5 鳩(下)
ーー鳩(上)より続き
「あー……」
榊先輩の声がフェードアウトした。
石の階段の上から矢道の惨状を確認したようだ。一段飛ばしで階段を駆け下りる。
女子の部員は鳩を怖がって部室に籠っている。気持ちはわかる。田村をはじめ男子は鳩を前に途方に暮れていた。気持ちがわかる。
「榊先輩! 白い鳩がいましたよ」
「Veni,vidi」
流暢な外国語が返ってきた。何かの呪文か。
「着替えてくる。部員が白い鳩にちょっかい出さないよう、見張っていろ」
そう命令して、榊先輩は女子の部室に飛び込んだ。どたばたと慌てた音が外にまで響く。
入れ替わるように、男子の部室から部長の北原先輩が出てきた。きちっと着た弓道着にジャージの上着を羽織っている。
「女子の部室がうるさいな。榊か」
「えーと。まぁ、はい」
「落ち着きがない。後で説教だ」
眼鏡のブリッジを北原先輩は指で押し上げた。
「勘弁してあげてください。鳩をなんとかするために、急いで準備しているんです」
「鳩?」
矢道にみっちりと密集する羽毛の大群に、北原先輩は眉をひそめた。
「鳴海」
「はいっ」
「垜のホースで水を掛けろ。追い出せ」
やっぱりそうなるか。
「いやっ、榊先輩が白い鳩にちょっかい出すな、と」
「白い鳩?」
怪訝そうに北原先輩は矢道を見渡す。
「どこにもいないじゃないか」
濃茶色の目を眇める。
「からかっているのか」
「すみませんっ。そんなんじゃなくて……書記係の案件みたいです」
北原先輩の柳眉が跳ねた。俺が榊先輩の弟子になったことは知っている。
「あの。ウェーニー、ウィーディーって何ですか? さっき榊先輩が呟いていて」
「来た。見た」
簡潔に答えてくれた。
「カエサルが戦況を伝えたラテン語だ。来た、見た、勝った。あいつは鳩に勝つつもりか」
丁重にお帰りいただく、と朝練の時は言っていたが。
「待たせた」
豪快に女子の部室のドアが開き、弓道着の上にジャージを着た榊先輩が外へ雪駄を投げた。
部室の戸口からジャンプして、散らばった雪駄を履く。
北原先輩が声を荒げる。
「おいっ、榊!」
「説教は後でも聞かん。鳩にお帰りいただくぞ、北原」
榊先輩が一方的に言い捨てた。
吸い込まれるように弓道場の玄関に入り、雪駄を揃えもせず脱ぎ捨てた。見ていた北原先輩の血管がぶち切れそうだったので、俺が慌てて揃える。
玄関に立ったまま榊先輩を目で追う。どうするのだろうか。
榊先輩はぺこりと神棚に頭を下げ、名札をひっくり返した。壁に立て掛けてあった自分の弓袋から弓を取り出す。
壁の棚の下から、元は土産のサブレーが詰まっていた黄色の缶を取り出し、中身を漁る。
取り出したのは、全体が紅色の弦だった。
弦を弓に張り、弦を三回弾く。榊先輩の癖。
マジか。
「射る気ですかっ」
白い鳩を。
「うるさい。黙ってろ。集中できない」
睨まれた。理不尽だ。
射位の中央に榊先輩が立つ。
矢は持っていない。弽も胸当ても着けていない。それでも射る時のように、弓を持つ弓手を真っ直ぐ伸ばした。
クックックック。
羽毛の塊は相変わらず、頭を前後に振り、あちこち蠢いている。
クックックック。
一羽だけいる、真っ白い鳩も榊先輩の存在に気づいていない。地面をつついて餌を探している。
榊先輩が素手の右手で、弦を胸元まで引いた。彼女の纏う気配が急速に張り詰める。
刹那、すべてが無音になる。
榊先輩が弦を弾いた。
ビイイィィンッ、と大音量の弦音が響き渡った。
突然の暴風が吹き荒れる。
バタバタと布を叩くような豪雨の音がする。
空が暗くなる。
それも一瞬だけだった。
「うん。完了」
榊先輩がひとりで満足そうに頷く。
矢道にひしめいていた数百の鳩は、一羽残らず消えていた。
ふわふわと雪のように羽毛が降ってくる。
部員たちは呆然とした表情で、その光景を見つめている。
「始める前に、矢道の掃除だな」
北原先輩が手を打つ。
その音に、部員たちがびくりと体を震わせた。
「一年は垜から竹箒を持ってこい。二年は箕を準備しろ!」
部長の指示に部員たちは走りだす。
俺も玄関から矢道に回って垜へ向かおうとしたが、榊先輩に呼び止められた。ちょいちょい、と手招きされる。
弓道場の縁に駆け寄る。
「白い鳩の羽根を取って来い」
「……マジですか」
「マジマジ」
矢道の上には羽毛が積もっている。弓道部全員で大量の鳩を仕留めたんじゃないのか、と言われても誤魔化せない量だ。
その中から、白い鳩の羽根を見つけろと?
