過ぎし主、今の主、御側にありて12
会場に到着すると、フィオリア様はラディウス様の席から少し離れた、公爵席へと移動される。そのため、そこで一度お別れとなった。
ラディウス様の隣の席には、すでにヴァレリウス王が着席している。ラディウス様は席へと進む前に、ひとつ静かに息を整え、ゆるやかな足取りで王のもとへ向かわれた。私はその後ろに控え、二人の様子をそっと窺う。
「陛下、本日はご一緒させていただき光栄です。」
「こちらこそ、ラディウス殿下。」
互いに優雅な一礼を交わす。だが、私が思わず瞬きをしたのは、その時だった。噂に聞く“リガトニア王”といえば、鋭い眼光と威圧感で知られる人物。だが今、ラディウス様を見つめるその瞳には、刃のような光はひとかけらもない。むしろ、柔らかく包み込むような、甘やかな色を湛えていた。その意外な空気に、私の胸の奥にはふっと温かな波紋が広がっていった。
ラディウス様も同じように感じたのだろう。ほんのわずかに揺らぎが見えたが、それは一瞬のこと。すぐに穏やかな笑みを整え、席へと腰を下ろされた。すると、リガトニア王がふと話題を変えるように、花束のことを口にされた。
「贈った花は、気に入っていただけたか?」
「ええ、とても素敵なお花を贈ってくださり、ありがとうございます。陛下のお心遣いに、何もお返しできず申し訳ございません。」
「気にすることはない。私が好きでしたことだ。」
そう言って口元に穏やかな笑みを残したまま、陛下は一瞬だけ視線を外し、再びラディウス様へと戻した。その眼差しは、まるで何かを探るようでいて、同時に慈しむようでもある。
「……ところで、ラディウス殿下。」
「はい、陛下。」
「最近は、どのように過ごしておられる? 公務ばかりでは息が詰まろう。」
問いかける声音には、単なる社交辞令にはない、個人的な関心の温度が宿っていた。ラディウス様は一瞬だけ瞳を見開き、それからにこやかに口元を緩める。
「部屋で従者の淹れてくれた紅茶を飲みながら本を読むか、友人と会話を楽しんでおります。」
「友人とは先ほど一緒に来た、者か?」
「はい。友人とは言っても、従兄弟でもありますので幼き頃から仲良くしております。」
「…なるほど。従兄弟と言えばグライヒアリト王の弟君のところのルシエル公爵家だったか。」
「はい、陛下。幼い頃より何かと気にかけてくれる存在です。」
ラディウス様は穏やかに答えたが、その口調の柔らかさに、王の眼差しがさらに深みを帯びる。
「羨ましいものだな。」
「……羨ましい、とは?」
「幼い頃から今も変わらず傍にいてくれる者がいるというのは、そうそう得られるものではない。」
陛下の声は低く、どこか遠いものを見ているようだった。しかしすぐに表情を戻し、にこやかな笑みを浮かべる。
「それで――その従兄弟殿は、ラディウス殿下のことを何と呼んでおられるのだ?」
「名前で呼んでおります。」
「ほう…では、私たちもこれを機に友人となり、名前で呼び合わないか?」
「…友人ですか?」
「ああ。私には心を許せる者は少ない。その数少ないものの中の一人として、私と親しくしてほしい。」
「それは…私でよろしいのでしょうか?」
「ああ。私はラディウス、貴方がいい。」
急な名前呼びにラディウス様の動揺を見せる。なんと返していいのか迷われている様子だ。
「あ、あの…陛下?」
「ヴァレリウスだ。」
「………ヴァレリウス陛下。」
「陛下はいらない。ヴァレリウスだ。」
「…ヴァレリウス様。」
その響きを確かめるように、王の瞳が細められる。
「ふむ……少し硬いな。もう一度、呼んでくれないか。」
不意に近づくような声音に、ラディウス様の指先がわずかに揺れる。
「……ヴァレリウス。」
わずかに掠れた声で名を呼んだ瞬間、王の口元がゆるやかに弧を描いた。その微笑みには、威厳よりもむしろ、懐かしいものに触れたかのような柔らかさが宿っている。
「そうだ。それでいい。二人で話すときは、そう呼んで欲しい……ラディウス。」
「…かしこまりました。」
言葉とは裏腹に、ラディウス様の耳朶がわずかに紅を帯びていくのを、私は見逃さなかった。
「そろそろ始まるな。ラディウス、我が兵の演武、楽しんで欲しい。」
