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黒い霧  作者: 民間人。
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幕間の物語 2

 マルガレーテさんは暫くそこでじっとして、ぼんやりと傾く日を眺めていた。僕は、片付けをしながら、その姿をずっと気にかけていた。


 普段の話し好きな彼女とは違う、憂いをたたえたその横顔は、夕陽の赤に照らされて一層に美しく見えた。


カールさんの手伝いを終えると、僕はマルガレーテさんの様子を見ようとロビーに向かった。ほんのりと香草の香りが残る広いロビーの、五つの机のちょうど真ん中のものに、マルガレーテさんはひっそりと座っていた。外を眺める横顔が、ほとんど沈んだ夕闇の町をしかと見つめていた。


一切、動いていない。僕は隅からその様子を見ていた。マルガレーテさんがこちらに気づき、手を振ってくる。その笑顔も仕草も、どこか悲しげだった。


「そんなところで盗み見なんで、悪趣味よ。お話ししましょ、ね?」


「は、はい」


マルガレーテさんが手招きをしてきたので、少し駆け足で寄っていき、正面の椅子に座った。女性と二人同士なんて、なんだか落ち着かないな。


「あら、そわそわしてる、かわいっ」


 マルガレーテさんが僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。髪が乱れてボサボサになった。僕は、恥ずかしくて顔を落とした。


「あ、あの……落ち込んで見えます?」


「ちょっと、昔のことを思い出してね」


 暖炉が力をなくして燃え尽きてから、しばらく経っている。彼女は肌寒いこの部屋で、何を思っていたのだろう。僕が黙っていると、彼女は静かに語り出した。


「私ね、あの子たちのこと、なんとか救えなかったのか、いまでも思うのよ。彼なら、彼女を幸せにできる、お似合いのカップルだって、思ってたもの」


 彼女はもう一度外を眺めた。もう暗くなっていた。


「僕には、分かりませんが……それでも、やっぱり……運命は」


「変えられない、でしょ?」


 ぼくは押し黙った。彼女はその細く艶やかな瞳で、僕の方を見た。僕は一層顔を下げた。


「私にだって、わかっている…」


 僕は、医学生の友人のことを思い出した。少し意地悪で、いつも悪いものばかり食べている友人だ。彼は、この宿に来なかった。僕が手紙を出してからここに来たようだが、多分、身なりで断られたのだろう。彼には金も信用もない。僕とは違う。もしかしたら、もう土の下かもしれなかった。


「でも、マルガレーテさんは守ろうとした。それだけで、十分じゃありませんか?」


「救えなかったら、意味がないじゃない」


 僕は何も言えなかった。確かに、彼女はニコニコしている。でも、何処か無理をしているようで、胸が締め付けられた。彼女は僕の頬を撫でた。


「でも、優しいのね。優しい殿方は嫌いじゃないのよ?」


 火を吹きそうなくらい顔が熱くなった。紅く美しい唇が近づいてくる。心臓が張り裂けそうなほど、速く大きく動いていた。


「お礼をしてあげる」


 唇が僕に触れられた。一瞬、頭が真っ白になって、鈍器で殴られたような衝撃で倒れそうになった。

 カールさんが置いていった水さし一つと、グラス。小銭を放り込めば吸い込まれそうな、暖炉。黒くなった薪と香草の混じった匂い。そして、柔らかい唇。動悸が抑えられなくなる。妖しく美しく、いじらしい。そのまま茫然としていると、マルガレーテさんの唇は離れて、くすくすと愉快そうな笑いを上げていた。


「ほんと、かわいいのね」


「え、えっと……」


「いいのよ?ありがとう。昔のこととか、どうでもよくなっちゃった。さて、部屋に戻って、お化粧落とさなきゃ」


 彼女は弾むように階段を上っていった。僕は、しばらく放心状態でその場にとどまっていたが、カールさんがこちらに来る音に気付き、水差しと空になったグラスを持って洗い場へ向かった。



 部屋に戻り、小さくため息をついた。マルガレーテさんにいじられたり、真っ赤な顔をカールさんにからかわれたり、今日はなんとも恥ずかしい一日だった。


 ベッドに腰を下ろした。学生寮にはない、フカフカの、実家のより少し質の低いのもだ。


 僕は、友人のことを思い出した。もし、あの時僕が手を差し伸べていたら、彼はいまここで笑っていただろうか。しかし、意地悪な思いもよぎる。彼の汚さを考えれば、いつ罹患してもおかしくはないのだ。汚れた鰊や、ちょっとした野菜を齧り、道端で大きな声で教えを説いては、小銭を稼ぐ。僕の知らない世界だった。あまりにも汚らしい。しかし、どこか惹かれるところもあったのは確かだ。


 思いっきり頭を抱える。彼はきっと僕を恨むだろう。道をさまよう彼の姿が頭をよぎる。吐き気がする。死体が彼に放り投げられる。黒い霧が彼を閉じ込める。施療院が彼へ手招きする。そして、彼は動かなくなる。


 突然の衝撃に気がつくと、脚だけを外に放り出した状態でベッドに横になっていた。どうやらそのまま眠っていたらしい。手汗がじっとりとしていた。月は沈みかけていて、そろそろ朝日が見え始める頃だろうか。僕は窓から施療院の方を見た。


 立派な尖塔が、悪魔の両腕のようだった。


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