一段高くなった弓道場から、榊先輩が見下ろす。
「師匠の命令は?」
――絶対だ。
どうにかこうにか白い鳩の羽根を一本見つけ出すと、どうにかこうにか矢道を掃除して、どうにかこうにか部活を始め、どうにかこうにか部活を終えた。
その間、鳩は一羽も戻って来なかった。
榊先輩も北原先輩の説教から逃げ切れなかった。
榊先輩は部活終了直後に逃げ出そうとし、北原先輩に襟首を掴まれていた。畳の上で正座させられ、俺が居残って射込んでいる間中、ずっと説教をくらっていた。
説教を終えた北原先輩が弓道場を出ると、榊先輩は畳の上に仰向けに寝転がった。
「たった今、先輩としての立ち居振る舞いはなんたるかって、北原先輩に叱られていたでしょうが」
まったく懲りていない。
「疲れたんだよ。労われ」
「それは、長時間ご苦労さまとは思いますが。自業自得でもあると思います」
「違う。丁重にお帰りいただくほう」
鳩大量発生事件か。
「結局、白い鳩は何だったんですか」
榊先輩は寝返りを打って、うつ伏せになった。それでも寝転がった位置から動かず、両腕を伸ばす。視線は壁の棚の下。
「はいはい」
元は土産のサブレーが詰まっていた黄色い缶を取り出し、榊先輩の手が届くところへ置く。
榊先輩が蓋を開けると、筆や墨や硯や和紙や折り紙や紅色の弦や藤蔓やボンドや手鏡や鈴やらが入っていた。簡単に言うとカオス。
その混沌の一番上に、真っ白い羽根があった。
榊先輩が羽根の羽柄を指で摘まみ、俺へと差し出した。
「持ってろ」
言われた通り白い羽根を受け取る。榊先輩が缶の中から手鏡を取り出し、羽根を映した。
何気なく鏡を覗く。
鏡に映った羽根の色に、息を吸い込み損ねた喉がひゅっと鳴る。
冬の冷気でない霊気が背筋を凍りつかせる。
「何色に見える」
「……真っ黒です」
手に持った羽根は確かに真っ白。しかし、鏡に映る鳩の羽根は見間違えようなく真っ黒だった。
「どうなってるんですか」
「面白いだろ。これにどんなご利益があるか、知りたいだろ?」
「いや全然」
黄色い缶に詰め込まれたカオス参照。
どうせ、真っ当なものではないのは、わかっている。
「それより、どうなってるんですか」
ちぇ、と榊先輩は不貞腐れたように羽根を受け取った。
「Vici.持っていれば勝負事に負けない勝ち守りなんだけど。興味ないのか」
うつ伏せからようやく起き上がり、畳の上で胡坐をかく。
先輩としての立ち居振る舞いはもう気にしないが、せめて横座りしてほしい。行儀が悪い。
「カラスバトに神使が宿っていたんだ」
「はぁっ?」
突っ込みどころが多い。意味がわからない。
「カラスバトって、天然記念物ですよね」
乏しい脳内の事典を捲る。
「種類による」
「この辺りにもいたんですか?」
「いない。でも迷鳥の可能性はある。大風に乗ってしまって、本来の生息域から外れてしまうヤツ」
それなら聞いたことがある。鳥が嵐に運ばれて、何十キロも旅してしまうという。
「でも、どうして俺には白く見えるんですか」
