第一三七話「逃亡劇、進むか戻るか」
吐きそうなのを堪えながら山道らしき場所を登り続け、ようやく煙が晴れ、俺の手を引くレーネの姿が見えてきたのはたっぷり一時間もした後だった。気分も少し落ち着いてきたし、地獄みたいな気分も幾分楽にはなってきた。
状況から鑑みて、レーネに連れられた俺はアデリナとは反対側に延びていた山道を登ってきたのだろう。だいぶ歩いたが、此処は一体何処なのだろうか。鬱蒼と茂る草木が何とも不気味だ。
「レーネ、身体は大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫。なんか、リュージのピンチだって思ったら力が湧いてきちゃった、ふふっ」
レーネは少し色づいた顔色で小さく笑って見せた。嬉しいことを言ってくれる。苦境だったものの、少しは元気が出てくれたようだった。
「で、まだ晴れないこの煙は一体何なんだ? どうしてレーネは平気なんだ?」
俺は気になったことを尋ねてみた。これだけ歩いて来たというのにまだ煙が晴れていないのだから、どれだけ強力な煙玉だったと言うのか。いや、そもそもこんな強力な煙は有り得ないだろう。何か絡繰りが有る筈だ。
するとレーネは、「もう見えてはいるみたいね」と言って手を離したものの、歩みは止めないようだ。エメラダが諦めるつもりも無いと思っているからだろう。
「えっと、まず煙自体はあの場にだけしか舞っていないの。今この場は晴れやかな空気に満ちているけど、リュージには霞がかっているように見えてるよね」
「ああ、幾らかマシになったが」
「実はあの時撒いた煙は毒性のあるもので、五感と魔力感知能力を狂わせてしまうの。私は事前に解毒剤を飲んでいたから効かなかったって訳ね」
「おいおい、毒かよ……」
まさか俺ごと毒に巻き込んで逃げるとは、恐れ入った。とは言え地獄のような吐き気を耐えていた俺は思わずがっくりと項垂れてしまった。妻に毒を盛られてしまったぞ。
俺のリアクションに、レーネはと言うと苦笑し「ごめんね」と可愛く舌を出していた。まあ、お陰で助かったのだから文句は言うまい。
「それで、ここは何処なんだ? どっちの方向に歩いてきたんだ、俺たちは」
「ええっと……たぶん、東かな」
レーネは頭上の太陽を見上げながら何処か頼りなくそう答えた。東か、ザルツシュタットとは反対方向になってしまったな。
「だが此処から西のザルツシュタットを目指しても、何処かで待ち伏せされる可能性があるな。どうしたもんか」
脳内に地図を広げながら、俺はどうすることがベストかを考えていた。このまま南の街道に出て西へ向かう途中にエメラダか或いはあの二人が待ち伏せている可能性は低くない。
しかし、町に向かうにはそのルートしか無い。今ここで西に戻ったらそれはもっと危険だ。北は険しい山があるし、となれば今は東へ進み続けるしか無いのだろうか。
「困った。西へ戻る方法が思いつかねえ」
俺は降参だと諸手を挙げ、そう宣言した。命が助かったのは幸いだが、どう足掻いてもザルツシュタットに戻れる気がしない。
そんな俺を見て、レーネも歩きながら考える素振りをしていたが、何か良いことを思いついたかのように、手を後ろに回して俺の前に立ち、悪戯っぽい笑顔で見上げてきた。
「じゃあ、戻らなきゃいいよ」
「……いや、そういう訳にも。今はゴルトモントが攻めてきてるしな……」
俺は防衛隊に所属していながら何も言わずに抜け出してきたのだ。ホフマン公爵閣下に申し訳ないし、きっと妹たちも気が気じゃ無いだろうし、出来れば戻りたい。
「そういう義理堅い所もリュージの魅力だけど、少し大局的に、柔軟に考えてみよう? ザルツシュタットには錬金長銃があるし、フランメも居るからそうそう負けないと思う。だから私たちは一旦ほとぼりが冷めるまで別の場所に隠れるのが良いと思うの」
「うーむ……」
俺はレーネの言うことも一理あると思い、悩み、唸った。そういや火竜のフランメという反則的な戦力が居たな。アイツが矮小な人間の戦争に参加してくれるかは微妙な所だが、ラナたちを護る為なら行動してくれそうな気もする。
「じゃあ、俺たちは結局何処に隠れれば良いんだ?」
此処から行ける村に匿って貰うという手もあるが、それは悪手と言えよう。訳ありの余所者を匿ってくれる保証など何処にも無いからだ。
俺の質問に、レーネは何故かドヤ顔を見せている。「何か忘れているんじゃない?」とでも言いたげな顔だ。
「…………あ、そうか。東か。いや、正確には北東だが」
俺は一つ、無条件で匿ってくれそうな場所に心当たりが有り、口からそんな言葉が自然に漏れた。
レーネはうんうんと頷いている。どうやら正解だったらしいな。
「そう、王都まで行って、王城に隠れちゃえばいいじゃない!」
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