それでも幻想は、ここにある。
「なあ、本当に合ってるのかよ……?」
魔理沙の声が、静かな森の中で静かに響く。
霊夢はその隣で、じっと前を見据えていた。
人里から遥かに離れたその山は、普段人が通ることなどまずない、細くうねったけもの道だった。
深い緑に囲まれ、時折聞こえる風の音と木々のざわめきが、うるさいほどの静寂を作り出していた。
「仕方ないわよ。記憶にある場所なんだから。」
霊夢の声は落ち着いている。
確信こそ持てなかった。
それでも、揺るがぬ意思がその言葉には込められていた。
慧音も前を歩きながら、静かに言葉を継いだ。
「書き換えられた記憶が正しいなら、この先に山小屋があるはず。」
三人は互いに顔を見合わせることなく、ただ黙々と足を進めた。
過去と現在の狭間にある場所へ向かっているという緊張感が、誰の胸にも重くのしかかっていた。
霊夢の心には、何とも言えない懐かしさが混ざった期待があった。
自分の霊力が消えた原因を知るため、そしてこの異変の真相に近づくためには、この山小屋で何か答えが待っている気がした。
やがて、木々の枝をかき分けたその先で、視界が開けてきた。
薄い霧がかかる中、霊夢たちの前にひっそりと古びた山小屋が姿を現した。
その小屋は、時間に忘れられたかのように静まり返り、朽ちかけていた。
苔むした屋根に積もった落ち葉が風に舞い、軋む木造の壁は色褪せている。
「……着いたみたいね。」
霊夢が呟く。
微かに微笑みを含んだ表情は、懐かしさと緊張の入り混じったものだった。
「……誰もいないみたいだな。」
魔理沙が周囲を見回しながら、警戒心を滲ませる。
辺りは静まり返り、動く気配はなかった。
「違う……。」
霊夢は首を横に振った。
胸の奥に、懐かしい気配が確かにあるのを感じていた。
「ここに……いる。」
その言葉を残し、霊夢はゆっくりと小屋へと近づいた。
かすかに揺れる空気、暖かな残像のようなものが彼女を包み込んでいた。
慧音はその背中を見つめながら、小声で呟いた。
「気をつけて……何が待っているかわからない。」
霊夢は一歩一歩、朽ちた木の階段を登りながら、過去の記憶と現在の自分が交差するのを感じていた。
――確かなものは何もない。
ただ、この山小屋にすべての答えがある。
彼女たちは、それぞれの思いを胸に秘めて、静かな山の中で決戦の時を迎えようとしていた。
霊夢がゆっくりと伸ばした手は、古びた木の扉に触れた。
ひんやりとした感触が指先を伝い、まるで時の流れを映し出すように感じられた。
「開けるわよ……。」
その声に呼応するかのように、魔理沙と慧音が息を呑んだ。
三人の間に緊張が走る。
扉を押し開けると、軋む音が静かな室内に響いた。
中は薄暗く、濁った空気が鼻をついた。
古い家具や壊れかけた棚が散らばり、蜘蛛の巣が部屋の隅に細く揺れている。
窓から差し込む光はわずかで、床に、机に、かすかに埃を映し出していた。
「誰もいない……?」
魔理沙の声は小さく、だが不安を含んでいた。
「違う……感じる。ここに、いる。」
霊夢はそう答えた。
胸の奥に懐かしい何かが触れるような感覚があり、それは間違いなく確かな存在の気配だった。
そのとき、部屋の奥からかすかな足音が聞こえた。
三人の視線が揃い、動きが止まる。
空気が一瞬にして変わった。
「やっと来たのね。」
柔らかくも冷たい響きを含んだ声が、薄暗い室内に響いた。
少女の姿が影の中からゆっくりと現れる。
細身で、白い肌を黒い髪が覆い、その目は深い湖のように静かに揺れていた。
その瞳が三人をじっと見据える。
「……結?」
慧音が囁くように呟いた。
「そう、私は結。」
少女はゆっくりと歩み寄り、その存在感が空気を震わせる。
動きはしなやかで無駄がなく、静かだが圧倒的な意思が漂っていた。
「どうしてここに現れたんだ?お前のせいで霊夢の霊力が消えたんだろう?」
魔理沙の声には怒りと疑念が混ざっていた。
「私は、あなたたちに真実を伝えなければならない。」
結の瞳が霊夢に向けられる。
