第38話:空白地帯の境界線
街道の風景は、街の内側よりもずっと雄大で、しかしどこか冷酷な色をしていた。
視界を埋め尽くすのは、果てしなく広がる草原だ。風が通り抜けるたびに、背の高い草が一斉に波打ち、まるで大地そのものが大きな呼吸をしているかのように揺らめいている。
その緑の海を切り裂くようにして、一本の古びた街道が地平線の彼方まで伸びていた。
馬の蹄が土を叩く規則的な音が、乾いた空気を震わせる。
私たちが街を背にして進むにつれ、背後の喧騒は次第に遠ざかり、代わりにどこまでも続く緑がもたらす、底知れない静寂が支配し始めていた。時折、草の奥から小さな獣が走り去る音がするが、それは私たちが招いたはずの平和とは対極にある、野生の律動でしかない。
「聞いた? ブラッケンハーストが旗を掲げ直してから、もう三日……。結局、アリステア王国からの返答は無いそうよ」
レインさんがポツリと呟いた。
私は、彼女の揺れる背中越しに前方を凝視する。
「アリステア……王国?」
王国? その聞き慣れない単語に、私は少しだけ小首を傾げた。これまであの街で過ごしているだけだった私には、地図上の国境線など、一度も意識したことのない概念だったからだ。
「ああ、そうね。アインさんは冒険者ギルドの外のことほとんど知らなかったわね……」
彼女は苦笑しながら、手綱を握り直す。その指先はわずかに震えていた。強い陽射しが彼女の横顔を照らしているが、その影には独立という重圧が濃く落ちている。
「ブラッケンハーストは元々、アリステア王国の辺境の街。でも、独立を宣言したことで、私たちは地図上の空白地帯に放り出された。……東にはアリステア王国、西にはエルディア皇国。二つの大国のちょうど狭間に位置するこの街は、今やどちらの陣営からも『独立という隙をついて食い荒らせる、無防備な草食動物』みたいに狙われているのよ」
王国と皇国。大仰な響きの国名が、彼女の口から次々と繰り出される。
それは私にとっては、かつて酒場のカウンターの隅で聞き流していた遠い異国の御伽噺に近いものだった。しかし、今の彼女の切実な声は、それが明日にもこの街を焼き払う現実の刃であることを伝えていた。
二つの大国に挟まれ、虎視眈々と狙われる草食動物。レインさんが放ったその例えは、あまりに端的で、そして痛々しいほど的確だった。
私がただぼんやりと空を眺めていた三日の間、彼女はこの街の命運を分ける地図を頭の中で広げ、押し寄せる不安と戦っていたのだ。
「……レインさんも随分と、重たい荷物を背負い込んでいるんですね」
私が呟くと、レインさんは驚いたように肩を揺らし、振り返った。彼女の瞳には、弱音を吐いてしまったという困惑と、それを聞いてもらったという微かな安堵が混ざり合っている。
「……そうね。でも、これはゲオルグさんだけじゃなくて、私たちが選んだ未来だから。誰かのせいにはできないわ」
彼女はそう言うと、ふっと表情から硬さを抜き、少しだけ寂しげに微笑んだ。
「でも、こうしてアインさんと外に出ると、少しだけ息ができる気がする。不思議ね」
かつての私は、誰の重荷も背負わず、ただ死の気配を追いかけていればよかった。だが今は、背後に広がる街の灯りや、目の前で揺れる彼女の背中を、当たり前のように守るべき対象だと感じている。
「……息ができるなら、それはいいことです」
私は努めて穏やかにそう言った。
私の言葉に、彼女が小さく頷く。
「そうね。……さあ、湿っぽい話はここまで。お掃除の対象が、もうすぐ目の前よ」
レインさんが手綱を強く引くと、視界の先、草原の僅かな起伏の向こう側に、不自然なほど草が踏み荒らされた一画が見えてきた。
魔物の匂いではない。それは、ここを誰かが意図的に汚したような、濁った悪意の気配だ。
