第232章 八千が一万八を呑み込む時
フィルードはその光景を目にして、思わず苦笑し、ゆっくりと首を横に振った。
――この段階になって、まだ逃げ道を探すか。
もはや笑うしかない。
そもそも、伯爵城のような大城塞に対して、最初から過度な幻想など抱いていなかった。
だが、相手のほうから自ら城を捨て、野戦に打って出てくるとは思っていなかった。
これは、戦場に立つ者からすれば、これ以上ないほど分かりやすい「好機」だった。
この時点で、三つの子爵領に存在していた糧食、貴重物資はすでにすべて移送済みである。
城に残しても意味はない。守る価値のない殻だけを残し、主力を引きずり出す――最初からそのつもりだった。
フィルードは捕虜となった農奴の中でも、特に統制が取れ、従順だった二千人を城の守備に残した。
残りの全軍を率い、倍以上の敵兵を真正面から追撃する。
――逃げ道を断たれた状態で、数だけ多い軍がどう崩れるか。
その実験条件としては、これ以上ないほど整っていた。
敵を率いる伯爵は、こちらが展開した八千の兵を目にした瞬間、露骨に目を見開いた。
自軍は一万八千。数は倍以上だ。
八千など、数にすら入らない――本来なら、そう判断して当然のはずだった。
「どこの部将だ……ここまで傲慢な真似をするのは……」
だが、幸いにも伯爵は逃げなかった。
足を止め、戦列を整え始めた。
フィルードはその様子を見て、内心でため息をついた。
――状況が、まるで見えていない。
こちらがこの人数で、これだけ整った陣形を維持したまま堂々と出てきている意味を、まるで理解していない。
自分たちが“凡庸な軍”であることに、気づいてすらいないのだ。
双方が数百メートルまで接近したところで、フィルードは軍を停止させた。
兵たちに短時間の休息と、装備の最終確認を命じる。
敵が呆然と見守る中、八千の軍団は乱れることなく呼吸を整えていった。
そして、再び進軍命令が下る。
フィルードは八千の兵を率い、整然とした歩調で前進を開始した。
正面の敵に向け、隠すことのない殺気を叩きつけるように。
陣形は品字。
フィルード自身が四千余りを率いて中央に立つ。
右翼にはカールトン子爵、左翼にはフランク子爵が、それぞれ二千近い兵を展開。
フィルードとエレナ、そして二十名を超える超凡者は側面に控え、必要に応じて即座に支援へ回れる配置だ。
進軍する大軍の横で、カールトンが顔を真っ赤にし、興奮を抑えきれずに叫んだ。
「フィルード! 正直に言う、俺はもう完全にお前に頭が上がらない!
昔なら、八千で一万八千に挑むなんて、鼻で笑ってた!
それが今、現実になってるんだ!」
フランクもまた、声を上げて笑った。
「まったくだ。俺も団長には完全に降参だ。
この半年で、もう疑う気すら起きなくなった。
お前と戦えば、百戦百勝。向かうところ敵なしだ。
昔なら狂気の沙汰だが……今日はなぜか、負ける気がしない!」
二人の上位超凡者は、複雑な表情でフィルードを見つめていた。
大黒に跨ったフィルードは、軽く笑い、手を振った。
「大した話じゃない。
戦争は人数で決まらない。決まるのは、組織度と精鋭度だ。
相手が本物の精鋭軍団なら、俺もこんな真似はしない」
視線を正面に戻し、淡々と続ける。
「向こうは二流の衛兵が少数いるだけで、あとは一万近い農奴兵の寄せ集めだ。
こんな軍は、一撃も耐えられない。
せいぜい十分だ。
それも――俺たちに負けるんじゃない。
自分たちの農奴兵に踏み潰されて、勝手に崩壊する」
二人の子爵は、感心したように何度も頷いた。
彼らは、これから起こる光景を、心から楽しみにしていた。
八千対一万八千。
この戦いは、間違いなく歴史に残る。
もっとも、史書に記されるのは結果だけで、過程は一行で済まされるのだろうが。
距離が二百メートルを切ったところで、フィルードは魔力を込め、大音声で叫んだ。
「将士たちよ!
お前たちは俺と共に進み、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず奪ってきた!
今、我らは八千で、一万八千に挑む!
だが立ちはだかるのは精鋭ではない! ただの農奴兵だ!
お前たちの前では、土雞瓦狗も同然!」
声をさらに張り上げる。
「この戦い、勝たねばならぬ!
勝てば、この戦争は王国史に名を刻む!
八千対一万八千――優勢は我にあり!
俺は信じている!
お前たち一人ひとりが、十人分を担えると!
俺と共に戦うか!」
瞬間、全軍から地鳴りのような咆哮が巻き起こった。
「戦う! 皆殺しだ!」
連戦連勝を重ねた軍の士気は、すでに頂点に達していた。
今なら、たとえ八万が相手でも、迷わず突撃するだろう。
フィルードがいれば負けない――それは、もはや信仰に近い確信だった。
その咆哮だけで、敵軍は完全に凍りついた。
整いきった声が、両軍の質の差を如実に物語っていた。
農奴兵たちの目には、もはや相手は人間ではなく、飢えた猛虎の群れに映っていた。
戦闘が始まる前から、すでに気勢で圧倒されていた。
やがて距離が百メートルを切り、両軍の弓箭手が矢を放ち始めた。
数では劣るが、フィルード軍の兵はほぼ全員が鉄甲を着込んでいる。
致命傷はほとんど出ない。
フィルードはその様子を見ながら、内心で防具の改良を決意していた。
――帰ったら、護肩と護臂を作るべきだな。
こういう偶発的な損耗は、完全に無駄だ。
一方、こちらの矢は容赦なく農奴兵を狙い撃ちにしていた。
恐怖と混乱を同時に与える、最も効率の良い選択だった。
距離が二十メートルまで縮まった瞬間、フィルードが大きく手を振る。
後衛から投矛が唸りを上げて飛び出し、三段式で敵陣を切り裂いた。
防御力の低い農奴兵が次々と倒れ、混乱は臨界点へと達する。
敵伯爵が慌てて叫んだ。
「突撃だ! 数は我らが上だ! 殺せ!」
声は完全に裏返っていた。
そして――
両軍は、激突した。




