第一五七話「泡沫の夢、それはとても懐かしい思い出で」
(…………ここは?)
雷から逃げて走っていた筈が、俺は何故か見慣れない町の片隅で壁にもたれ座ったまま、雨に打たれていた。何やら体中が痛い。
と言うか、言葉を発した筈なのにそれが声になっていないし、身体や視線を動かそうにも動かなかった。
(……そうか、ここは見慣れない町なんかじゃない。サクラ帝国の西に在る隣国、トウ帝国の――町の名前は思い出せないが、貧民街だ)
と言うことは、これは俺の記憶だ。確かこれは、屋台の料理を盗もうとして失敗し袋叩きに遭った時だ。道理であちこちが痛い訳だ。
「君、どうしてこんな所でずぶ濡れになっているの?」
頭上から女性の声が掛かった為、視線が上へと動いた。この、何処か辿々しい東方共通語の主は――
「……どうでも良いだろ」
俺――いや、この時はまだ一二歳の俺が、頭上の女性へと面倒臭そうに応えた。
女性は予想通り、金属製の長い杖を持つ、萌葱色のセミロングヘアを揺らしたエルフだった。生意気なガキにつっけんどんな対応をされたにも関わらず、彼女は慈愛の微笑みを浮かべていた。
「どうでも良くないわ。君みたいな子供が身体のあちこちに傷を負っているのに、放ってはおけない。ちょっと待ってね、神術で回復を――」
「……良いんだよ、自業自得だ。盗みを働いて、それで罰を受けただけだ」
女性が神術の準備に入ろうとしたが、ガキの俺は壁に手を這わせ、ふらつきながら立ち上がろうとする。この時は確か、ガキの癖に無関係の誰かを巻き込みたく無いと思っていたんだよな。
「……だったら尚更、私は君を助けないといけない」
「なんでだよ」
無理矢理に肩を押さえつけられ、再度ガキの俺は地べたに座る。この時は思っていたよりも力が強くて驚いた覚えがある。
そう、彼女は何時だって俺より強く、そして適わない人だった。
「だって、悪いことをした、申し訳ないことをしたって理解しているんでしょう? そんな子が、それ以上罰を受ける必要は無いのよ」
「………………」
ガキの俺はそれ以上何も言えなくなり、諦めてされるがままに神術での手当てを受けることにした。幸いにも骨に異常は無いみたいだと、今度は女性の方が驚く番だった。丈夫なのが取り柄みたいなものだったからな。
「神術ってことは、神官か」
「神官よ。今は魔術師だから元だけどね。だから本当は神術を使っちゃいけないんだけど」
ぺろっと可愛らしく舌を出して、女性は小さく笑って見せた。そしてガキの俺の横にしゃがみ込んで、顔を寄せてきた。
「君、親御さんは?」
「居たらこんな事してない」
「それは分からないわ。世の中には子供に盗みを働かせる親と言うものも居るのよ。悲しいことだけれど、親に愛して貰えない子だって居るものなの」
そう言って、女性は少し寂しそうな表情を浮かべた。今思えば、これは彼女と彼女の妹の事を語っていたのだと、分かる。
そのまま二人は暫く黙って雨に打たれていたが、ガキの俺は地面に視線を落とした。
「……俺の故郷は、内乱で滅茶苦茶になっているんだ。両親は、そこで死んだ」
「…………そうなのね」
「……でも、一緒に連れて来た妹が二人、居るんだ。二人とも腹を空かせているから、その為に盗みを働いた。悪い事だって分かってたけど、でも、生きる為だったんだ」
「…………うん」
何時の間にか流していた涙と共に、ガキの俺は女性に身の上を話していた。故郷のサクラ帝国から同じ境遇の女の子二人を連れ、逃げて来たこと。二人を頑張って養ってきたこと。図体こそデカくても、外国人の子供というだけで仕事にありつけなかったこと。金が尽きた為に盗みを始め、そして今日報いを受けたこと。
そんなことが、ガキの俺の口から堰を切ったように打ち明けられるも、女性はガキが背伸びした末路だと馬鹿にする事も無く真剣に聞いていた。
「そうか、頑張ったんだね」
「……頑張ったよ。でも……顔が割れたし、この町では生きて行けない。次の町へ行く金も体力も、無い。だから――」
もう野垂れ死ぬしか無い、そう口にしかけた所で、ガキの俺の頭は女性の胸に埋められた。雨が降っていると言うのに、日向の匂いがした事を覚えている。
「私は、きっと貴方に会う為に此処へ辿り着いたのね」
ぽつりと、女性が呟く。ガキの俺はその言葉の意味する所が分からないままに、彼女の胸の中で咽び泣いていた。
「……そして、リュージ。私は自分の罪を何処かで理解していた。貴方に罰して欲しかったんだわ。そして、それは果たされた」
…………え?
「何を、言って――『先生』?」
俺は自由になった己の身体で、目の前の『先生』を見上げた。何時の間にか身体はガキの頃の俺では無く、今の巨漢と言える身体に成長して――いや、戻っていた。
困惑している俺に、『先生』は何時ものお茶目な微笑みを見せてくれた。
……そうか、これは泡沫の夢。雷に打たれて意識を失った俺が見ている夢か。
「ええ、そうよ。懐かしい思い出だったわね、リュージ」
「……俺はかなり恥ずかしかったんですが」
見ず知らずの女性の胸を借りてあんなに泣いていたのか、俺は。今思うと顔から火が出そうだ。
そんな俺を見て可笑しそうにクスクスと笑う『先生』。それはレーネと同じ笑い方であり、初めて姉妹なのだと理解出来たような気がした。
「……さて、リュージ。私は逝かなきゃならないけど、貴方は違うわ」
「……俺は生きている、ん、ですか?」
俺は『先生』の言葉に若干戸惑いを含ませながらそう返した。雷に打たれたのは二回目だが、果たして蘇生出来るのだろうか。
不安が表に出てしまったのだろうか、『先生』は「大丈夫よ」と小さく笑った。
「だって、貴方にはレーネを幸せにして貰わないといけないもの」
「……俺たちのことを認めてくれるんですか?」
「まあ、リュージのこれから次第、よ」
……肩を竦めてそんな事を言われるとどうにも認められた気がしないんだが。
そんな緊張感の無いやり取りをしていたものの、『先生』は最後に儚い微笑みを見せた後、目を閉じた。そしてその身体が段々と朧気に消え始める。
この優しい夢も、終わってしまうのか。
「私は道を誤ってしまったけれども、貴方たちはどうか、違えないようにね」
「…………はい」
決して、違えはしない。これは『先生』が、最後に教えてくれた事なのだから。
「だから、見守っていてください」
泡沫のように消えてしまった『先生』へと、俺はそう語りかけたのだった。
次回は明日の21:37に投稿いたします!