第41話:死を忌避せぬ者の祈り
ギルドの中は、先ほどまでの沈黙が嘘のように激しい熱気に包まれていた。
革鎧を磨く音が響き、使い古されたベルトを締め直す粗野な怒号が飛び交う。誰もが明日への生還を賭け、己の武器と装備を限界まで点検している。
それはかつて彼らが日常としていたクエスト前の光景そのものだが、今夜ばかりは誰もがその動作に異様なまでの執念を滲ませていた。
そんな喧騒の渦中で、私はただ一本の古びたテーブルに肘をつき、ぼんやりと彼らの動きを眺めていた。何かを研ぐ必要もなければ、紐を締め直す必要もない。
私にはこの場にいる彼らのように、明確な準備をするべき何かが手元になかった。ただ時間が過ぎ去るのを待つだけの、場違いな静止物のようにそこにいた。
その視界の端に、大柄な影が割り込んでくる。
ゲオルグさんだった。彼は周囲の忙しない動きには目もくれず、私を見下ろして短く告げた。
「俺はアインと組ませてもらうことにした。あと、ミリアも一緒だ」
あまりに唐突な宣告に、私は思わず瞬きを繰り返した。きょとんとした表情で彼を見上げる。
よりにもよって、この防衛戦で最も危険な場所になるであろう私の位置に、わざわざこの二人を配置するというのか。
私がその意図を測りかねて黙り込んでいると、ゲオルグさんの背後からミリアさんが一歩前へ出た。彼女は私の瞳の奥をじっと見つめ、静かな声で言った。
「……やっぱり、一人で行く気だったんですね」
その低く、呆れたような、しかしどこか悲しげな声に、私は息を呑んだ。
私の考えていた自分一人で動いて、誰も巻き込まずに済ませるという計画を、彼女は最初から見抜いていたのだ。
「ダメですよ。パーティ単位で動く――そうゲオルグさんが言っていたでしょう」
ミリアさんは諭すようにそう言うと、私の肩に優しく手を置いた。
彼女の瞳には、私の独りよがりを許さないという確固たる意志が宿っている。
「ま、そういうことだ。単独行動は諦めるんだな?」
そういいながらゲオルグさんは私の正面に立ちふさがった。
巨大な両手斧を背負ったままのその巨躯は、最初から道を塞ぐためにそこに配置されたかのような質量を持って私を見下ろしている。
「……わかりました。言っても聞いてくれそうにないですしね」
私は観念して笑みをこぼした。
一人で死地へ赴くつもりだった。その方が手っ取り早く、誰にも迷惑をかけない。
だが、彼らはその「手っ取り早さ」を許す気がないらしい。
一人ではない。その事実が胸の奥に灯した温もりは、どこか忌々しく、そして痛いほど切実だった。
「それじゃ、行くか」
ゲオルグさんの短く、無骨な一言。
私とミリアさんは言葉を交わすこともなく視線を合わせ、小さく頷く。
ギルドを出ると、先ほどまでの熱気が嘘のように消え失せていた。
慌ただしく駆け抜けていった冒険者たちの喧騒は、今はもう遠い。街はこれから始まる惨劇を予感して、冷たい静寂の中に沈み込んでいた。
私たちは夜の闇に溶けるようにして、それぞれの戦場へと足を踏み出した。
向かった先は、ブラッケンハーストから続く街道の正面。
この道を塞ぎ、押し寄せる波を止めるのが私たちの役割だ。
道端に腰を下ろして数刻。張り詰めた空気が周囲を支配する中、ふと、風が向きを変えた。
前方の闇の奥。遠くから、耳を劈くような騒がしい気配が届き始める。
それはただの群れの足音ではない。土を削る音と、骨と肉が軋むような不快な音が重なり合い、街の静寂を塗り潰していく。
そして――濃厚な死の香りが、漂ってきた。
腐敗しきった獣の吐息にも似たその臭気に、私の鼻腔が拒絶反応を示す。
それは、私にとってあまりにも馴染み深い「死」の気配だった。
「……来たか」
ゲオルグさんが重厚な足音を立てて立ち上がる。
隣ではミリアさんが、祈るような仕草で剣の柄を握りしめていた。彼女の背筋は微塵の迷いもなく伸びきり、その瞳は暗闇の先を真っ直ぐに見据えている。
