第一八四話「幕間:〈日食〉計画」
※三人称視点です。
夏の始めと言えども真夜中は過酷な冷気が支配するロマノフ帝国の首都ミルカヤンコフ、その外れに建つ教会では、周辺諸国では邪神と扱われているアブネラを祀っている。
その祭壇で祈りを捧げていた祭服を身に纏った青年は、暗闇を縫って参じた気配に祈りを止め、振り返った。優しげな微笑みを湛えるこの若き男こそが、ロマノフ帝国の地下組織〈グアレルト〉の頂点である教皇ルドルフである。
「教皇猊下、神殿騎士ミロスラーフについて報告に御座います」
「許す、申せ」
黒装束の男の口から発せられた言葉に、教皇はその優しげな表情とは全く色の異なる冷たい口調で返す。原因も分からぬまま出奔した神殿騎士のミロスラーフについては彼も内心気が気でなかったのだが、それを表に出す訳にも往かないのである。
「はっ。一五日前の情報とはなりますが、神殿騎士ミロスラーフはバイシュタイン王国の港町、ザルツシュタットのリュージ・ハントヴェルカー伯爵の下で発見されたようで――」
報告の途中で、パキィン、という音が入り、黒装束は言葉を止めた。
教皇が手に持った祭礼用の聖杯は、強く握り締められた事によりヒビが入っていた。そして、先程まで優しげな笑みを湛えていた教皇の顔はと言うと、憎しみの色を湛えて歪んでいた。
「あの男は一体何をやっているのだッ! リュージと言えばエメラダという重要な手駒を殺してくれた、我等の怨敵だぞ!」
激高と共に投げ捨てられた聖杯が甲高い音を立てる。普段ここまでに激しく感情を見せぬ主の姿に、黒装束はすくみ上がっていた。
教皇は拳を握り震わせ歯軋りをしていたものの、我に返り咳払いを一つしてから、再び黒装束の方へ向き直った。
「……続けよ」
「は、はい」
黒装束はすっかり萎縮していたが、仕事が出来ぬ鼠と判断され贄にされる訳にも往かぬ為、唾を飲み込み、報告を続ける事にした。
「どうやらミロスラーフは、ハントヴェルカー伯爵と共に航海へ出るとの情報を掴みました」
「航海? 何処へだ」
全く教皇としては予想外であった報告内容に、彼は訝しげに眉を顰めた。彼等もザルツシュタットが急激に海の力を付け始めているという事は知っている。その為に過去ゴルトモント王国をけしかけた事もある。
だが、伯爵となった付与術師リュージが何処へ向かうと言うのか、教皇には少しだけ心当たりがあった。
「ケチュア帝国の模様です」
「……ケチュア帝国、やはり、そうか……」
教皇は自分の予想が当たっていたことを知り、すぅっと目を細めた。付与術師リュージがロマノフ帝国と緊張状態にあるゴルトモント王国に船で向かう必要など無いし、デーア王国など東方に関しても同じ事である。
「ミロスラーフを連れて向かう理由は、恐らく――アブネラ様に関する事であろうな。となれば、マズいな」
ルドルフはこの大陸におけるアブネラ信仰の頂点に位置する教皇であり、先代、先々代より遙か前より〈グアレルト〉が秘匿している機密を受け継いでいたが、彼の右腕を担っていたミロスラーフはその一部について知っているのだ。
だとすれば、ケチュア帝国から流れてきた民が伝えたアブネラ信仰が如何に現代捻じ曲がって伝えられているのか、それを知ってしまう可能性が高い、そう教皇は睨んでいた。
「だが、我等がケチュア帝国へと向かう事は出来ぬ。ならば――あの計画を早めるとするか。鼠、追加の仕事だ」
「はっ! なんなりとお申し付け下さい!」
教皇に呼びつけられた黒装束は、声を高らかにして頭を垂れる。些か真夜中の教会に似つかわしくない大声ではあったが、教皇は満足そうに頷く。
「ゴルトモント、グアン、デーア、そしてバイシュタインの分子共を動かすよう号令を出せ」
「そ、それは、まさか……!」
狼狽える黒装束に、教皇は再び優しげな笑みを見せ、そして冷淡な口調で答える。
「そうだ。平和の為の混沌を。〈日食〉計画の発動だ」
次回は明日の21:37に投稿いたします!