第十三章 第三節
サイモンはローガンが同意したと思ったのか、それ以上恋愛話を続けることはしなかった。ローガンはというと、一応考えてはみたものの、やはりどうしても自分からシェイラに連絡して良いとは思えなかった。確かに、数か月もすれば彼女の方は冷めるだろう。けれどローガンの方は、シェイラと恋愛感情抜きの良い友達になる自信は到底なかったし、たとえそれが出来たとしても、若い男友達の存在が縁談に悪影響でないほど上流社会が寛容とも思えなかった。それに、彼女が他の男と結婚するのを間近で見ていなければならないというのは、自分にとっても厳しすぎる。
そう考えていくと、サイモンの助言は人の感情を無視していて恋愛を知らない人間が言いそうなものだと思えてきた。けれど、ローガンは人に話したというだけで気持ちが楽になったし、心配してくれたということには素直に感謝しようと思った。
サイモンとは、その後も友達付き合いが続いた。離れ山の祠に来る日時を伝えて会うこともあったし、メレノイ市内で一緒に食事をすることもあった。彼の話はだいたいが時事問題か、新刊本の感想か、話題の論文についてといったところで、ローガンとは趣味嗜好がかなり似通っている。彼が時々見せる、ずば抜けた知性と、魔術師の神秘的な一面と、そして子供のような笑顔が、ローガンを魅了した。
サイモンは月に一回ほどのペースで、シェイラの寄宿学校であるメレノイ郊外のセントルイザ校を訪問していた。シェイラに会いに行くわけではないと言うので、魔術師協同組合の仕事なのかと訊けば、祖母の代理人として用事がある、という答えだった。
サイモンの祖母は資産家で学園の理事をしている。彼が初めてフロックコートで現れた時には、若き紳士の出で立ちが板に付いていて、ローガンは酷く裏切られた気がしたものだった。高齢で遠方に住む祖母の代理人として、サイモンは学園を訪問し、そこでシェイラに会うと、後日その様子をローガンに教えてくれた。
サイモンから彼女の話を聞くときはいつも胸が熱くなった。ローガンは、学校主催の舞踏会があったらしいとか、試験勉強を頑張ったらしいとか、夏季休暇に同級生の実家に行ったらしいとか、ルームメイトと喧嘩をして落ち込んでいるらしい、といった話を聞いた。サイモンが「最近はセントルイザ校には行ってないよ」とか、「この間行ったけど、シェイラは見かけなかったよ」と言った時は、予想以上にがっかりした。そして、サイモンとシェイラが会った時に、自分の話が出ているのではないかと、いつも気になった。こちらがシェイラの様子をサイモンから聞くということは、向こうもまた、こちらの様子をサイモンから聞いていてもなんら不思議はない。ただ、このことについてサイモンに何か言うのは、彼を仲介にしてシェイラと連絡を取っていることになると思ったので、ローガンは訊きたいのを我慢していた。
けれど、結局耐えかねて、「私のことを何か言っていなかったですか?」と、尋ねた。
サイモンはそう訊かれるのを待ち構えていたように、「それと同じことを言っていたよ」と、返した。
ローガンは負けじと問い返した。
「それで、あなたはその質問に、どう答えているのですか?」
「ええと、『勉強に付いて行けているか心配していたよ』とかかな」
「他には私の様子を、シェイラに何か話しているのですか?」
「そうだなあ、『ローガンは君に恋焦がれて夜も眠れないらしいよ』とまでは言っていない」
サイモンのこの冗談は笑えなかった。嘘ではなくても、微妙な尾ひれを付けたり、勝手な解釈をさも真実のように伝えることは、いくらでもあり得ると思ったからだ。
「何も言うなとは言えませんけど、せめて事実だけを伝えてくださいね」
真剣な顔でそう言うと、サイモンは笑っていた。
こうして、サイモンからシェイラの消息を聞けたことが、どれほどローガンにとって救いになったか知れなかった。脳裏に思い描く彼女の姿が最後の泣き顔ではなく、友達と笑っている女学生の姿に自然と置き換わったころ、彼の心は平穏を取り戻すことが出来た。
十二月になり、ローガンは魔術師協同組合の慰労舞踏会に招かれていた。
招待してくれたサイモンとは、去年と同じセントロイスホテルの会場で会うことになっていた。少し遅れて到着すると、彼はすでに席を確保して一人でワインを楽しんでいた。服装自由の舞踏会で、サイモンは去年と同じセーター姿である。
ローガンはというと、今年は正装がないので神官服を着てきた。立襟で、裾がくるぶしまである黒い服だ。早速サイモンに声をかけて、隣の椅子に腰を下ろした。
