第18話: 幾度目かの冬
その年の春は、いつもより早く来た。
雪解けの水音を、寝床の中で聞いた。起き上がる前に季節がわかるようになったのは、いつからだろう。数えるのをやめてから、もう長い。
外に出ると、土の匂いが濃かった。冬の間に凍っていた地面が、指で押すとまだ少し湿った音を立てて沈んだ。畑を起こし、種を蒔いた。シアが水路を広げるのを手伝ってくれた。土を割る音と、水が新しい道を探して跳ねる音——その二つが重なって、しばらく耳の奥に残った。
「今年も、同じとこに蒔く?」
「うん。去年、よく育った場所だから」
「覚えてる。シアも」
シアが、水路の縁に座って足をぶらつかせながら言った。何年分もの春を、シアも同じように数えているのだと、そのとき初めて気づいた。数えているのは自分だけではなかった。
夏には、日照りが続いた。井戸の水位が下がり、朝と夕方の二回、畑まで水を運ぶ日が増えた。
桶を提げて歩いていると、焼けた土の匂いが鼻の奥に張りついた。カルが畑の縁に座って、乾いた葉を指でつまみながら言った。
「そっちの畝、あと二日で枯れる」
「わかった。先にやる」
「べつに、教えただけだ。急がなくても」
言葉とは裏腹に、カルは水を運び終えるまで、畑の隅から動かずに見ていた。桶の水面が土に染み込んでいく音だけが、しばらく庭に響いていた。
秋には、ソルと一緒に根菜を掘った。土を掘るたびに指先が土色に染まり、洗っても爪の間だけはなかなか落ちなかった。
「今年は、深く根が張ってる」
ソルが、掘り上げた根菜の重さを確かめながら言った。表情はいつも通り変わらなかったが、声の重さがいつもより少しだけ増していた。土の下で何が起きているかを、ソルはいつも、言葉より先に手で知っているようだった。
冬には、また炉の前で過ごす時間が増えた。薪を割る音、鍋の湯が沸く音、雪が屋根から滑り落ちる音——季節の音は毎年同じはずなのに、聞くたびに少しずつ、体になじんでいく気がした。
その一巡りが、もう何度目かわからないほど繰り返されていた。嵐の夜に土を守ったこと、傷ついた獣を見送ったこと、名前をつけた小さな命のこと——一つひとつは薄れずに、けれど痛みとしてではなく、確かにあった出来事として、体のどこかに積み重なっていった。
冬がまた巡ってきたころ、エルの言葉のことを、時々思い出した。
「守られている」という一言は、まだ答えを持たないまま、心の奥にしまわれていた。誰に、何から。考えても答えは出ず、炉の火を眺めるだけの夜が何度もあった。
守られている、ということは、見られているということだ。見られているということは、いつか値踏みされるということでもある。役に立たないと判断されれば、また同じことが起きるかもしれない——今度は、この庭ごと奪われるかもしれない。その考えが浮かぶたびに、右手首の古傷にそっと触れる癖がついていた。
それでも、急かしても仕方がないと、自分に言い聞かせた。急かないことにも、七年で慣れていた。雪の重みで軋む木の音を聞くたびに、古木のエルのことを思い出す自分がいた。急かないことと、忘れないことは、たぶん違う。
答えの出ない問いを抱えたまま季節を数えるのにも、いつのまにか慣れていた。慣れることと、諦めることも、たぶん違う。そう自分に言い聞かせるたびに、少しだけ気が楽になった。
その年の夏は、蝶の季節だった。
珍しく大きな蝶の群れが、ある朝、庭を横切った。橙と黒の羽が幾つも重なって、光を弾きながら畑の上を渡っていった。羽ばたきの音は聞こえないはずなのに、風の質だけが変わったのがわかった。生ぬるい風に、蜜のような甘い匂いがかすかに混じっていた。
「あんなの、初めて見た」
カルが、声を上げた。興奮を隠しきれない、上ずった声だった。カルが素直に驚くのは珍しく、その様子を見て、少しだけ笑った。
「カル、嬉しそう」
「べつに。おれは、珍しい虫を見ただけだ」
照れ隠しだとわかっていたので、それ以上は言わなかった。ただ、蝶が去ったあとの畑に、羽の粉のようなものがうっすらと光って残っているのを、しばらく眺めていた。指ですくおうとすると、光はするりと逃げて、土の間に消えた。
秋には、収穫の量が去年より増えた。土を掘り返すたびに、去年より重い根菜が出てきた。持ち上げると、湿った土の匂いが手のひらに移った。
ソルが土の状態を確かめながら、短く言った。
「土、良くなってる」
「わたしが、何かしたのかな」
「してる。ずっと」
ソルは、それ以上説明しなかった。だが、土が良くなっているという事実だけで、七年分の積み重ねが伝わってきた。何もしていないようで、毎日していたことが、確かに土の中に残っていた。
役に立てているかどうかは、いつも自分では測れない。それでも、掘り返した土の重みが、答えの代わりになることもあるのだと、そのとき初めて思った。
