第40話:誰も居なくなってほしくないから
ギルドの中は、まるで湿った空気が澱んだかのような重苦しい沈黙に支配されていた。
普段ならジョッキをぶつける音や、荒っぽい笑い声で満たされているはずの広間は、今夜ばかりは静まり返っている。
冒険者たちは皆、使い慣れた武器を無言で研ぎ、あるいは何度も防具の紐を締め直していた。その手元がわずかに震えているのを、誰も指摘はしなかった。
壁に掛けられたランタンの灯りが、彼らの影を長く、そして頼りなく床に伸ばしている。
かつての独立宣言がもたらした高揚感はどこへやら、今はただ、目の前に迫る現実の重圧だけが、この場所の空気を冷たく冷やしていた。
迫りくる敵に対する対策を練るために召集された元冒険者たち。
その中にはディランさんやエドさんといった馴染みの顔もあるが、酒場でよく見かけていた冒険者の姿がいくつか欠けている。独立宣言をきっかけに、この街を見限って出ていった者も少なくはないと聞いていた。
――この人数で、本当に守り切れるのだろうか。
そんな不安がアインの脳内をよぎる。ギルド内に立ち込める重苦しい空気の中、ゲオルグさんがゆっくりと口を開いた。
「聞け。この街に領主の兵が迫っているそうだ。……まぁ、当然と言っちゃ同然だな?」
そんな軽口にも聞こえるゲオルグさんの口調に、周囲を覆っていた張り詰めた空気がほんの少しだけ和らぐ。彼は一つ息を吐くと、真剣な眼差しで仲間たちを見回した。
「しかし、相手の数は数百とも聞く。このままここで防衛線を張ってもジリ貧だ。俺たちは正規兵でもないしな」
ここに集まったのは、百にも満たない冒険者や街の住人たちだ。
軍としての訓練など受けたこともなければ、多人数での正面戦闘を経験した者もほとんどいない。誰もがその残酷な戦力差という事実に、喉の奥で言葉を詰まらせる。
ギルドの中には、武器を握りしめる革手袋の軋む音や、誰かの荒い呼吸音だけが微かに響いていた。
「そこで、だ。相手には悪いが、こっちのやり方に合わせてもらうことにしよう」
ゲオルグさんは重々しい沈黙を切り裂くように言い放ち、使い込まれた街周辺の広域地図を、ドンとテーブルの中央に広げた。紙が勢いよく広がり、古びた机の上で端が丸まる。
「まずはここにいる愛すべき馬鹿どもを、四〜六人のパーティ単位で分ける。普段の依頼と一緒だ。連携の取れねえ大軍なんて、俺たちの敵じゃねえ」
ゲオルグさんは周囲の顔を一人ずつ確認するように見回し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
戦慣れした彼の瞳には、数百の軍勢を前にしてもなお、揺るぎない自信が宿っている。
「あとは、横合いから徹底的に嫌がらせをして撹乱する。俺たちの戦場は、一か所の防衛線じゃない。街に続く街道、広大な草原、そして視界を奪う深い森。この街の周囲、至るところだ。奴らに『どこに敵がいるのか』すら分からせない。命令はただ一つ……誰も死ぬな」
その言葉は、まるで何十年も連れ添った仲間に言い含めるような、あるいは子供に言い聞かせるような、不思議な安心感を伴っていた。
私は小さく溜息をつき、テーブルの上の地図をじっと見つめた。
正面からぶつかるという選択肢を最初から捨て、小規模なパーティ単位での機動力で補う。
それは彼らが普段、依頼でこなしている冒険者としての動きそのものだった。正規軍を相手にするにはあまりに泥臭く、しかし、この街の連中が最も得意とする戦法だ。
「……嫌がらせ、ですか。随分と泥臭い防衛計画ですねぇ」
私はあくびを噛み殺しながら、街道から街へと続く唯一の難所を指差した。
「では、私はここに……」
言葉を続けようとした私の視界の端で、ゲオルグさんの表情がわずかに曇った。
先ほどまで戦いを楽しげに語っていた彼の顔に、複雑な影が差す。まるで、私の言葉の裏側にある「何か」を鋭く見抜いたような、そんな表情だった。
その沈黙を破るように、カウンターの影でずっと口を閉ざしていたミリアさんが、一歩前に出る。彼女の瞳には、いつもは見せないような深い憂いと、静かな問いかけが宿っていた。
「アインさん、あなたの力は……」
ミリアさんが言いかけた言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
私はそれを遮るように、小さく、しかし毅然とした声で言い切った。
「わかってますよ、ミリアさん。でも……」
私はふっと視線を落とし、テーブルに広げられた地図の、まだ何もない余白を見つめた。喉の奥が少しだけ熱くなる。
「……誰も、居なくなってほしくないんです」
私の言葉は、ギルドという喧騒の場にはあまりに不釣り合いなほど弱々しく、そして痛々しいほど切実だった。
ふと顔を上げると、ゲオルグさんとミリアさんの二人が、私をじっと見つめていた。
その表情には、戦いへの高揚感など微塵もない。ただ、私の内側にある、誰にも触れられたくないはずの冷たい傷口を覗き込んでしまったかのような、静かな衝撃が広がっていた。
二人は何かを言おうとして、結局言葉を失った。
ギルドの中に、張り詰めた糸のような静寂が流れる。ディランさんやエドさんたち冒険者も、私の言葉の重みに気圧されたのか、武器の手入れの手を止め、ただ黙ってこちらを向いていた。
――ああ、余計なことを言ったかもしれない。
私は気まずさを振り払うように、わざとらしく大きく肩をすくめて見せた。
「……まぁ、とにかく。一人も欠けずに、明日もここでお酒を飲む。それが今回の依頼内容ってことでいいですよね、ゲオルグさん?」
強引な調子で問いかけると、ゲオルグさんはしばらく私を見つめていたが、やがて力強く鼻を鳴らして笑った。
「……ああ、そうだ。それ以外の依頼は受けてやらん」
ミリアさんもまた、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべ、胸元で小さく手を握りしめた。
「ええ、もちろんですよ。……必ず全員で祝杯をあげましょう」
戦うための殺伐とした空気は消え去り、そこにはただ、この街で生きる者たち同士の、言葉にできない誓いのようなものが静かに灯っていた。




