第一一八話「どうしようもない油断でしか無かったようだ」
山道は舗装などされている訳ではないが、展望台となっている山の頂上を訪れた人々の足で踏み固められ、歩きやすくなっているのは知っていた。一度休みの日にレーネと一緒にデートで訪れていたのだ。
その足跡の中に『先生』のものを見つけることが出来た訳でも無いが、それでも俺はこの先に彼女が居ることを確信していた。
「さっさと仕事に戻るつもりだったが……それでも、『先生』が居るなら追い掛けない道理は無い」
そう自分に言い聞かせながら、一歩一歩、頂上へ向かって進んで行く。
俺たちが『先生』と別れたのはもう七年も前のことだ。「もうリュージは私が居なくても生きて行けるわ」と言い残し、旅立ってしまったのだ。
俺たち兄妹は生きる術を教えてくれた『先生』に何も恩返しが出来ていない。それどころか、『先生』の名前も知らないのだ。この後再会出来たら、今度こそは名前を教えて貰い、そして受けた恩を返さねばならない。
そして他にも色々と話す事がある。俺や妹たちがどれ程立派になったのかとか、嫁が居るとか、つい昨日、養女を迎えたとか。
「そうだよ、俺たちは立派になったんだ。『先生』の前で胸を張れるような、立派な大人に」
きっと『先生』の記憶では俺たちの姿はまだまだ子供だっただろう。あの時の子供が成長したことを、きっと喜んでくれる筈だ。
「…………あれ?」
期待に胸を躍らせ歩みを進めていたところだったのだが、俺は不意に訪れた違和感を覚えて立ち止まった。
山道のルートが、俺の記憶していたものと異なるような、そんな気がするのだ。
「……どういう事だ?」
先程までの浮ついた気持ちを抑え、俺は得も言われぬ不快感に周りを見回していた。確かに俺は道なりに歩いてきた筈だ。この山道は一本道であり、もうそろそろ頂上に出ても良い頃合いなのだが、全くもって道の先が見えていないのがそもそもおかしいのではあるのだが。
「……前に来た時は早春だったか。今もまだそれ程には時間も経っていないし、草木の変化も無い筈なんだが……」
例えば秋に訪れていれば紅葉している為に周りの景色は今と異なっていて、違和感を覚えることはあるだろう。
しかし今感じているのはそういった外観の違いに由来するものではない。もっと、何かこう――進むことが躊躇われるような、そんな危険な臭いによるものと言えば良いのか。
「………………」
後ろを振り向いて見る。今通って来た道は確かに存在している。戻ることは出来る。出来るのだが――
「……でも、この先に『先生』は居るんだ。だから、躊躇っている暇は無い」
俺はそう判断し、再び山頂への道へと向き直る。そして、一歩を踏み出した。
――が、踏み出した筈の足は、どういう訳か空を切った。そして――
「なっ!?」
目の前の光景が一瞬で激変する。先に山道が続いていたと思っていたそこは、断崖だったのだ。違和感の正体は、記憶していた山道と今歩いてきた幻術で作られた山道とのギャップだったのだ。
俺は『先生』への情動で正常な判断を忘れていたのだ。危険を感じたのだから、進むべきでは無かったのに。
だが、後悔してももう遅い。踏み外した足は何処に着地する訳でもなく、俺の全身を引っ張るように空中へと誘う。
そして垂直に近いような崖を、俺は為す術も無く転げ落ちて行ったのだった。
転げていた時間はとても長く感じられたが、恐らく十数秒といった所だろう。
それでも俺の全身の骨を砕くには十分過ぎる時間だった。〈大金剛の魔石〉を持っているものの、アレは攻撃を防ぐ為の魔石である。こうして崖から落ちた時に役立つものではなく、俺はもろに落下のダメージを受ける羽目になってしまった。
「ぐっ……!?」
うつ伏せに倒れた身体を起こそうとしたものの、全身がバラバラになったような感覚にくぐもった悲鳴を上げる。いや、実際に骨がバラバラになっているのだが。生きているのが不思議な位だが、間違い無く危険な状態だ。
何しろ、あの幻術を仕掛けた奴が俺を狙っている筈なのだ。すぐに逃げなければ、命を落とす事になるだろう。
「レーネ、の……、薬、を……」
俺は今にも千切れそうな意識を保つために口を動かしながら、なんとか崖を背にして座り込む。そして、マジックバッグから薬を取り出した。
「残念、使わせませんわ」
「……え?」
虎の子の回復薬は、降って湧いた女性の声と共に横から伸ばされた手に奪い取られてしまった。痛む首を回し、泥棒の正体を確認する。
そしてその人物を見た俺は、驚愕の余りに一瞬思考が止まってしまった。
「……何故、お前が生きている……?」
そうだ。此奴は死んだ筈だ。魔竜の背中から塩水湖に落ちた筈なのだ。生きている筈が無いのだ。
だが、目の前に居る露出度の高い紫色の服と燃えるような朱い髪をはっきりと覚えている。幾度も俺たちの前に立ちはだかったのだから。
「ご挨拶ですわね、付与術師リュージ。――ですが今度こそ貴方の息の根を、止めてみせますわ」
蓋を開けた薬瓶を逆さにして中身をぶち撒けた邪術師アデリナは、俺へと余裕の笑みを浮かべながらそう言い放ったのだった。
次回は明日の21:37に投稿いたします!