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EP30 すれ違う二人

【隆とCaïssa】


夕方の光が、団地の廊下を長く伸ばしていた。外階段を上がるたび、鉄骨がかすかに鳴く。全国大会の喧騒は遠のき、蝉声だけが薄い膜のようにまとわりつく。


玄関のドアが開くと、洗い立てのタオルと古い本の匂い。六畳間には折りたたみのテーブルと、壁際に積まれたダンボール。エアコンの風は弱く、窓の向こうで夕雲が溶けていく。


「親父、俺……あんたに会わせたい人がいる」


蒼空が靴を脱ぎ、振り返る。後ろに立つのは、白いブラウスに女王のピンをつけた女性と、制服のリボンを正した少女。


「久しぶりだね、隆」


父の手が、空中で止まった。


「……エレナ。どうして日本に。いや――どうして蒼空が、あなたを連れてくる?」


「チェスが、俺とエレナを合わせてくれた」


エレナは畳に正座し、まっすぐに父を見る。


「隆。蒼空をポーランドに連れていくよ。……麻里が遺した“詩”を、私はちゃんと見届けたい」


テーブルの端に置かれた古い湯飲みに、風がうつろな輪紋を描く。


隆は低く、力のない笑い方をした。


「蒼空がチェス……なんてことだ。――許せん。お前がチェスをやることだけは」


「親父、俺は真実が知りたい。母さんはどうして死んだのか。Caïssaって誰なのか。――そのために、ポーランドへ行く」


> 蒼空がCaïssaの名を、人前で発したのは初めてだった。

> 名を発した瞬間、喉がからまる



隆の顔色が、目に見えて変わる。


「その名を……なぜ知っている」


父の手が湯飲みに触れて小さく鳴る。


「なぜかは言えない。でも――Caïssaは俺がチェスをする理由なんだ」


エレナが、静かに父へ顔を向ける。


「隆。Caïssaってチェスの女神様の名前だね? 麻里となにか関係があるのかい?」


隆は、畳の目を見つめながら答えた。


「麻里はAIに囚われた。コードと感情を混ぜた“実験”の果てにな。Caïssaは、その墓標だ。……蒼空に、同じ道を歩ませたくない」


「いやだ」


蒼空の声は、いつになく強かった。


「俺には母さんの思い出がない。だけど盤の前に座っていると――感じるんだ。母さんの息の仕方、手の速度、駒の重み。だから――俺は続ける」


「それは私にもわかる」


エレナは短く頷く。


「蒼空の中に、麻里はいる。――確実に」


隆の指先が震えた。畳の上に落ちる影も、微細に震える。


それは、麻里の名でも、Caïssaの正体でもない。


何に対しても無気力に俯いていた息子が、こんなにも熱を伴って言葉を発した――その事実に、揺れていた。


「……麻里の最期を見た俺は、正しさにしがみつくしかなかった。間違えたら、また誰かを失う気がして……」


エレナは目を細め、この場の終盤を見据えて言った。


「隆。麻里を失ったのはあなただけじゃない。あなたが守りたいのは息子なの、それとも自分の選んだ研究の正しさ?」


しばらくの沈黙のあと、隆は決意を持って顔を上げる。


「……わかった。エレナのところへ行くなら、俺とは親子の縁を切るんだ。――もうここには戻るな。……出ていけ」


空気が、畳と壁と窓枠のあいだで濃くなる。


蒼空は、ほんの一拍だけ目を閉じて、四拍で息を整えた。


「ごめん、親父。――それでも俺はポーランドへ行く。もう止まれない」


「……蒼空」


桃子の声は、そっと灯を入れるように小さかった。


☆☆すれ違う二人☆☆


エレナと別れ、アパートの外階段を降りた先。夕暮れは群青に変わりかけ、街灯が順に灯っていく。遠くで環七の車の流れが低く唸る。


自販機の明かりの前に立ち止まり、蒼空と桃子は向き合った。


桃子は、乱れた前髪を指先で整えながら笑う。けれど、その笑みは薄く揺れていた。


「……お父さんの件、大変なことになっちゃったけど。良かったね。――ポーランドに行けることになって」


蒼空は、言葉の代わりに手を伸ばした。


桃子の手を取って、引きよせ、抱きしめる。


体温が胸に触れる。鼓動が四拍で重なる。


「ありがとう。……俺、桃子がいなければ、ここまで来れなかった。――俺、桃子が好きだ」


桃子の耳まで一気に赤くなる。


「え、今それ言う? ……あたし、決勝の時、思ってたんだよ。あたしが勝てば蒼空は日本にいる。ずっと一緒にいられる。だから――本気だった。あの勝負」


蒼空は腕の力を緩めない。言葉は出ない。


桃子の目に、大粒の涙がたまる。


「Frustrujące!!(悔しい!)。本気でやって師匠以外に負けたことなんかなかったのに。……でも蒼空は勝つって、どこかでわかってた。だって――師匠に言われてたもん。『自分よりチェスの強い男を見つけなさい』って。そしてあなたがいた。それが私の日本に来た目的」


「……桃子」


涙のふちで、彼女は笑う。


「蒼空、あんたはポーランド、ううん――ヨーロッパでもっと強くなる。行きなさい。あんたの戦場は、もう日本じゃない。


そしてあたしも――できるだけ早く行く。絶対に。だから――待ってて。……浮気しちゃだめだよ♡」


最後の言葉の言い方だけは、いつもの悪戯っぽい桃子だった。


彼女は蒼空の首に腕をまわし、そっと頬にキスを落とす。


触れた場所が、遅れて熱になる。


「……うん」


風が二人の間を通り抜け、どこか遠くの花の匂いを運んだ。


見上げた空は、ひとつの色では言えない濃さになっていた。


☆☆成田空港、通りすがりの黄昏☆☆


翌日、出発ロビーのガラス窓は、西日に焼けた滑走路を大きなキャンバスみたいに見せている。案内板の電子音が規則正しく鳴り、キャリーの車輪が床を流れる。人の声は多いのに、不思議と静だ。


手荷物のリュックには、例の木箱のチェスセット。角は少し欠け、留め金は磨り減っている。


保安検査の列で、蒼空は何度か箱のふちを撫でた。木肌は温かい。


(母さんの匂いがする――気がする)


> Caïssa《行こう。詩は続く。――ページがめくられる音は、心の中で鳴る》


> 蒼空……うん


ゲートへ向かう途中、ふと振り返る。


窓の向こう、沈む橙が滑走路の端に張りついて、機体の腹に長い影を描く。


ガラスにうつる自分の横顔は、昨日までより少しだけ大人びて見えた。


耳のどこかで、桃子の声が反響する。


――「浮気しちゃだめだよ♡」


微笑みが、勝手に口元に生まれる。


蒼空は小さく呟いた。


「……チェックメイトだよな。――やっぱり、桃子には勝てない」


搭乗開始のアナウンスが、英語と日本語で交互に流れる。


ゲートの先には、見たことのない空気の匂い。


日本とポーランド――通りすがりの一歩が、また世界を少し動かす。


蒼空はリュックの肩紐を握り直し、四拍で息を整える。


足を出すたび、過去と現在の距離が一歩ずつ詰まっていく。


――そして、新しいページへ。


第三章:ポーランド編へ。

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