第一八〇話「船の上で考える時間は有り余っているのだ」
それから陛下より再び西の大陸へと訪れることへの許可が出たのは夏も始まった頃、結構な時間が経ってからの事だった。陛下の仰ることには、「国の中枢を説得するのに時間が掛かった」との事だった。一歩間違えば他国からの風当たりが強くなる内容だけに、慎重な人たちが多かったのだろう。
そしてザルツシュタットの外壁建設計画も進み出している。手始めに各地から集められた作業員により、セメントという物質の製造を行う工場の建設が進められていた。この材料を水と合わせ、石などを骨材としてコンクリートにするのだそうな。
しかしそのセメントの材料として山から石灰石を切り出す必要が有り、切り出した石灰石を窯で焼成する必要が有る。その燃料はと言うとコークスと言う石炭を乾留しないと出来ない物だからまた専用の窯が必要で、その石炭はと言うと西の大陸が頼みの綱となる訳だ。
つまり石炭の供給が無い以上、外壁建設で今出来る事はセメント工場と窯の建設、セメントの材料集めや壁を建てる場所の整地しか無い訳だが、色々と調整は必要になる。
「そう言う訳だから、頼んだぞ」
「はぁ……、人とお金の調整とか、苦手だよぉ……」
「今のうちに慣れておけって。後々役に立つだろうし」
出航前の大型船が停泊しているザルツシュタット港の片隅で、俺は項垂れるレーネを説得していた。いやもう説得って段階じゃないんだが、出航直前なんだし。もう諦めて貰う他無いのだ。
「パパ、おみやげをたのしみにしてますね」
「おう! マリーがびっくりするようなモノを持って帰るからな!」
他ならぬマリアーナのお願いである。俺はキラキラと瞳を輝かせる愛娘に向け、勢いよく親指を立て約束した。横でミロスラーフが「娘にゃ甘いこと」と呆れているが無視無視。
「ハントヴェルカー伯爵、くれぐれも気を付けるんだよ。バイシュタイン王国にとって君を喪うと言う事は大きな損失だと理解した上で行動すると良い」
「はい、承知しております、ライヒナー候」
ライヒナー候に釘を刺されてしまったが、俺だって家族を遺して死ぬつもりなんて無い。重々気を付けて行くつもりだ。
今回の出航に向けて幾つか簡単な依頼がこなせるようにと、俺とレーネはベルを始めとしたお互いの弟子たちに〈練魔石〉のレシピを幾つか教えてある。もっとも、〈大金剛の魔石〉など情報が漏洩した時の影響が計り知れないモノについては未だに俺とレーネの頭の中にしか存在しないが。
「……さて、そろそろ出航準備だし、行ってくる。ミノリたちも留守番を頼んだぞ」
「りょーかい、早く戻ってきてね」
ただの見送りだと言うのにガチガチに緊張しているアイとは違い、ミノリとスズは心配などしていない、と言った風にひらひらと手を振るだけだった。……まあ、内心は心配してくれているんだろうが。
妹たちは今回同行すると言わなかった事から、だいぶ兄離れをしてくれたのだと思う。少し寂しい気もするが、二人とも立派な大人だからな。
「んじゃ行こうか、ミロスラーフ」
「へえへえ、ご主人様」
「ご主人様は止めろ、気持ち悪い」
スズから俺へ隷属魔術の主を委譲したからと言ってその呼び方は止めて頂きたい。『伯爵様』にはもう慣れたが。
しかし……ミロスラーフが俺に敗れてから二ヶ月以上も経っていると言うのに、ロマノフ帝国から未だ此奴を助けに来る気配が全く無いのは気になる。その事について聞いてみたら「俺が負けるなんて思っていなかったから慎重になってんだろ」とは言っていたが――
そんなことを考えながら、俺はミロスラーフと共に〈ノイヴェルト〉号へと乗船したのだった。
当然のことながら〈ノイヴェルト〉号は交易船なので、船員の暮らす施設は最低限の機能しか備えられていないし、暫く風呂に入ることはおろか水も限られる為に身体を拭くことだってままならない。
出航してからすぐに船長から船について簡単な説明を受けた後、俺とミロスラーフは作業の邪魔にならない程度に広い船の中を見学して回っていた。〈ノイヴェルト〉号は全長六〇メートル超の大型船だと聞いているが、歩いてみると割と狭く感じる。そりゃそうか。
「お前さんの家に比べたら地獄だな、ここは。俺を連れて来たことを恨むぜ」
「やかましい、我慢しろ」
普段船で生活している船乗りたちに大変失礼な事を言っているミロスラーフをぴしゃりと黙らせる。そりゃ俺だって狭いところに閉じこもっていることを不快には思っているが、慣れる他無いし進んで乗っているのだからそれを口に出して言う訳にはいかない。
「……さて、乗っている間は時間が有り余っている訳だが。取り敢えず着いた後の事を話しておくか」
俺は甲板から船室へ向かう入口の壁に背中を預け、そう切り出した。まだまだ到着まで掛かるものの、早めにこの件は纏め、駄目な部分はミロスラーフから指摘してほしいのだ。
「あー……、アブネラ様への信仰の在り方について調査するんだったか」
「そうだ。向こうの信仰が無害で有ること、それを知り、バイシュタイン王国やその他の国にも理解して貰うことがゴールだな」
「そう上手く行くかねぇ……?」
皮肉交じりの苦笑を浮かべ、ミロスラーフは鼻で笑っている。まあ俺もすんなり上手く行くだなんて思っちゃいないが、一歩を踏み出さない限りゴールへは辿り着けない。そして理解されない限り、交易も継続出来ないのだ。
視線を動かし、船の後方を望む。ザルツシュタットの姿は、段々と小さくなり始めていた。
次回は明日の21:37に投稿いたします!