その晩、繕い物をしていて、気づいたことがあった。継ぎ接ぎだらけの服の中に、まだ一片だけ残っていたはずの、都で織られた麻布——それが、いつのまにか跡形もなくなっていた。今、指先にあるのは、精霊素材で染めた布ばかりだった。
いつ擦り切れて、いつ縫い替えたのか、思い出せなかった。気づかないうちに、着ているものからも、都のものは消えていた。
そうして、また冬が来た。その冬の記憶は、蝶の羽の光と、土の匂いと、ソルの短い言葉になって、心のどこかに積もっていった。
冬が、また巡ってきた——それを数えている自分に、少し驚いた。
いつからか、季節を「何年目」で数えるのをやめて、「何度目」で数えるようになっていた。都を出てから何年、という数え方は、もう心の中でほとんど使われなくなっていた。
初雪の日、外に出ると、息が白く固まって、すぐに崩れた。雪の匂いは毎年同じはずなのに、今年はどこか、土の匂いが混じっているように感じた。庭が、雪の下でも眠りきっていない証拠だった。
小屋に戻り、濡れた靴を炉端に並べた。革の焦げる寸前の匂いと、鍋の湯気が、狭い部屋の中で混じり合った。この匂いの組み合わせを、もう何度知っただろう。数える気にはならなかった。
炉の火を見ながら、ふと、都の冬を思い出そうとした。宿舎の寒さ、団員たちの声、任務の指示。輪郭は覚えている。追放を言い渡した人物の顔を思い出そうとしたが、そちらはもう、輪郭さえ霞んでいた。
小さく、当時よく歌われていた行軍の調子を口ずさもうとした。だが、二小節ほどで節が崩れ、続きが出てこなかった。喉の奥で、音にならない音がつかえた。
思い出そうとして、思ったより呼吸が浅くなった。一瞬、誰の声だったのかももう思い出せない、小さな笑い声のようなものが、耳の奥で鳴った気がした。右手首の古傷が、かすかに疼いた気がしたのは、たぶん、気のせいではなかった。
だが、それだけだった。声はすぐに炉の火の音に紛れて消え、もう二度と戻ってこなかった。寂しさも、怒りも、未練も、あとには何一つ残らなかった。あるのはただ、「そういうことが、確かにあった」という記憶だけだった。
七年前は、思い出すことすら怖かった。今は、思い出そうとしても、うまく思い出せない。その変化がいつ起きたのか、自分でもわからなかった。
窓の外では、雪が音もなく降り続いていた。
「リナ、何、考えてる」
シアの声がした。冬にしては、気配がしっかりしていた。
「都のこと、考えてた」
「また、夢?」
「ううん。ただ、思い出そうとしただけ」
「思い出せた?」
「思い出せた……でも、何も感じなかった」
その答えに、自分でも少し驚いた。感じない、ということが、もう寂しさではなかった。ただの事実として、過去が過去のままそこにあった。
「それ、いいこと?」
「いいこと、だと思う」
シアが、納得したように小さく揺れた。それから、炉のそばに寄ってきて、火を眺める仕草をした。人間の仕草を真似ているのだと、七年でわかるようになっていた。
夜が更けて、炉の火が細くなった。
薪を一本足すと、火はまた少し明るくなった。爆ぜる音が、静かな部屋に小さく響いた。幾度目かのこの冬も、これまでの冬と何も変わらないはずだった。だが、心の中で何かが静かに一区切りついたのを感じた。
都への郷愁が、もうどこにも見当たらない。それを寂しいとも、清々しいとも思わなかった。ただ、事実として受け止めた。
その代わりに何があるのかと問われたら、まだうまくは答えられない。けれど、隣で火を眺めているシアの気配だけは、はっきりとそこにあった。
薪が、また一本、灰になった。
雪解けの水音で始まったこの一年は、炉の中で爆ぜる火の音で終わろうとしていた。都の冬のことは、もう、その灰の中にしかなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第18話をお届けしました。今回は少し時間を進めて、幾度目かの冬までを一気に描きました。カルが素直に驚く場面、ソルが「土、良くなってる」と認める場面は、これまでの積み重ねを短く示すために入れています。
「都への郷愁が、もうどこにも見当たらない」という一文は、第15話の「都の夢」からさらに一歩進んだ確認のつもりで書きました。一度気づいたことを、時間をかけてもう一度、今度は迷いなく確かめる。そういう構成にしたかったです。
次の話では、精霊たちの集会にリナが初めて招かれます。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
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