第37話:魔物掃除のお散歩日和
ブラッケンハーストに新しい旗が翻ってから、三日が過ぎた。
それまで冒険者ギルドと呼ばれていたその場所は、今や別種の緊張感を孕んでいた。
壁を飾っていた雑多なクエストの依頼書は跡形もなく消え去り、代わりに地図や防衛計画書が所狭しと貼り出されている。
ロビーを行き交うのは、小銭と報酬を求めて荒っぽい言葉を交わしていた冒険者たちではない。
彼らの顔つきは、街の門番や家畜の世話をしていた市民たちと混ざり合い、一つの組織としての規律を帯び始めていた。
窓の外を見やれば、街の至るところで、昨日までとは異なる人々の動きが見て取れる。
独立という熱狂の季節は過ぎ去り、今は『持続』という名の現実が、この街を覆い尽くしていた。
「あ~、暇ですねぇ。」
いつもの定位置である長椅子で、私は天井の梁をぼんやりと見上げた。
以前なら、この時間はディランさんたちの騒がしい笑い声や、エドさんが持ち込む他愛のない噂話、あるいは誰かが注文した酒の匂いで満ちていたはずだ。
今は、羽ペンが紙を擦る音と、忙しなく歩き回る革靴の足音だけが響いている。
私が選んだこの場所は、どうやら何もしない者には少々居心地が悪い、硬質な空間へと変貌を遂げていたらしい。
背中を預けていた柱が、冷たくて硬い。
私はもう一度だけ大きなため息をついて、酒場のカウンターに視線を投げた。
いつも朗らかな笑顔を見せるデリアさんも、どことなく険しい顔をしているように思える。
私はただぼんやりと、ただ街の空気が硬く張り詰めていくのを、置物のように眺めていた。
――ガチャ。
私の思考を遮るように、ギルドの奥、かつてのマスター室から重い扉が開く音がした。
人波を割ってこちらへ向かってくる足音に、私は視線を動かした。書類の山から解放されたのか、ゲオルグさんが首に巻いた布を乱暴に引き抜き、歩いてきている。
彼はロビーの喧騒を気にする風もなく、一直線に私の座る長椅子へと近づいてきた。
周囲の者たちが、彼を見かけて一瞬だけ気を引き締めるのが分かる。この街がどれほど忙しくなろうとも、彼の言葉ひとつで空気が動く。
ゲオルグさんは私の前で足を止めると、天井を仰いだままの私を、困ったような、それでいて親しげな眼差しで見下ろした。
「アイン。……随分と暇そうだな」
私はゆっくりと視線を落とし、彼と目を合わせた。
背後では新しい旗の縫製音が響いているが、私たちの周囲だけが、微かな静寂に包まれている。
「ええ、まあ。皆さんお忙しそうなので、空気のように馴染んでおこうかと」
あえて淡々と答えた私に、ゲオルグさんは鼻で笑った。
「空気は動くものだ。今のお前は置物みたいなもんだ」
「マスコット、と言うことですね!」
私が胸を張って言い返すと、ゲオルグさんは呆れたように眉間を揉んだ。
「そんなもんはいらん」
切り捨てるような口調とは裏腹に、その瞳にはどこか安堵に近い色が混じっていた。彼は私の隣にどっかと腰を下ろし、肩に積もった重圧を振り払うように深く息を吐き出す。
彼にとっても、この数日は息の抜けない日々だったのだろう。独立という激動の中で、唯一こうして気負わずに話せる存在を、彼もまた求めていたのかもしれない。
「……独立して、最初の仕事だ。ギルド本部との絶縁で、近隣の村々は今、不安で持ち切りだ。自分たちの生活を誰が守ってくれるのか、とな」
ゲオルグさんの声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
彼は街の長として、かつての冒険者たちをまとめ上げ、新たな規律を敷くという重責をたった数日で背負い込んでいる。その肩にのしかかる孤独な重圧が、私には痛いほど分かった。
