第55話:終わらない私と、過ぎゆく日々
葬儀からしばらくの時がたった。ハーストの街はいつしか東のアリステア王国、西のエルディア皇国の中間に位置する交易の要衝として、急速に発展していった。
独立が正式に認められたことで、冒険者ギルドの除籍もすべて取り消された。街には活気を取り戻した冒険者たちの姿が多く見られるようになり、かつてゲオルグさんたちが愛したハーストは、確かな都市国家としての地位を築き上げていた。
かつての殺伐とした空気は影を潜め、広場には露店が並び、商人や旅人たちが交わす笑い声が溢れている。それは、あの苦難の日々を乗り越えた者たちが、自分たちの手で勝ち取った平和の証だった。
私はその喧騒を、街の外れにある高台から一人で眺めていた。
眼下に見える通りには、真新しい武装を整えた冒険者たちが談笑しながら歩いている。かつての惨劇を知る者からすれば隔世の感があるが、街の灯りはかつてないほどに力強く、そして温かい。
「……ゲオルグさん、この街は、ようやくここまで来ましたよ」
私は独りごちて、胸に手を当てた。
私の指先には、もはやあの時のような死の概念を纏っていない。
平和な都市の鼓動と、生きる人々の営みの熱だけが、私の意識を現世に繋ぎ止めている。
私は高台を降り、石畳の道を歩き出した。かつての荒れた路面は綺麗に整備され、足元には商人が落としたであろう果実の甘い香りが微かに漂っている。人々が交わす挨拶の声が、穏やかな昼の空気に溶けていく。
やがて、街の中心に位置する、今では政庁舎兼冒険者ギルドとなった建物が見えてきた。かつては緊張と重苦しい空気ばかりが支配していたこの場所も、今では往来する冒険者たちの活気ある声に包まれている。
私は建物の重厚な扉の前に立った。
この扉を抜ければ、多くの人が忙しなく動き回り、誰かの笑い声や、新しい依頼を求める話し声が聞こえてくるだろう。それは平和な都市国家の象徴そのものだった。
私は一度深く息を吸い込み、扉に手をかけた。
中に入ると、受付のカウンターには積み上げられた書類が整然と並び、冒険者たちが併設された酒場で談笑しながら装備を確認している。壁には掲示板が新設され、街の守りを固める依頼や、周辺地域の調査依頼が所狭しと貼り出されていた。
喧騒の中に身を置くと、ふと、懐かしい感覚がよみがえる。
かつてゲオルグさんたちがこの場所で何を語り、どんな表情で酒を酌み交わしていたのか。彼らの足跡は、この建物の隅々に、そしてこの街の礎に確かに刻まれている。
私は誰に声をかけるでもなく、広々としたギルドのホールを静かに横切った。誰もが自分の明日のために活発に動いているこの場所で、私はただ、この街の平穏な日常の音を聴いていた。
「おっ、女神様じゃん。今日も街の見回りかい?」
ふと背後から気さくな声が飛んできた。振り返ると、そこには装備を整えた一人の冒険者が立っていた。かつてゲオルグさんが私に向けた女神という呼称は、いつの間にかこの街の住人たちの間で、感謝と親しみを込めた愛称として定着していた。
「うーん、見回りだなんて。どちらかというと、ただのお散歩ですかねぇ」
私が少し困ったように、けれど穏やかに微笑んでそう答えると、隣にいた別の冒険者もひょいと顔を覗かせて笑った。
「そうか~? アインさんが歩いてると、なんか街全体が落ち着くっていうかさ。あ、そうそう、ミリアさんにもよろしく言っておいてくれよ。この前、いい茶葉が入った店を見つけたからさ、今度差し入れに持っていくよ」
「ミリアさんの作るお菓子、最近評判いいもんな。アインさんも食いすぎて太るなよ?」
次々と投げかけられる好意的な言葉。かつての異物を見るような冷たい眼差しは、もうどこにもない。彼らにとっても、私はこの街の平和の象徴のような、親しい近所の誰かのような存在になりつつあった。
「ふふ、そんなに食べられませんよ。ミリアさんにも、皆様からの伝言、しっかり伝えておきますね」
彼らは満足そうに頷くと、掲示板の依頼票を眺めながら楽しげに談笑し始めた。その背中を見送りながら、私は小さく息をつく。
今では誰もが自分の生活を守り、明日へ向かって歩いている。ゲオルグさんたちが必死に繋いできたこの街の営みが、私の心に柔らかな波紋を広げていた。
私は建物の扉を押し、外へと踏み出した。頭上には、昨日と変わらぬ澄み渡った正午の太陽が輝いている。
私は足取り軽く家路を急いだ。見慣れた石畳、馴染み深い角の曲がり角。街の景色はあの時の記憶と寸分違わず重なっているようでいて、どこか懐かしい時間の色を濃く纏っていた。
自宅の木の扉を静かに開けると、使い込まれた室内には、長い時を経て熟成されたかのような、穏やかな空気が澱のように溜まっている。
「ただいま、ミリアさん」
声をかけながら奥の部屋へと向かう。窓辺には、揺り椅子に身を預けた小さな人影があった。かつて私と一緒に街を歩き、私の袖をそっと握りしめていた彼女の面影を、老いという静かな時間が優しく塗り替えていた。
膝には厚手の毛布が掛けられ、痩せ細った手には幾多の歳月を刻む深い皺が浮かんでいる。白銀の髪を緩くまとめた彼女が、微睡みから覚め、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……アイン、さん……おかえりなさい……」
その声はひどくかすれ、かつての瑞々しさは失われていた。起き上がろうとして、彼女の身体が小刻みに震える。まともに歩くこともままならず、かつての少女の面影は、今では柔らかな慈しみの表情の奥深くに大切に仕舞われているようだった。
私は慌てて彼女の傍らに寄り添い、その細い肩をそっと支える。
「無理をしないでくださいミリアさん」
「ええ……本当ね。もう私も、若くはないものね…」
彼女は窓の外を眺めながら、満足げに目を細めた。その瞳の先には、私という死の概念の傍らで、彼女が一歩ずつ踏みしめてきた街の記憶が映っているのだろう。
私が守り、歩き続けてきた短い時間。それは彼女にとっては紛れもない人生そのものであり、この七十年の歳月が、彼女の命をこんなにも愛おしく形作っていたのだ。
彼女の節くれだった手が、私の手をそっと包み込む。
その温もりは、出会った頃と同じほどに優しい。けれど、その皮膚の感触に触れた瞬間、私は理解した。彼女が私と共に積み上げてきた、途方もなく重く、尊い生の時間を。
彼女の呼吸が穏やかに落ち着く。私はその横顔を見つめながら、私たちが歩んできた季節に、静かに想いを馳せた。




