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春に咲く花、愛よりも尊し。  作者: 639


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11/15

過ぎし主、今の主、御側にありて 10



 この日の朝も慌ただしく始まった。

夜明けとともに起き、ラディウス様の支度をメイドとともに始める。昨日の気疲れもあってか、寝起きが良くなかったラディウス様が目覚めのお茶を希望されたので、少し渋めに淹れてお出しする。


「ふふ、リアンの気遣いに心が休まるよ。」

「もったいないお言葉です。」

「そんな事ないよ。」


昨日とは違う、正装姿に身を包むラディウス様。

深い紺を基調とした衣は、肩口から胸元にかけて金糸の刺繍が施され、荘厳でありながらも優美さを湛えている。その姿は、朝の柔らかな光を浴びていっそう際立って見えた。

けれど私の目には、その背筋の伸びた立ち姿の奥に、昨夜から続くわずかな緊張がまだ宿っているのが分かる。今日一日が、どれほど人々の目に晒され、どれほどの意味を持つか――ラディウス様ご自身が一番よく分かっておられるのだろう。

私は背後に回り、肩口の金糸が乱れていないかを確かめる。わずかに震える指先を自分でも意外に思い、深く息を吸った。


「……お支度、整いました。」

「ありがとう、リアン。」


ラディウス様は鏡越しに、ほんの少しだけ微笑まれた。


コンコンとノック音が鳴る。


「確認してまいります。」

「うん。よろしくね。」


扉を開けると、昨日も訪れていたレガトニア国王付きの使者が立っていた。腕には、昨日とはまるで印象の異なる、白と淡い緑でまとめられた花束が抱えられている。その柔らかな色合いは、朝の光を受けてほのかに輝き、甘く澄んだ香りがふわりと漂った。


「昨日同様、ヴァレリウス陛下よりラディウス殿下への贈り物にございます。」

「……ありがとうございます。」


受け取った瞬間、手の中から微かな重みとともに甘やかな香りが広がる。

白い小花――ライラック。その花言葉が、私の頭をかすめた。

“出会えた喜び”。

昨日のカトレアが放っていた堂々たる輝きとは違い、今日の花束は、静かに、けれど確かに心の奥へ忍び込んでくるような温度を帯びている。だからこそ――胸がざわついた。

ラディウス様は花束を見て、ほんの少し微笑まれる。


「……優しい花だね。」


それ以上、何も語られない。

けれど私の中には、花の意味が引っかかったまま消えず、そのやわらかな香りがかえって不安を煽るように思えてならなかった。


「ラディウス様……」

「困ったことになったね、リアン。」

「アレクサンドル様にご相談なさいますか?」

「うーん……そうだね……」


困ったように、けれどどこか諦めを含んだ微笑を浮かべられるラディウス様。その横顔を見つめながらも、私の胸のざわつきはおさまらない。抱えている花束の香りが部屋に満ちていくのが、妙に落ち着かないのだ。


すると再び、コンコン、とノックの音が響く。

昨日からの一連の出来事があるせいで、思わず背筋が強張り、私もラディウス様も、わずかに警戒の色を浮かべてしまう。


「ラディ、入っていい?」


その呼び声を聞いた瞬間、緊張がほどけた。

ラディウス様をそう親しげに呼ぶ方は、私の知る限りお一人――フィオリア様だ。軽やかで、それでいて芯のある声が、朝の空気をやわらかく揺らした。


「フィオリア、いいよ。」


ラディウス様がそう返すと、正装に身を包んだフィオリア様が扉から顔を出す。


「おはよう。ラディ、リアン!…その花束どうしたの?誰かからの贈り物?」


フィオリア様の言葉に困った表情を浮かべて、ラディウス様は頷かれる。


「そんな反応をするってことは、もらった相手はあまり良くない方?」

「…レガトニア王国、ヴァレリウス陛下からだよ。」

「ええっ?!あのオメガ嫌いで有名な?なんで???」

「それがよくわからないんだ。昨日もお出迎えの後に花束を送ってきて、今朝もリアンが抱えている花束を…」


ラディウス様が言葉を選びながら説明される間も、フィオリア様は花束に視線を落とした。


「……この香り、ライラックだね。白なら“青春の喜び”、それに“出会えた喜び”もあったはず。」

「…そう、なの?」

「うん。しかも合間にあるスズランは“再び幸せが訪れる”、カスミソウは“感謝”。…偶然にしては、意味が揃いすぎているね。」


そして、昨日の花へ視線を移す。


「昨日はカトレアで“あなたは美しい”。今日は“出会いの喜び”。……ねぇラディ、これって求婚されているように思うんだけど…」


ラディウス様は小さく息を吐き、困ったように微笑まれる。私は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥でざわめきが広がっていくのを抑えられなかった。


「…フィオリアもそう感じたのか。」

「昨日の晩餐会はどうだったの?」

「…何かと話しかけてはくれていたよ。」

「そうなんだ。ね、リアン! リアンから見てどう感じた?」

「……そうですね。」


正直に答えるべきか、言葉を選ぶべきか、一瞬迷う。

昨夜、レガトニア王がラディウス様を見つめるあの眼差し――まるで獲物を定めた獣のような視線が、私の脳裏から離れなかった。


「……とても、強い関心をお持ちのように見えました。」

「やっぱり……!」


フィオリア様はラディウス様の隣に腰掛け、その手をそっと握る。


「もし、また明日、花束を贈ってきたら本気なんだと思う。それを踏まえて、一度、話をしてみたら?」

「そうするよ。フィオリア、また明日の朝も来てくれる?」

「うん、いいよ!今日から式典が終わるまで、王妃宮の隣にある別宮で家族みんな泊まらせていただいているから、支度ができたらすぐにここへ来るね!」

「うん。ありがとう。」


フィオリア様の明るい声に、部屋の空気が少しだけ和らいだ気がした。


「ね、即位式まで時間があるでしょう?…お腹が空いちゃったから、ここで食べてもいい?」

「ふふ、構わないよ。リアン、お願いできる?」

「かしこまりました。」


私はすぐに厨房へ向かい、手早く軽食の準備を整える。

果物を小皿に盛り、焼きたてのパンをいくつか籠に入れて、温かいスープを銀盆に載せて戻ると、ラディウス様とフィオリア様は並んで談笑していた。


「お待たせいたしました。」

「わあ、美味しそう!」フィオリア様が目を輝かせる。

「ありがとう、リアン。」ラディウス様はふっと柔らかく笑みを浮かべ、スープの香りを楽しむように目を細められた。


湯気の立つスープを一口含んだラディウス様の表情が、ほんの少し緩む。その穏やかな横顔に、先ほどまで胸にあった不安が一瞬だけ薄れた。けれど、花束の色と香り、そして昨日のレガトニア王の視線は、私の中でまだ鮮やかに残っている。


「リアンも座って、一緒に食べよう?」


フィオリア様がにこりと笑いかけてくる。


「いえ、私は控えております。」

「もう、遠慮しなくていいのに。ほら、あーん。」


差し出されたパンを渋々口にすると、フィオリア様は輝くほどの笑顔を向けられる。



「これから気疲れする式典に参加しなきゃいけないんだから、息を抜ける時に脱いとかなきゃ、疲れて倒れちゃうよ!ほら、リアン座って一緒に食べよう?」

「…はい。フィオリア様の強引なお気遣いにはいつも負けます。」

「ふふっ!でしょう?」


そんなやり取りにラディウス様が小さく笑う。あたたかな香りと笑い声が部屋に満ち、つかの間の安らぎが広がった。




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