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第1話 父の最後

挿絵(By みてみん)


「ルカ……」


父の声は、今にも消えてしまいそうだった。


十二歳のルカは、寝台のそばで父の手を握っていた。


その手は、もう人の手には見えなかった。


指先から手首まで黒く変色し、乾いた炭のようにひび割れている。


触れれば崩れてしまいそうで、ルカは力を入れることもできなかった。


黒炭病。


オーサ村では、誰もがその名を知っている。


最初は小さな黒い染みから始まる。


やがて肌は炭のように硬くなり、ひび割れ、最後には灰となって消える。


治った者はいない。


一人も。


父が発症したのは半年前だった。


村一番の猟師だった父は、山道を誰よりも速く歩き、どんな獣にも怯まない人だった。


ルカを肩に乗せて笑っていたあの背中は、今では寝台の上で小さく縮んでいる。


「お父さん……」


ルカは泣きそうになるのを必死にこらえた。


父の横では、母が両手で口元を押さえている。


泣き声を殺しているのが分かった。


家の外には村人たちが集まっていた。


誰も入ってこない。


黒炭病の最期を知っているからだ。


父はわずかに目を開けた。


「そんな顔をするな」


「でも……」


「お前は、強い子だ」


父は笑おうとした。


けれど唇の端が震えただけだった。


「母さんを……頼む」


「いやだよ」


ルカは首を振った。


「そんなこと言わないで。お父さんも一緒にいて」


父は何も言わなかった。


ただ、ゆっくりと視線を動かした。


その先にあったのは、家の東側の壁だった。


もちろん壁の向こうは見えない。


それでも父は、まるで壁のさらに先を見つめているようだった。


「東には……」


父が小さく呟いた。


「世界樹があるらしい」


その時だった。


父の黒く変色した腕に。


一瞬だけ。


青白い光が走った気がした。


ほんの一瞬。


瞬きをしたら見失うほど短い光。


「……え?」


ルカは目を擦る。


だが次の瞬間には消えていた。


父も母も気付いていない。


見間違いだったのかもしれない。


けれど。


なぜか胸の奥に小さな違和感だけが残った。


ルカは聞いたことがあった。


遥か東の果てに、世界を支える巨大な樹があるという昔話。


けれど、オーサ村からそれを見た者はいない。


大人たちは、子どもに聞かせるおとぎ話だと言っていた。


「本当にあるの?」


父は少しだけ笑った。


「さあな」


そして、ひどく苦しそうに息を吸った。


「でも……もしあるなら……」


そこで言葉が途切れた。


父の指先が崩れた。


黒い粉が、さらさらと布団の上に落ちる。


ルカの体が凍りついた。


「お父さん……?」


母が小さく悲鳴を上げた。


父の手が崩れていく。


手首が、腕が、肩が、乾いた炭のように砕け、黒い灰へと変わっていく。


「いや……」


ルカは父にしがみつこうとした。


けれど母が後ろから抱き止めた。


「ルカ、だめ!」


「いや! 離して!」


叫んでも、父の体は止まらなかった。


胸が崩れる。


首が崩れる。


顔の半分が灰になる。


それでも父の目だけは、最後までルカを見ていた。


「ルカ」


ほとんど声にならない声だった。


「生きろ」


それが最後だった。


父の体は静かに崩れ落ちた。


寝台の上に残ったのは、黒い灰だけだった。


部屋の中から音が消えた。


母が泣いていた。


外の村人たちも、誰一人声を出さなかった。


ルカは母の腕の中で震えながら、父だった灰を見つめた。


「お父さん……」


その時だった。


灰が動いた。


最初は気のせいだと思った。


けれど違った。


寝台に積もった黒い灰が、ふわりと宙へ浮かび上がったのだ。


窓は閉じられている。


風など入っていない。


それなのに灰は、まるで目に見えない何かに引かれるように、ゆっくりと動き始めた。


母が息を呑む。


ルカも声を失った。


灰は部屋の中を漂い、やがて窓へ向かう。


そして閉じられていたはずの窓の隙間から、吸い込まれるように外へ出ていった。


不自然だった。


あまりにも不自然だった。


ルカは急いで外へ飛び出した。


そして家の前に立ち尽くす。


外では東から冷たい風が吹いている。


本来なら灰は村の方へ押し戻されるはずだった。


それなのに灰は止まらない。


風に逆らいながら、まるで見えない糸に引かれるように東へ進んでいく。


父が最後に見つめていた方角へ。


世界樹があると言われる方角へ。


ルカは思わず息を呑んだ。


生き物のようだった。


灰は迷うことなく、一直線に東へ飛んでいく。


その時。


ルカは一瞬だけ見た気がした。


灰の中に。


小さな光の粒が混ざっているのを。


まるで夜空の星のような。


淡い光だった。


だが次の瞬間には消えていた。


気のせいだったのかもしれない。


ルカには分からなかった。


黒い灰は夕闇の空を東へ流れていった。


山を越え。


雲の向こうへ。


やがて見えなくなるまで。


ルカは目を離せなかった。


村人の誰かが小さく呟く。


「世界樹へ帰ったのだ……」


ルカには、その意味が分からなかった。


世界樹なんて見たこともない。


本当にあるのかも知らない。


けれど一つだけ分かった。


父はもう戻ってこない。


胸の奥に、ぽっかりと穴が空いた。


その穴を埋めるように、父の最後の言葉だけが何度も響いた。


生きろ。


生きろ。


生きろ。


ルカは東の空を見つめ続けた。


父を奪った病。


父の灰が消えた方角。


そして、誰も見たことのない世界樹。


そのすべてが、十二歳のルカの心に深く刻み込まれた。


五年後。


彼女は再び、黒炭病と向き合うことになる。



――第1話 父の最期 終――


【次回】

第2話 母の病

お読みいただきありがとうございます。

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