て机に乗せた。一見すると、何も入っていない、ただ蓋をしただけの空の瓶に見える。しかし、よく見ると瓶の内側が淡く青に染まっていることに気付く。ガラスの色ではない。
「こちら、当店でも人気の『夜風』です。目には見えませんが、中には涼しい風が詰まっています。今年、そちらの村では日照になられるということでしたが、たとえ日照になるほどではなくても、夏の暑さが酷いということはございませんか?」
男性客はあやふやに頷いた。説明がいまいち飲み込めていないようだった。
「今年の夏は厳しくなる――そうサキミに言われたとき、この『夜風』は役に立ちます。これは涼しい風を詰めていますから、夏にこの瓶を開けていただくと暑さが和らぐんです。これはサービスですので……ちょっとだけですよ?」
悪戯っぽく微笑んで、瓶の蓋をわずかにずらす――その瞬間、瓶から涼しいどころか寒くすら感じられる風が飛び出し、店内の気温が急激に下がった。男性客が今の季節にはありえない涼しさに、思わず両腕をさする。風はベガが瓶の蓋を閉めると同時に止んだが、店内の気温は戻らない。
「本来は室外で開けるものですので、ここでは少々効果が過ぎたみたいですね。まだ夏ではありませんし。これと同じように、『雨雲』は日照の中でも雨を降らせることができます――ご理解いただけました?」
苦笑したベガが窓を開け放つと、すぐに元の気温に戻った。雨季が晴れたばかりの晩春の気温だ。男性客が呆然と周りを見やっている間に『夜風』をカウンターの下に放り込み、ベガは気合を入れなおして本題に戻った。
「さて、『雨雲』の大きさはいかほどにしましょうか」
机に地図を広げる。男性の治めている農村が載っているものだ。あまり裕福な村ではない、としどろもどろな説明を聞いて、ベガは村の畑の範囲と作物の種類、さらに家畜の数と人口を尋ねた。
「かしこまりました。必要なだけの大きさと雨量を計算して参りますので、少々お待ち下さい」
アルタイルに淹れさせた茶を客の前に置いて、ベガは一度工房に引っ込んだ。
棚から資料を取り出し、先代が手に入れたという、遠く東の国に伝わる計算機――そろばんと呼ぶらしい。慣れたら意外と使いやすい――を引っ張り出す。計算は古びた羊皮紙に遠慮なく書き並べる。文字の読み書きも算術も、全ては先代から教わった技術だ。このあたりの町で普通に育っただけならばこうはいかない。ベガがインクを注ぎ足しにボトルを引き寄せたとき、アルタイルが足早に戻ってきた。
「倉庫見てきたけど、『雨雲』の材料はやっぱりなかった。これ、在庫切れのリスト。この季節に必要なの、ほとんど切れてる。作り置きってまだあった?」
思わず眉間に皺が寄った。作り置きもほとんどなくなってしまっている。材料も雨季の前は多めに調達していたのだが、一度に大量に手に入れられるものばかりではなかった。
姉弟は顔を見合わせて苦笑した。仕方がない。よくあることだ。
計算の終わった羊皮紙をくるくると巻いて、ベガは軽やかに立ち上がった。
「お客様が帰られたら森に出かけましょ。準備はお願いね」
足取りも軽く客のもとへと踵を返す姉の後ろ姿へ、アルタイルはひらひらと手を振った。




