第十六話 誘い。
翌朝。オルデン子爵邸の客間で就寝中の教授は、使用人から来客を告げられた。
「……さすが、王都ともなるとマナーが行き届いておるの」
軽く愚痴ると、教授は寝巻きからいつもの白いカッターシャツとスラックスに着替えた。
例の「精霊」の加護もあるが、教授は元々寝起きの機嫌は良い。血の気が余っているのだろう。
「して、客人とはどなたかな?」
教授に来客を知らせた使用人は、困惑ぎみな表情を浮かべていた。
「宮廷からの御使者です。大臣様がいま一度、教授のお話を伺いたいと」
「ほほう」
昨日の様子からするとハーツェル大臣は提言の内容に納得していたようだったが……別件だろうか。軽く頭を振ると、教授は使用人に告げた。
「まぁ、とりあえず御使者にお会いするとしますかの」
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歳の頃は十九か二十。早朝だと言うのに凛とした表情に眠気は見えず、視線からは強い意志が感じ取れた。身長は教授より低いくらいだが、姿勢が良いからか、実際よりも高く見えた。
長剣を腰に下げているところからすると騎士のようだが、王都内だからか甲冑は身に着けておらず、鎧下に着る厚手な皮製のジャケットと乗馬用の腿が膨らんだズボンに、上から外套を羽織ったといういでたちであった。
「朝早くに失礼致します。ハーツェル大臣様の使者として参りました」
教授の前に立つ騎士、つまり赤毛を短く刈った少女は、そう言って腰を折った。
朝っぱらの訪問者に一言言ってやろうと思っていた教授は、女騎士を目の前にして気勢を削がれた。二、三度口をぱくぱくと動かすと、まぁいいわいと応接間のソファに腰掛けた。
「お掛けなされ。まぁわしの持ち物ではないがの」
軽い冗談にも相好を崩さず、一礼して少女はソファに腰を下ろした。ジャケットの内懐から一通の書状を取り出し、教授へと差し出した。
「こちらがハーツェル大臣様からの書状となります。また、ご返答を頂いてくるようにと命を受けております」
ふむ、と鼻を鳴らした教授は封書の表書きをちらりと見た後、裏返して封蝋を確認した。赤い蝋で施された封には印が押されているが……何の、誰の印なのかがわからない。
(あとでリンデルにでも聞いてみるかの……子爵の方が詳しいかの)
ペーパーナイフがないため、教授はポケットからキーホルダーを取り出し、ついている鍵を使って器用に封書を開け、中の書状を取り出した。
大げさなわりに、中に入っていたのは一枚の紙だけだった。
「本日午後に再び話を伺いたし、か。何の話じゃろうか……」
教授はちらりと少女騎士の顔を伺うが、彼女はじっと座ったまま、眉一つ動かさない。内容を聞かされていないし、論ずる立場でもないということなのだろう。
「あいわかった。先方には喜んでお伺いするとお伝えくだされ」
誰であれ、講義を受けたいという相手に否と言わないのが鷲塚教授である。
その快諾の言葉を聞き、少女は重々しく頷いた。
「承りました。確かにお伝え致します」
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「これは盾紋ですね。中が4分割、右下の水瓶……ハーツェル家の紋だと思いますよ」
朝食後。早朝の来客について詳しい話を聞きたくてそわそわしている子爵を捕まえて封書の紋を聞いた答えがそれであった。どうやら、こちらの世界にも紋章学はあるらしい。
ちなみにオルデン家の紋は「羊にまたがった騎士」であるらしい。洒落が効いている。
子爵と話してみて分かったが、やはり頭の回転は悪くないらしい。ただ人の良さがそれを打ち消しているところがある。それと、人情の機微についての疎さだろう。
教授は談話室で食後の茶(これはちゃんとした茶葉から出したものらしい)の杯を傾けつつ、子爵に言った。
「これは余計なお世話かも知れんから聞き流してもらってもよいがの……」
オルデンの街での子爵の評判の悪さである。
最初聞いた時は単に子爵が領地の経営を放り出しているのかと思ったが、実際に話を聞くと交易で領民用の穀物を手配したり、きちんと領地を切り盛りしている事が分かる。
では何故、評判が悪いのか。
「顔を見せないからじゃろ」
電話で済む内容の話でも、実際に顔を見て話さないと納得できない、というのは良く聞く話だ。
自分達の生活を支えているのが子爵による交易の結果だ、というのが領民達に「見えて」いないから、子爵は領地に帰らず王都で何をしているのか、きっと遊び呆けているに違いないという不満が溜まるのだろう。
年に数度領地に帰り、経営に専念しているというポーズを取るだけでも、住民は納得するだろう。贅沢をしているわけではないし、子爵の人となりも朗らかで、人当たりはいい。
そのあたりのことが城の使用人からでも領民に伝われば、不満は解消するし評判も良くなるだろう……ついでに、愛娘が働いている現場も見られて一石二鳥。
「最後が、実に惹かれますな!」
子爵は笑ったが、少々苦い笑みだった。
「どうもあの子には嫌われてましてね。せっかく師範校を良い成績で出たというのに、うちの領地の経営に専念したいなどと……引く手数多だったんですが」
教授は首を振った。やはり、人情の機微に疎い。
「嫌ってはおらんよ。嫌っていたら父の領地へ赴任するのではなく、よその土地へ行くじゃろ。
子爵、あんたの……父の手助けをするためにわざわざ辺鄙な領地へ赴任したんじゃぞ?
ただ、あまりべたべたした関係が好きではないから、距離を置いたんだろうがね」
ああ、と声を発した子爵は片手で顔を覆い、ソファに泣き崩れた。
教授は飲み干した杯をテーブルに置くと、そっと談話室から出ようとした。台所へ向かい、どんな茶葉を使っているのか確認しなければならないからだ。
「教授……あなたは恩人です。私の、色々なものを救ってくれる」
部屋を出かけた教授の背に、子爵の声が掛かった。教授はいつもの、見る人によっては邪悪に感じるだろう笑みを浮かべ……何も言わずに扉を閉めた。
その後。事情を知ったアミアが余計な事をバラした教授に説教するのだが、それは別の話。