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好きだ  作者: 天曇


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1/3

一、早霧 昂輝

 酒の臭いが漂う居酒屋。言葉を言葉と認識できず、ただの音となった喧騒の中に、俺たちはいた。


「昂輝ぃ……」


 唯一聞こえる言葉、それは店の端にある小さな二人用の机をまたいで俺の対面にいる男の声だけだ。


 黒い半袖ポロシャツのボタンを全部開け、机に肘を置いて酒を飲んでいる。

 今日の気温は25℃、七月にしてはとても涼しく、過ごしやすい気候だ。


「樹、飲みすぎじゃないか?」


「もう俺なんてどうでもいいんだ……」


 千鳥 樹。彼は大学の同期であり、友人だ。


 今日一日中ため息を吐いており、時折チラチラとこちらを見ていたので飲みに誘った。

 俺が「今日は奢ってやるから飲みに行こう」と言った時に一瞬ピクリと口角を上げた樹の顔はよく覚えている。


 だが、なにか相談をしてくるでもなく、ずっと病んでいる風に振舞っている。


「……本当に何があったんだ?」


 何回目かの質問。興味がある訳ではないが、相手が病んでいる風に振舞うのであれば、俺は心配している風に振舞う。

 それがきっと正しい。


「……誰にも言うなよ?」


「もちろん」


 言う訳がない。

 自意識過剰なんじゃないか?


 わざわざ他の人にお前の話なんかしない。

 ……ああ、だめだ。つい変なことを考えてしまう。


「それで?」


「……振られたんだ」


 誰に、と思わず口にだそうとし、飲み込む。


 彼女。そういえば事あるごとに自慢していた彼女がいたな。

 名前はなんだったか……、まあいい。


「振られた? 喧嘩でもしたのか?」


 仕方がない、ならば仲介しよう。

 そう思ったが、どうやら違うらしい。


「なんか、蛙化したんだってさ」


「蛙化」


 普段聞かない言葉に思わずオウム返しをしてしまう。


 なんだったか。確か好きな人が自分を好きになった途端に生理的嫌悪を覚える現象だったか。

 だが、二人は既に付き合っている。蛙化するのだろうか。


「俺の食べ方が汚いとか、そんなことで蛙化して……」


「あー……」


 そう言えば蛙化は幻滅のような使い方もされていたな。

 あくびが出そうになるが、手で顔を覆ってこらえる。


 樹は酔っているせいか、俺の行動に違和感を覚えなかったようだ。

 いや、他人に構う余裕がないのだろうか。


「マジでなんなんだよ」


「……大変だったな」


「本当にクソ女だよ」


 顔が赤い。もう結構酔いが回っているな。


 一度決壊したダムに水が戻らないように、樹の愚痴もどんどんと流れ出てきた。

 それは酔っているせいで出た愚痴ではないだろう。


 千鳥 樹、彼のコミュニケーションは基本的に悪態をつくことよって行われている。

 誰かを悪く言って、なにかに文句をついて、共通の敵、共通の話題がなければ会話ができない。


「あーそれな、わかる、やばっ、きっついな、そりゃ大変だ、マジか」


 中身のない相槌。


 俺が発する音に意味はない。

 意味の込められていない音であっても、相手は自分事に解釈する。


 俺と樹は相性がいいのだ。


 樹は悪口に依らないコミュニケーションを知らないし、俺も中身のない安定的なことしか言わない。

 だから、表面上は仲良く過ごすことができている。


 この友情は歪なものだ。

 歪だが、しかし確かに存在している。


 透明な円柱状のグラスに注がれたウーロン茶を飲みながら、耳に入る音を知覚する。



 ——俯瞰している。



 俺は今、自分を俯瞰している。

 千鳥 樹から発せられる愚痴の数々が、耳から耳に流れて出ていく。


 周囲の喧騒と同じように、彼の言葉をただの音としてしか認識できない。

 なんせ他人事だ。俺には関係ない。


 馬鹿みたいに文句を垂れ流す男の、なんという下らなさ。

 それなら、最初から付き合わなければいいだろうに。



 ああ、下らない。



 好きだとか嫌いだとか、そんな下らない判断基準で生きているくせに、いざそれが間違っていたら文句を言う。


 もっと俯瞰するべきなんだ。


 ゴーヤチャンプルを食べながら話すから、俺の方に食べカスや唾が飛んできている。

 くちゃくちゃと音を立てて咀嚼し、ビールを飲んだら大きくゲップをする。


 なぜ、食べ方が汚いことを指摘されないと思っているのだろうか。


 なぜもっと自分を俯瞰しないのだろうか。

 なぜ元カノへそこまでの暴言を吐けるのだろうか。


 なぜその元カノは食べ方が汚いと分かっている男と付き合っていたのだろうか。

 だが、そのどれもがどうでもいい。



 どうせ、他人事だ。



 ウーロン茶の入っていたグラスを机に置き、一息つく。


「なあ、あの子可愛くね」


 樹が発したその言葉で、ようやく俺の意識はこの居酒屋に降りてきた。


 樹の持つ箸の延長線上を目でなぞろうとし、しかしそれはいらぬ努力であったと遅れて理解する。


 間違いなく、あの人だ。


「樹、あの人は大学の同期だよ」


「マジぃ……? 運が巡って来たなぁ」


 もう元カノはどうでもいいのか。

 そう思いつつ、俺の視線も彼女に吸い寄せられていた。


「昂輝、知り合いかぁ?」


「前になにかの講義で話した事がある。名前は確か白石 美月。……狙う気? 彼氏いるだろうに」


「まだ分かんねぇよっ。行ってくるわ」


 学習しない男だな。付き合えたとて、また食べ方が汚くて蛙化されるぞ。


 だが、どこか心の内がモヤモヤとする。

 嫉妬、なのだろうか。


 まさか。だって俺は白石 美月とほとんど会話したことがない。

 別に俺も人間である以上、好意といった感情も持っている。


 だが、嫉妬は独占欲だ。

 俺の友人ですらない彼女に樹が話しかけたからといって、どこに嫉妬をする要素があるというのだろうか。


「君、美月ちゃんでしょ。一人〜?」


「どちら様?」


「ほら、同じ大学の……」


 嫉妬ではない。俺は好悪なんて下らない判断基準で動かない。


 それでも、視線は未だに彼女に注がれている。

 何度も反芻した彼女との会話を思い出している。



 その気持ちに結論を出せないまま、俺の体は無意識に立ち上がっていた。

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