遠く、闇を切り裂くようにして無数の赤色の揺らめきが見えた。
揺らぐ松明の炎が浮かび上がらせるのは、規則正しく並んだ鋼の列だ。領主兵の整然とした隊列。
それは軍としての規律を意味すると同時に、この街を踏み潰そうとする非情な機械の一部が、着実に迫っていることを告げていた。
街道を震わせる足音が、一つ、また一つと重なる。
彼らは呼吸を合わせるようにして行軍し、私たちが陣取るこの場所を、当然のように踏み越えていこうとしている。
その規則正しい炎が隊列の中ほどから突如不規則に揺らぐ。
そしてわずかに聞こえる喧噪、それに呼応するかのように隊列のあちこちで揺らぎが発生し、次第にその揺らぎは大きくなり、規則正しかった鋼の列を歪ませていく。
「始まりましたね。まずは奇襲成功、と言った感じでしょうか」
ミリアさんが静かに呟く。
あの歪みは、先行して動いた冒険者たちが領主兵の懐に潜り込み、その陣形を内側から崩している証拠だった。整然としていた鋼の列が、まるで生き物のように動揺し、綻びを露わにしていく。
「あいつら、やりやがったな」
ゲオルグさんが不敵に笑う。
遠くで聞こえる金属がぶつかり合う乾いた音と、領主兵たちの怒号が混ざり合い、静寂を完全に破壊した。
陣形が崩れた今、彼らはもはや統制された軍ではなく、個々の意志で動く人の群れへと成り下がっている。だが、それがかえって厄介な事態を招くことも知っていた。統率を失った軍は、死に物狂いで牙を剥くからだ。
「ゲオルグさん……」
私は焦れたようにゲオルグさんの顔を見上げる。
あそこで繰り広げられている乱戦の気配。そこかしこから押し寄せる死の香りに、胸が締め付けられる。
誰か、私の知っている人が。いや、知らない人であっても――この街の住人が、今まさに死を迎えているかもしれない。
それだけで、私の心は不安定に揺らぎ始める。私は死という概念そのもの、それゆえに死を忌避するような柔な精神は持ち合わせていない。
それなのに、彼らがこの世界から消え去るという事実に、何故かこれほどまでに焼かれるような焦燥感を覚えている。
ゲオルグさんは私の視線を受け止めると、その深い皺の刻まれた顔で、わずかに目を細めた。彼には、私の内に渦巻く矛盾した感情が、言葉の輪郭を伴って伝わっているのかもしれない。
「……死という理に近すぎると、こういう時は苦労するんだな」
ゲオルグさんは自嘲気味にそう呟くと、大げさなほど力強く肩を回した。
背負った両手斧の重みが、彼という存在の揺るぎない支柱であることを主張している。
「だがな、アイン。俺たちは死を諦めるためにここに立っているわけじゃない。これ以上、この場所に『死の数』を増やさせないためにいるんだ」
その言葉は、冷たく沈んでいた私の意識に、鋭い楔を打ち込んだ。
そうだ。私の嫌悪は死そのものではなく、この街の営みが――彼らの明日に続くはずの物語が、理不尽に断ち切られることに対する拒絶だったのだ。
隣でミリアさんが、静かに、しかし剣を握る手に力を込める。彼女の横顔には、祈りにも似た覚悟が張り付いていた。
「尊い犠牲。そんな簡単な言葉で済ませるつもりはありませんが、彼らは自らの生きた道を示すために戦っています。それを繋げるために戦いましょう」
ミリアさんの迷いのない声に、私はようやく肺の奥に空気を溜め込むことができた。
心の中に澱のように溜まっていた焦燥が、冷たい決意へと昇華されていく。私は一度だけ強く頷き、ゲオルグさんの背中に視線を合わせた。
「ええ。……ですが、これ以上の犠牲は、出させません」
夜の闇に溶け込んでいる領主兵たちの隊列へと、手のひらを向ける。
ここから先は、ただ守るための戦いではない。彼らの生を刈り取ろうとする死そのものに、真っ向から抗う戦いだ。