「今年は一人なんですか? 他の魔術師の面々は?」
「やつらは踊ってるよ」
サイモンは顎でダンスが行われている方向を示した。大広間の中央あたりでは既に三十人くらいの男女がステップを踏んでいる。陽気で速いテンポの曲が演奏されて、踊る人たちはみな頬を紅潮させ、周囲からは手拍子や歓声が挙がっていた。
ローガンは、クリスたちの相手の女性を見てやろうとダンスの列に目を凝らした。先に見つけたのは長身のジェイクの方だった。小柄で可愛らしい感じの女性と踊っている。次にクリスを見つけた。お相手は背が高い黒髪の美女なのだが、それは知っている顔だった。
「クリスさんのパートナーは、バラノフ嬢なのでしょうか?」
ローガンは念のため確認しようとした。というのも、彼が知るメアリーは灰色とか茶色の服しか見たことがなかったのに、その女性は若々しいラベンダー色のイブニングドレスを着ていたので、印象が違って見えたのだ。
「そうだよ」
「驚きました」
「知らなかったんだ?」
サイモンは笑っている。ローガンは、特徴のない男なのに一体どんな手を使って口説いたのだろうかと思った。そして、弟子たちはあの通りなのに対して、お師匠様は一人で酒を飲んでいるのだなと思うと、心の中に意地の悪い笑いが浮かぶのだった。
その時サイモンが急に立ち上がったので、誰か来たのだと察してローガンも立った。サイモンの目線を追って横を向くと、そこに、シェイラが立っていた。
彼女は緊張した面持ちでドレスの裾を持ち上げ、小腰を屈めた。
「ハートさん、今宵はお招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、来ていただけて光栄です」
サイモンがお辞儀をしたので、ローガンも反射的にそれに倣ったものの、頭の中は何も考えることが出来なかった。胸元の開いた黄緑色のドレスに身を包んだシェイラは、相変わらず華奢だが以前よりは身体の線が丸みを帯びた気がした。茶色の髪を結い上げ、あらわになった首が心配なほどか細い。小さな宝石を連ねた首飾りが、首から胸の膨らみまでの白い肌の上で光っていた。
ローガンはただ動悸が高鳴るのを感じながら見つめることしか出来なかった。シェイラは深緑色の双眸を不安げに揺らして、何も言わずに彼を見上げている。
「二人とも座ったら? 僕は酒がなくなったから取ってくるね」
あっと思った時にはもう、サイモンはいなくなっていた。彼女を座らせなければという発想が浮かび、ローガンは隣の椅子を引いた。シェイラがふわりと掠めるように隣を通って、その椅子にゆっくりと腰を下ろした。自分も元の椅子に座ると、彼女の膨らんだドレスの裾が足に触りそうな近さだった。
ローガンは緊張のせいで頭が回らず、何を話せば良いのか全く分からなかった。ついには子供が人見知りをして恥ずかしがるように、下を向いてしまった。
「ナイトリー先生、わたしのこと、覚えていますか? シェイラです」
彼女もまた緊張しているのか、声が震えているようだった。
「もちろん、覚えていますよ」
ローガンは彼女を安心させようと、そう言って微笑んだ。ぎこちない笑みだったと思うが、シェイラはほっとしたように微笑みを返してくれた。
「良かった……。お元気でしたか? お仕事はお変わりないですか?」
「ええ、何も問題ありません。あなたはどうですか?」
「わたしも、なんとか頑張っています」
シェイラはすっかり安心したような顔で笑っていた。何を語るわけでなくても、それだけ言葉を交わせば十分だった。不思議なことに、ローガンもすっと気持ちが和らぎ、緊張が解けた反動のせいか、熱いものが込み上げた。
彼女が目の前にいる。
手を伸ばせば抱きしめられる距離に。
始めは少し大人びたような気がしたけれど、今は九か月前と何も変わっていないと感じる。会えなかった時間などなかったかのように、傍にいられる幸せが、いとも簡単に甦ったのだから。
そしてシェイラの嬉しそうな表情を見て、彼女も同じことを感じていると、ローガンは迷うことなく信じることが出来た。
シェイラは幸せそうな微笑みを満面に浮かべながら、話し始めた。
「ナイトリー先生、聞いてください。わたし、実は、前よりもずっとお金持ちになったのですよ」
ローガンは彼女の以前よりも貴婦人らしくなった身なりを見て、答えた。
「そのようですね。今日のドレスも、そのキラキラしている首飾りも、とても似合っていますよ」
「あら、これらは友達から借りたものです。そういうことではなくて、わたし、ギャザランド銀行に口座を持っているのですけど、そこにお金を貯めているのです」