「はい。」
レガトニア王から漂う甘やかな空気と、ラディウス様に名を呼ばれご満悦なご様子に、私を含め周囲の者は驚きを隠せなかった。
閲兵式が始まってもなお、王は折に触れてラディウス様に話しかけ、ラディウス様も穏やかに相槌を返される。だが時折、名前だけを甘い声で繰り返し呼び続け、ラディウス様がその名を返すまでやめようとしない。
「そんなに呼ばなくても聞こえております、ヴァレリウス。」と、わずかに不満をにじませた声が返れば、王は子供のように嬉しそうに笑うのだった。
――この光景を目の当たりにして、私は確信した。レガトニア王は本気でラディウス様を想い、全力でアピールしているのだと。
(……これ、もし庭先でやっていたら、甘すぎて蜂が寄ってきそうだ。)
アルファの求婚とは、これほどまでに甘く、積極的なものなのか。思わず私は肩をすくめてしまった。
その後に行われたグライヒアリト国とレガトニア王国の合同演武は、兵の規律と迫力で観る者を圧倒した。両国の強固な親和性が一目で理解できる。さらにルセニア公国の騎馬隊による演舞は、華麗で巧緻を極め、小国とは言え侮れない存在感を示していた。
ラディウス様は各国の演武に心から感激なさっている。その横顔を、隣にいるレガトニア王は恍惚とした表情で見つめていた――兵の力よりも、その喜ぶ姿こそが彼にとっての誇りであるかのように。
やがて閲兵式が終わり、王はラディウス様の前に進み出ると、その手を取った。
「ラディウス、この素晴らしき式典を貴方の隣で見届けられたこと、これ以上の喜びはない。」
「光栄でございます。」
「もっとラディウスと、ゆっくり語り合いたい。……よければ、貴方の好きなお茶でも飲みながら。」
「お誘いありがとうございます。ご予定が合えば、ぜひ。」
「……わかった。その時が来ることを楽しみにしている。」
そう言うや否や、レガトニア王はラディウス様の手の甲に軽く口づけた。瞬間、場の空気が揺らいだ。兵士たちも従者たちも息を呑み、思わず目を見張る。
ラディウス様はわずかに目を見開き、しかしすぐに落ち着きを取り戻して、静かに微笑んだ。
「では、また。」
「はい。」
そう言葉を交わし、ラディウス様はレガトニア王の背を見送られる。やがて私に視線を移し、軽く顎で戻る合図をなさった。私は慌てて頷き、その後に従う。
待たせていた馬車に乗り込み、会場から離れたのを見計らって――。
ラディウス様は、抑えていた感情を吐き出すように、深いため息をつかれた。
「お疲れ様でした。」
「…ありがとう。しかし、驚くことばかりだったね。」
「はい。」
「フィオリアが来たら、きっと興奮して質問攻めしてくるだろうね。」
「……そうだと思います。」
私は少し微笑みながら言葉を添えた。
「帰りましたら、甘いものと心安らぐハーブティーをご用意いたします。どうぞお疲れを癒してくださいませ。」
ラディウス様は一瞬きょとんとされ、それから柔らかく目を細めて微笑まれた。
「……ふふっ、ありがとう。楽しみにしているよ。」
馬車が離宮へと到着し、私はラディウス様をお部屋までお送りした。
その後すぐさまお茶と菓子の用意に取りかかる。
今日は特にお疲れの様子だったので、心を落ち着けるカモミールとレモンバームを合わせたハーブティーを選び、香りを引き立てるために少しだけ蜂蜜を添えた。甘味には、軽やかな口当たりのマドレーヌと、季節の果実を使った小さなタルトを用意する。
それから厨房に立ち寄り、料理長に「数日間、フィオリア様も離宮にご滞在なさる」と伝え、滞在中の料理の準備をお願いした。
「ラディウス様、お茶をお持ちいたしました。」
「ありがとう。」
湯気の立つカップを手に取られたラディウス様は、ひと口ふくむと、わずかに目を細められた。
「……いい香りだ。心が和らぐね。」
「本日はお疲れのご様子でしたので、蜂蜜を少し加えております。甘い菓子もございます。どうぞ、召し上がっておくつろぎくださいませ。」
「流石だね、リアン。助かるよ。」
ラディウス様の唇がやわらかな笑みを描く。その表情を目にしただけで、長い一日の疲れが少し報われたような気がした。




