107 彼女について
「た、助かった……」
ドアチェーンを握る手が震えている。荒れた息を吐く私の隣ではディアナも肩で息をしていた。
「ディアナ……、大丈夫?」
胸に手を当て、彼女は小さく頷く。
「あいつら、本当に入って来られないのよね?」
私は玄関の外へ耳を澄ませて、足元にいるくま太に確認した。
『その小窓から確認してみるッスよ』
そう言われて、玄関の新聞受けから恐る恐る外を覗き込むと、門扉の外で怪異たちがウロウロしている姿が見えた。こちらへ近づこうとしているのに見えない壁に阻まれている。フェルさんの言う通り、結界のおかげで家の敷地に入って来られないようだ。
ようやく張り詰めていた息を吐き出して、ほっと胸を撫で下ろす。力が抜けた足どりで、階段を昇ってなんとか自分の部屋に戻ったところで、とうとう腰が抜けた。
「もう……無理……」とベッドに倒れ込む。
ドアの前でディアナは黙って立っている。俯いたまま私の方を見ようとしない。私はそんな彼女を見つめ、それから床に立っているフェルナンドへ目を向けた。
『はじめまして。自分はフェルナンド、アルゼリオン王国の魔導士ッス』
フェルナンドが手を伸ばすと、ディアナは動くぬいぐるみを警戒するように見つめている。
「は、はじめまして……」
無理もない。こんなへんてこりんな存在、向こうの世界でも見たことないのだから。
『単刀直入に聞くッスけど、この世界から脱出するにはどうすればいいッスか?』
「知りません……」
ディアナは小さく首を振って答えた。
「私には分かりません。この世界は、生まれたら後は消えるだけだから……」
『消えるとはどういう意味ッスか?』
「言葉どおりです……。消えて、最初からなかったことになります」
『あの黒い怪異については、本当に心当たりはないッスか?』
「はい……」
少し間を置いて、彼女は答えた。
「でも……たまに夢で見たことはあるんです」
「夢?」
「はい。あの黒い人たちが、街の人たちを襲う夢を……。見た気がします」
夢……。あの黒い怪異がナイトメアの一部であることは間違いない。ディアナの夢と黒い怪異が関係しているのだとしたら、もしかしてディアナが夢を見ているとき、寝ているときに黒い怪異が出現する?
「そういえば……。なっちん、高校生になってからナルコレプシーになったって言ってたよね」
「うん……。たぶんそうなんじゃないかって……お医者さんに言われた」
ナルコレプシー、通称『居眠り病』と呼ばれる、突然眠気に襲われてしまう病だ。私もなっちんから聞く前は、そんな病気があることすら知らなかった。
病気だと知ってからは、隣の席で寝そうになる彼女をシャーペンで突っついて起こすようにしていた。
「それと黒い怪異が関係しているんじゃないかな? スポーツ祭に遅れてきたときも車で送ってもらったんだよね? そのとき、車の中で寝たりした?」
「そういえば……」
「やっぱり!」
「でも……、でもそれじゃあ今、あの黒い人たちは一体……」
ディアナが窓の外に視線を向けた。窓の外ではあいつらがウロウロしているはずだ。
「あ……。そうか……」
『おそらく、ナイトメアの防御機構みたいなものッスね。この世界を脅かす存在を検知して、宿主とは別個に動き出したのかもしれないッス』
「ディアナ、教えて」
私はベッドから起き上がり、彼女の前に移動する。
「怪異になった人たちは、助けられるの?」
「……この世界に入ったら誰も助けられません」
「そんな……。黒い怪異にこの世界の人たちが呑み込まれたら、こっちの世界も……現実の私たちも消えちゃうの?」
「たぶん……そうなんだと思います」
彼女の返事には迷いがある。
「この世界が消滅すると、ナイトメアの結界に包まれていた地域や人たちの存在が消えます……」
『ふーむ……』
フェルナンドが腕を組む。
『矛盾しているッスね』
「矛盾?」
『だって、何も知らないって言っていたクセに、「この世界は生まれて消えるだけ」とか、「結界に包まれた地域や人の存在が消える」とか……なんでそんなことを知っているんスか?』
「それはっ……」
ディアナの肩が揺れた。
「それは……見てきたから……」
顔を上げた彼女の瞳には、深い悲しみが滲んでいた。
「何度も……このナイトメアによって消え去った人たちのことを……」
『キミは以前も、ナイトメアとして国を消滅させたことがあるんスか?』
「……」
ディアナは首を横に振った。
「私は今回が初めて」
そして、瞳に涙を浮かべた彼女は両手を胸の前で握り締める。
「今回が初めてで……これが最後……」