「村の方々も、これから大変でしょうからね」
私が静かに応じると、彼は力強く頷いた。
その瞳には、かつて酒場で魔物討伐を論じていた頃とは違う、より深く冷徹な、しかし情熱を秘めた色が宿っている。
「ああ。だからこそ、ブラッケンハーストは健在であり、以前と変わらず彼らの盾であることを示さねばならない」
彼は一度言葉を切り、私のほうへ視線を向ける。
その瞳から鋭さがふっと抜け、どこか悪戯っぽい、笑みが浮かんだ。
「アイン……退屈凌ぎの運動が必要じゃないか? 散歩という名目で、少し外の空気を吸ってこないか。ちょうど、村の周辺で少しばかり邪魔な魔物の影が見つかってな」
それは単なる魔物退治の依頼ではない。街が自立した今、私たちが村を訪れること自体が、力による平和の象徴となるのだ。
「散歩」という穏やかな響きの中に隠された、現実的な軍事行動の意味。
それを悟り、私はようやく長椅子からゆっくりと上半身を起こした。
「お散歩、ですかー」
大変失礼いたしました。レインさんが女性であることを踏まえ、彼女の立ち居振る舞いや描写を調整しました。
「お散歩、ですかー」
私がとぼけたように繰り返すと、ゲオルグさんはやれやれと首を振った。
「そうだ。ただし、野良犬のしつけと同じくらいには厄介な相手だぞ。……お前なら、遊び半分で終わらせてこられるだろう?」
「……まぁ、しょうがないですね」
私はゆっくりと長椅子から立ち上がった。
固まった身体をほぐすように背伸びをすると、置物としてこの街に溶け込んでいた時間が、急速に剥がれ落ちていくのを感じる。
ゲオルグさんの瞳には、私を送り出すことへの、確かな信頼が宿っていた。
「レインをギルドの裏手に待たせている。あいつはもう、馬の手入れをしながら待ちくたびれているはずだ」
ゲオルグさんは立ち上がり、今度は私の肩をポンと軽く叩いた。
その手つきには、かつての荒っぽいマスターとしての名残と、街の長としての慈しみが同居している。
彼に背を向け、私はギルドの裏口へと歩き出した。
扉を開けると、そこには初夏の眩しい光と共に、出発の準備を整えたレインさんの姿があった。
彼女は以前よりも少しだけ装備を厚くし、腰には見慣れない硬質な素材の護身具を帯びている。ブラッケンハーストの街が自前で用意した、新たな備品なのだろうか。
こちらに気づいたレインさんが、手綱を引いたまま私に向かって、いつも通りの朗らかな笑みを向けた。
「あら、アインさん。ようやくお目覚め?」
からかうような口調だが、その瞳には街を守る一員としての覚悟が、静かに、しかし強く灯っている。
「お待たせしました。……お散歩のお供をしてくれると聞きました」
「ええ。アインさんと一緒に、お散歩のついでにお掃除もしてくるようにって」
レインさんは私の隣に馬を寄せ、慣れた手つきで手綱を手渡してきた。その所作は優雅で、かつ無駄がない。
独立の熱に浮かされた街の喧騒を背に、私たちは門を目指す。
門をくぐれば、そこには昨日までとは違う、少しだけ張り詰めた空気が流れる街道が広がっている。
かつての「依頼」とは違う、街の命運を背負った小さな旅。
手綱を握る指先に、馬の温もりが伝わる。
私は、自分がこれから何者としてこの道を進むのかを考えた。
それは以前のような、ただの通りすがりの存在でも、無為に時間を潰す者でもない。
ブラッケンハーストという、私自身が選んだ居場所を片付けるための、最初の歯車――。
「……行きましょうか、レインさん」
私の言葉に、彼女が頼もしく頷く。
私たちはゆっくりと、しかし確かな足取りで、街の出口へと向かっていった。