そこには冷たい決意と、どこか深い哀しみが宿っていた。
「私は元々、こことは別の世界に住んでいた。ある日、突然ここに来たの。」
その言葉は静かに、しかし確かな重みを持って響いた。
「それって……外の世界のこと?」
霊夢が聞き返す。
「そうよ。外の世界には、底の知れない痛みや絶望があった。」
結は目を伏せて語る。
「幻想郷に来ると、人は自分の能力に気づく。私の能力は、崩壊を予見すること。」
その言葉に三人は息を呑んだ。
「私は、この世界の終わりを見た。幻想と現実の、矛盾。いつかその矛盾に押しつぶされて、この幻想郷は消える。」
「......っ!。」
霊夢は言葉を詰まらせた。
「外の世界で私は、途方もない絶望を味わった。でもこの世界は......私を見捨てなかった。だから、守りたかった。」
結の言葉は冷たくも切実だった。
彼女の瞳の奥にある絶望と覚悟が、三人の心に重くのしかかる。
「霊夢さんの霊力があるなら、信じる希望があるなら。きっとあなた達は、どんな異変でも"止めてしまう"。」
結は少し間を置いてから、続けた。
「きっと最後の異変まで、今の幻想郷を保ってしまう。だから、霊力を消したの。一度、幻想郷を世界と調和させるために。そのうえで、現実を受けいれた幻想を、作り直すために。」
霊夢はゆっくりと一歩踏み出し、結と真正面から向き合った。
「……あんたは、幻想郷を守りたかったって言ったわね。でも、それで人の想いを勝手に消していいはずがない。」
静かに、けれど感情の熱を帯びた声だった。
魔理沙が隣で拳を握りしめる。
「そうだよ……霊夢がどんな気持ちでずっと結界を張ってきたか、あんたは知らないだろ!」
慧音もまた言葉を継いだ。
「幻想郷を調和させる……それは、形だけの存続じゃないのか? 想いも記憶も、幻想という名のままに消してしまったら、それはただの空っぽだ。」
結は微かに瞳を伏せ、しかし言葉は揺るがなかった。
「……わたしは、誰よりも幻想を信じた。だからこそ、幻想が壊れる未来を、ただ見ていられなかったの。」
その目は、過去を見つめるように遠かった。
「幻想郷は、外の世界から逃れてきた者たちの理想だった。でも、その理想が集まれば集まるほど、現実とぶつかり、歪み、限界を迎える……。わたしの力は、その崩壊の兆しを見せたのよ。」
霊夢は静かに首を振る。
「あたしたちはみんな、それでも生きてた。歪んでても、無様でも、それが幻想郷だった。幻想を壊さないために、誰かが全部決めつけるなんて、それこそ……幻想じゃない。」
結の目がわずかに揺れる。
「……でも、このままじゃ、本当に……幻想郷は、終わるのよ……」
「だったら、終わらせればいい...!」
魔理沙が叫ぶように言った。
その声は怒りと哀しみに震えていた。
「終わりを恐れて全部塗り替えるぐらいなら、私は最後の一秒まで、今の幻想郷を信じてやる!」
霊夢もまた、その横顔を見て小さく息を吐く。
そして、結に視線を戻した。
「あたしたちは、記憶を失っても、忘れたくなかった。思い出が、力になる。悲しいことも、嬉しいことも、全部……失くしたくなかった。」
結の肩がかすかに揺れた。
「でも……わたしは……」
「結」
その名を呼んだのは慧音だった。
優しく、静かな声。
「幻想郷を守るために動いたあなたの気持ちは、間違いじゃない。けど、正しいかどうかは、あなただけじゃ決められない。」
沈黙が落ちる。
結は唇をかみ、何かを堪えるように目を伏せた。
「……わたしには、もう……どうすればいいのかわからない。」
「だったら、もう一度一緒に考えよう。全てを、治す方法を。」
霊夢の声は柔らかかった。
「幻想郷がどうなるべきか、どう生きるか、何を信じて進むか――今度は、あなただけじゃない。私たち全員で決めよう。」
結の目から、ぽつりと涙が落ちた。
それは静かに床を濡らし、ひとつの決壊のようだった。
それでも、まだ何も解決していない。
霊夢たちは立っていた。
この少女が選んだ痛みと哀しみの、その先へと進むために。