私は、腰の武装を確かめながら、置物ではない役割を遂行するための思考を研ぎ澄ませた。
草原の風が、不意に湿り気を帯びた獣の臭いを運んできた。
レインさんが手綱を引いて馬を止め、腰の弓に手を掛ける。その所作には、かつての冒険者時代とは異なる、静かな殺気が宿っていた。
「……アインさん。どうやら、ご指名の『お掃除』対象がお出ましみたいね」
彼女の視線の先には、高く伸びた草むらが不自然に揺れる場所があった。
草をかき分け、姿を現したのは一頭の大きな狼だ。銀色の毛並みは所々で汚れており、その瞳は飢えと濁った敵意で満たされている。周囲にはさらに数頭の影が見え隠れし、こちらの出方を伺っている。
「さすがに数が多いですね」
「ええ。正面から突っ込んだら、いくら私でも厄介そう。だから――」
レインさんは流れるような動作で弓を構え、草原の風を読みながら矢をつがえた。
放たれた矢が鋭い風切り音を立てて狼の足元を掠める。
「――怒らせて、巣から離れた場所に引きずり出すわ。そこがアインさんの出番よ」
彼女は二の矢、三の矢を続けざまに放つ。その正確無比な射撃に、狼たちは激昂し、レインさんを追って草原を駆け出した。
彼女は器用に馬を操り、狼たちの意識を自分へと集中させたまま、あえて孤立した岩場の方へと誘導していく。
私は馬から降り、静かに草むらに身を潜めた。
ゆっくりと息を吐く、大丈夫、誰も傷つかない。
――今の私は、大切な日常を守るための、動く刃だ。
レインさんが狼を大きく引きつけた直後、彼女の合図が響く。
「今よ、アインさん!」
私は狼たちの進路に躍り出た。
荒い呼吸を立てて突進してくる彼らに対し、私は武器を抜くことさえしなかった。ただ、彼らの進路上に静かに手をかざす。
――私の指先から、目に見えない「終わり」の気配が霧のように流れる。
狼たちの勢いが、まるで断崖にぶつかったかのように止まった。彼らは喉を鳴らすことも、悲鳴を上げることもできない。ただ、命という灯火を急激に奪い取られ、操り人形の糸が切れたかのように、次々とその場に崩れ落ちていく。
土煙が収まる。草原には、ただ静かな沈黙だけが残った。
私はゆっくりと手を下ろす。手応えはない。ただ、そこにあったはずの生が消失したことだけを、私の感覚が静かに告げていた。
レインさんが馬を降り、私の隣まで歩み寄ってくる。彼女は崩れ落ちた狼たちの様子を一瞥し、そして私を見上げた。
「……相変わらずね。刃も通さずに、ただ終わらせるなんて」
彼女の声には、怯えではなく、戦友に対する呆れと畏敬が混ざり合っている。彼女の頬には土が跳ねていたが、その瞳は澄んでいた。
「……やりすぎでしたか?」
「いいえ。……最高よ、アインさん」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。死の匂いを纏う私の隣で、彼女は決して揺るがない。
私の指先が、わずかに熱を持っている。それは誰かを守るために力を振るったという、奇妙な充足感の残滓だった。
「じゃあ行きましょう。近隣の村に報告よ」
レインさんがポンと私の肩を叩き、馬へと軽やかに飛び乗る。
私はその熱を冷ますように、そっと手を握りしめた。指の隙間から零れ落ちたはずの生の残り香が、今は確かに自分の掌の中に刻まれているような錯覚を覚える。かつては感じることのなかった、確かな重みだ。
私たちは崩れ落ちた狼たちの影を背にして、草原をゆっくりと進み始めた。
向かう先には、ブラッケンハーストの旗を仰ぎ見て、不安の中に夜を明かしている村がある。
空を見上げれば、初夏の陽光が雲を突き抜け、草原を眩い光で満たしていた。
街道の先、遠くに見える街の輪郭が、これまでよりも少しだけ鮮明に映る。




