1. 朝起きたらお祖母様が浮いていた
ある晴れた呑気な朝のこと、目が覚めると、三年前に亡くなったお祖母様が、半透明で浮いていた。
「……」
どうやらまだ夢の中らしい。夢の中で寝たら起きると聞いたことがある。……よし、寝よう。それしかない。
布団の中に潜ろうとすれば、お祖母様は目覚まし時計と窓を交互に指差した。表情と口元を見るに多分「アリスちゃん起きなさい! 朝よ!」と言っている。
ええお祖母様、私、起きるために寝ようとしていたのですが。
「っお嬢様、もうそろそろ、本っ当に頼みますから、お目覚めになられてください! お見合いの時間に間に合いませんよ!」
ゴンゴンとドアを力強くノックする音が聞こえる。お祖母様はそれみたことかという顔で「早く返事をしなさい」と言いた気に今度はドアを指差した。
「今起きたわ。おはようジェーン」
ジェーンは返事を聞いた途端に入ってきて、目にも止まらない速さで支度を始めてくれた。どうやらお祖母様は視えていないらしい。ひとまず半透明のお祖母様のことは無視してされるがままになる。
鏡を見れば、私のふわふわな茶髪は今日も鳥の巣のようになっていた。ジェーンが懸命に髪の毛を梳かしてくれている間に、頬をつねってみる。うん、しっっかり痛い。
「はぁ……」
「どうかなさいましたか? また夢で熊と決闘でもなさったのですか?」
「それは勝ったからいいの。梳かしてくれてありがとう」
どうやらこれは、夢じゃないらしい。とはいえ、気にしていられるほど暇ではない。なんといっても、嫌で嫌で仕方がないお見合いがすぐそこで待っているのだから。しかもこれまた大量に。
……ああ本当に腹が立つ。大昔からお見合いは散々な思い出しかない。
『こんなやつだとは思わなかった!』
向こうから言い寄ってきておいて、理想通りじゃなかったからと勝手に帰られた。ついでに社交界であることないこと言いふらされもした。齢六歳の、我ながらかわいらしい頃だった。
人の口には戸は立たてられぬ。しかし人の噂も七十五日。というか早十二年。そんなの二度とごめんだと、これまではわざと追い返していたけども、もうそろそろうんざり。山に帰れないし、鼻息の荒い見合い相手にムカつくことばかり。いっそ適当に、今日来た人でも選んじゃえばいいかな、なんて思っていたのに。
と顔をしかめたところでお祖母様と目が合った。鏡越しのジェーンが私を見て笑いをこらえている。今日のは一人変顔じゃないから。
もう一度ため息をつきたくなったけれど、すべてを忘れて支度を進める。普段あれだけ変だと言われているのに、これ以上そう思われてはたまったもんじゃない。私にだって主人としての矜持というものがある。
対してお祖母様ときたら、目の前で手を振ったり変顔してみたり……幽霊になってもお茶目なところはご健在なようで。とっても素敵ですわね、やめてくださいません?
「このまま応接間まで案内するよう旦那様から言いつけられております」
「私の朝ごはんは……?」
「寝坊した方が悪い、とのことです」
お父様、そんなご無体な、と思っても仕方がなく。そのまま重いドレスを引きずって長い廊下を歩く。その間もお祖母様は飛んだり跳ねたり……よく足が痛いって仰っていたくせに。ああ、幽霊だからないんでしたっけ?
今日の人、もしかしたら惰性で結婚することになる相手を想像し、一呼吸おいてから応接間のドアを開ける。
「大変お待たせいたしました、アリス・ブランシェットでございます」
お祖母様の鬼のような淑女教育で鍛えられたカーテシーは美しく決まった。ソファに座っているお見合い相手の方の感嘆のため息まで聞こえてくる。お祖母様も満足そうにうなずいていた。
「ああ、初めまして! 私は……」
如何にも平凡な人だった。
へえへえ。我が家と同じ子爵家の次男で、普通に目鼻口があって、普通に喋っている。もうこの人でいい。このお見合いラッシュが終わるなら、これで。
次男はペラペラと自己紹介を続けている。
そんなことよりもですね、私はこの宙に浮いているお祖母様が気になって……。
「アリス、どこを見ているんだ」
ぼーっとお祖母様を見ていたらお父様に肘でつつかれて小さな声で叱られた。どうやら視えていないらしい。いや、息子なんですから見えていてくださいよ。ほら、シャンデリアの近くに浮いてますよ。
「んえ?」
そんなお祖母様がどこからともなく取り出したのは……スケッチブックだった。
生前によく使われていたものですね? 野生動物の笑える姿をスケッチとかしてたやつ……今度は何を描いて……。
──×
バツ?
お相手の頭上に掲げたと思ったら、また新しく何かを描いている。文字だった。相変わらず綺麗な字ですねお祖母様。ええと、
──特殊性癖あり。人の分泌物をこよなく愛している。
分、泌物。それって鼻水とか汗とか……。
前言撤回。お祖母様はしょうもない嘘はついても、こういう時に嘘つかない。絶対にこの人とは結婚しない。死んでもお断りというか、結婚したら死ぬ。なんでこんないかにも普通の人です的な顔で生きているの、この人。
「すみません、宗派の問題でお断りさせていただきます」
お父様のぎょっとした顔を横目にどうにかしてお帰りいただいた。なにやら文句を言ってくるけれど聞こえない。
……なるほど、このお祖母様、いつまでも婚約者のできない孫娘をサポートするためだけに化て出てきたってこと??
というか最初からそのスケッチブックに書けば良かったのでは? 身体言語していないで。
「それで、今日は後何人でしたっけ?」




