人妻の場合
私の家に死が訪れたのはつい先日ののことだった。突然、夫が倒れ、ペスト患者であることがわかってしまった。町の人々の冷ややかな視線を受けながら、私と夫は医師の定期検診を受けることになった。
それからというもの、この町に私たちの居場所はない。まるで異教の地で神の教えを説いたような、恐ろしい扱いを受けていた。
私は台所で調理をしながら、夫のことを恨めしく思った。包丁を持つことに恐怖を覚え、なるべくそれを使わないものを作った。パンはなるべくふやけさせた。
密室に入ると、ほんのりとした香草の香りと共に、小さく呻く声が聞こえる。食事を夫のベッドのすぐ横に置き、汗をぬぐってやる。私は、その後なるべく音を立てないように外に出て、ドアを閉めて初めて息を吸った。
私まで、罹患するわけにはいかない。
私はロビーに戻ると、水瓶から水を一杯すくい上げ、手と顔を洗い、服を着替えた。毎日のように服を新調することはできないが、毎日、いや、あの部屋に入るたびに着替えている。すぐに水に入れて、なるべくからだから彼の痕跡を取り除く。
私は一息ついて、ロビーの本棚を見る。夫が常に本棚の本を独占しているので、その貴重な物語をゆっくり読む時間がなかった。私は目当ての小説を見つけると、少し背伸びしてそれをとり、はやる気持ちを抑えつつ、そのページをめくる。夫が元気な時には、こんなにワクワクすることはなかった。今日は何を読もう、明日は何を読もう、そんな気持ちに流されるように、金のかかったコレクションを漁る。夫には申し訳ないが、彼の罹患に一番喜んだのは私かもしれなかった。
人は一番近くのものを煩わしく思うといわれるが、今の私はきっとそういう状態なのだろう。私は本をじっくりと嗜む時間をやっと取ることができたし、彼も仕事をするための時間を眠る時間に代えられたのかもしれない。
気づけば外は暗くなっていた。部屋の蝋燭も貴重な資源なので、早く眠ることにしようと思い、戸締りを済ませてさっさと床についた。
朝の日差しが私を優しく包み込む。目を覚まして支度をし、夫の部屋に行くと、夫は冷たくなっていた。ペスト医師が往診にやってくると、ペスト人口用の記録簿の欄にあった夫の文字を消した。そして、遺体は回収しやすいように他の家のものと一緒にしておいてくださいと言って、さっさと帰ってしまった。
人の命とは、かくも儚く無意味なものだっただろうか。私は、自分の母が死んだときのことを思った。私も泣いていたはずだし、子供達も泣いていた。夫も泣きこそしなかったが、沈んでいたのは確かだった。
しかし、私は今最も身近な、然も人生の半分を共にしたこの男を無感情に外の広場に放り投げることができる。朝日が責めるように私を照らしていた。
家を出てすぐの広場には当たり前のように死体が積み上げられていた。夫と同じく、首のあたりに黒い腫れ物ができていた。そして、これまた同じく足先や指先が黒ずんでいた。虚ろな瞳はどこを見るでもなく、無数の集合体のように各々を見ているらしかった。独特の嫌な臭いから逃げるように、私はすぐに家に戻った。
手や体を洗い、本を開く。一人になった家はひどく広かった。もし働き口が見つからなければ、ここも引き払わなければならない。夫の物の片付けも、出来る限りしなければならない。
しかし、今日はひどく疲れてしまって、片付けをする気にならないのだった。私はそのまま力が抜けて、眠りについてしまった。
夢の中で、私はぼんやりとした幻を見た。夫が、城の外へ向かって歩いている。歩いている。どこへ行くの?そう尋ねても、返事はなかった。
お願い、置いて行かないで。私はそう言って、夢の中で彼を追いかけた。
振り向いたあなたの首筋には、黒い腫瘍があった。立ち止まったと思えば、すぐに町の外へと向かって歩いていく。潰れた腫瘍が瞳に映ろうとも、必死にあなたを追いかける。あなたの姿を認めた兵士たちは、閂を外した。城壁の門は、開かれた。
目が醒めると施療院にいた。私は首筋を摩る。そこにはまだ腫瘍はなかったが、身体はだるくて動かなかった。私が咳をすると、強烈な甘い香りが喉を通り抜けるのがわかった。香草を焚いている。真上には無機質な白の天井があり、少し右を向けば中央奥に祭壇が見える。そこには二人の聖人が立っており、私たちを慈しむように見ていた。修道士がやってきて、私の顔色を伺う。「お目覚めですか?よかった」そう言ってにっこり笑う修道士を、殴りたくなった。
「ここは、施療院……よね?」
修道士は頷くと、祈りの口上を唱えて、私の心を落ち着かせようとしたようだった。私の揺れ動く視界の中に、その口上はずれて聞こえた。
「有難うございます……でも、私は、何が起こったのかわからないのです」
修道士は少し困ったような顔をして、黙っていた。白い天井から落ちてくる幻のように、彼の頭はおぼろげに輝いている。
疫病が広まると、恥知らずの女が町をうろつくようになるという。私は、夢のことを思い出した。その夢は、私がこの目で見たものらしかった。