「神使が宿っていたから」
「シンシ。……何でしたっけ」
「神様のお使い」
音を立てて血の気が引いた。
「それっ、追い払って良かったんですか!」
「追い払ってなんかいない。丁重にお帰りいただいた」
あの弦音で。
俺の思考を読んだように、榊先輩が缶の中から紅色の弦を取り出した。
「何だと思う?」
「紅色の弦です」
派手な色だ。弓道具としては奇抜。
「そう思うだろ?」
榊先輩が手にした弦を手鏡で映す。
「まさか」
体が強張る。本当は何色なのか。
いや、榊先輩の一筋縄でいかない妖しい私物だ。弓弦に見えて、実はまったく別のものかもしれない。
覚悟を決めて、恐る恐る鏡を覗く。
鏡には――普通の弦が映っていた。
「……ただの弦ですね。伸び弓の」
「一般的にはそう見える。ところがどっこい。何を隠そうこの一品、あの有名な荏柄天神社へ飛んで行った、弓道場の紅梅で染めた弦である」
突っ込みどころが多すぎる。気のせいか頭痛がする。
「荏柄天神社ってことは、鎌倉ですか」
「だから鳩が帰ったんだよ」
その接続詞はどこに掛かるのか。
「鎌倉といえば?」
榊先輩が弦を黄色い缶の中に仕舞い、蓋をする。その蓋に鳩の絵。
気のせいではなく本当に頭痛がした。
「……鶴岡八幡宮ですね」
神使は鳩だ。
「冬になると、神社から鳩が飛んで来ると言わなかったか」
ふふん、と榊先輩が勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「言いました」
違和感の正体。
最も高校に近い神社はこの辺りで最も格が高く、畏れ多くも神社なんて呼ばない。
大社と呼ぶ。
「どうして鶴岡八幡宮の鳩がここに来るんですか!」
県内といえども、飛来するには遠すぎる。
「知らん。鳩でも神使だから、用があるとすれば大社だろ。ここへは寄り道するだけだ」
周りにいたキジバトは、神使にくっついて来た普通の鳩だという。
「それに、どう荏柄天神社の飛び梅が関係してくるんですか」
話があっちこっち飛び過ぎる。かと思いきや、俺が知らないだけで、あっちこっち繋がっている。
頭痛に加え、知恵熱が出そうだ。
「紅梅が神使を呼んだんだろ。さっさと飛んで戻って来いって」
乱暴な理屈だ。
そもそも、どうして紅梅は鎌倉へ飛んで行ったのか。
「荏柄天神社に植わっていた、とある梅の見事さを聞かせてやった」
やっぱり榊先輩の仕業か。
「その枝ぶりは雄々しくも優雅、匂いは沈重香木の如し。かくして恋をした紅梅は、彼の君に一目会いたいと、飛んで行った」
「……マジですか」
「マジマジ」
梅相手に何やっているんだこの人は。
「まぁ、それはまた別の話。そんなわけで鎌倉にツテができたから、使えるものは使えるとしたら使い倒そうと準備した」
それが白い鳩を飛び立たせた、紅色の弦か。
「去年は大変だったんだからな。豆を撒いたり米を撒いたり。何か失礼をしたら祟られるし、気を遣いまくったんだぞ」
榊先輩がぽんっと黄色い缶を手で叩く。
「南無八幡」
『鳩』