「お金を貯めるって、どうやって? また内職でもする気ですか?」
「それも良いと思ったのですけど、勉強に支障が出てはいけないので、今はしていません。実は、あまり大きな声では言えないのですが、ライアン侍従長殿が支援してくださるお金を節約して貯めた、秘密のヘソクリみたいなものなのです。上流の方たちって金銭感覚が十倍くらい違うから、庶民の生活を貫けば、あっという間に貯められるのですよ!」
彼女が誇らしげに、はした金の作り方を教えてくれるのは初めてではなかった。ローガンは、シェイラが貧しい時のように未だに金銭の話をすることが、なんだか悲しかった。なぜ上流の生活を楽しまずにそんなことをしているのか、理解できなかった。
「そんなにお金を貯めて、何か買いたい物でもあるのですか?」
「いいえ、これは生活費です」
「生活費?」
「ええ。将来、もしライアン侍従長殿や国王陛下に反抗して勘当されることになっても、当面食べて行けるように、今から蓄えているのです」
シェイラは自分が何を言っているのか理解していないような、平然とした顔でそう言った。
「あなたは、なにを馬鹿なことを考えているのですか」
「馬鹿なことじゃありませんよ、わたしは真剣です。わたしが学校を卒業したら、もっとお金が貯まるようになります。わたし、一生懸命勉強して、卒業したら教師になるつもりです。求人広告を調べたのですけど、教師の給料って、けっこう良いのですよ。女工やメイドをやるより、ずっと儲かるんです!」
外見は完全に上流の令嬢になった彼女の、見た目と話す内容の落差に、ローガンは困惑した。
「まさか本気で働くつもりじゃあないでしょうね? あなたはそんなことしなくても……」
「だいたい、先生が考えた私の未来予想は、見通しが甘すぎると思うんですよね!」
シェイラは、ローガンの言葉を遮り、叫ぶように言った。彼女は続けた。
「そんなに都合よく素敵な結婚相手を紹介してもらえるものですか! お金持ちでも、物凄く性格が悪かったら、どうするんですか? 愛人がいっぱいいるとか、毎日暴力を振るうとか、むちゃくちゃ不潔とかだったら? そんな人でも、結婚しろって言うんですか?」
「それは……」
ローガンが口籠るのを見て、シェイラはさらに続けた。
「わたしは、そんな危ない橋は渡りたくないんです。だいたい、自分の未来は自分で考えますから……! それで、一生懸命勉強して、教師になることにしました。先生だって、いつか言ったじゃないですか。家族がいなくても、知識や学問が味方してくれるって」
「ああ、確かに、そんなようなことを言いましたね……」
ローガンが呻くように言うと、シェイラは勝ったとばかりに笑顔になった。
そしてまた、彼女は幸せで満ち足りた微笑を浮かべ、ローガンを見つめて、こう言った。
「だからもう……あなたはお金を理由に断ることは出来ません。私が卒業して、教師になって、もっとお金持ちになるまでに、他の理由を考えておいてくださいね……」
その優しさに満ちた瞳に見つめられて、ローガンは圧倒されていた。この女性には、まるで敵わないのかもしれない。家庭教師をしていた時には、彼女を危うげに思ったこともあったけれど、それは多分、母親を亡くした環境の変化に一時的に弱っていただけなのだ。この強さが、本来の彼女の姿なのだろう。
「シェイラ……あなたは凄い人だ。わたしは自分が恥ずかしい。わたしはこの九か月間、あなたのことを諦めようと努力するばかりで、問題を解決する努力をしようとしなかった。本当はそうするべきだったのに、怖くて出来なかったんだ」
すると、シェイラの眼の下端に赤みがさし、涙が滲んだ。
「今からでも、間に合うだろうか?」
その眼から涙がこぼれた瞬間を最後に、彼女は立ち上がった。か細い腕が、彼の頭と肩に回された。ローガンは抱きしめられていた。
「もちろんよ……」
頭の上から涙交じりの声が聞こえる。彼女は震えていた。ローガンはその背に両腕を回して、しっかりと抱きしめた。やがて震えは消えて、彼女は安心したように深い呼吸を始めた。彼はその背を愛撫した。彼女もまた、抱きしめた頭に頬を擦り付けて、彼の頬や肩を撫でていた。お互いの温もりに心をあずけて、二人は満たされるまでそうして抱き合った。
終わりです。
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それでは、読者の皆様に重ねて御礼申し上げます。
みなさまどうぞお元気で。
(唯村 岬)




