独裁官スッラ
ガイウス・ユリウス・カエサル
英名、ジュリアス・シーザーとして有名な紀元前のローマの英雄の軌跡を辿る。
父を失い家長となり、結婚を経た2年。18歳のカエサルが、時の最高権力者コルネリウス・スッラに呼ばれるところから始まる。
歴史のある名門貴族だが、権力も財力もぱっとしない一族に生まれた思春期の
人好きのする少年の物語。
明るく広い執務室には長身で痩せ身、しかし身体は引き締まった鍛え抜かれた肉体を連想させる男が一人瞑想にふけっていた。
同じ部屋にいる従者たちは、その瞑想を壊さないように緊張感を漂わせながら動かずに主人の次の行動を待っていた。
来客を伝えるノックの音が部屋に響く。
瘦身の男の瞑想はそこで途切れた。
その目には鋭さと冷たさが宿っていた。
そばにいた従者が確認をし、来客が来られた、と男の耳に聞こえるように伝える。
鋭い灰色の瞳と彫刻でできたような美しい顔立ちの長身の優男は、少し長くなった髪をかぎあげながら顔をあげると、「通せ」とだけ言った。
入ってきたのは、神官服を着た初老の女性が一人だった。
長身の優男は、鋭い瞳を讃えて、笑顔をつくりながら、女性に話しかける。
「ウェスタ神殿の巫女の長様、ようこそいしゃっらいました。」
巫女の長と呼ばれた初老の女性は、頭を下げてから、顔をあげる。
そして、回りにをさっとみただけで、正面の長身の優男の灰色の瞳を見ながら言った。
「スッラ様、スッラ様の想いを受けたコルネリウス組の活躍で、私どもローマ市民も野蛮な人たちを避けて、落ち着いた生活をとりもどすことができました。ありがとうございます。」
スッラと呼ばれた瘦身のは、うなずきながら答えた。
「ローマ市民の安全を守ることこそが我が使命ですから、その使命を果たすことであなたに感謝を頂くことは、誇らしいことです。コルネリウス組が活躍していることもうれしい報告ですね。市民が少し前のようにおびえながらすごすことがないようにしたいです。それで・・・」
と続けた。
「今日は、お礼のみを言いに来られたのでしょうか?」
初老の女性は、頭を再び頭を下げて言った。
「いいえ、スッラ様にかかれば私の心などすべてお見通しなのでしょうね。今日は、お願いがあってまいりました。」
スッラは笑顔を続けながら言った。
「私にできることとできないことがありますが、巫女様のお願いを伺わせてください。」
初老の巫女の長は、再び頭を下げて行った。
「ありがとうございます。私からのお願いはひとつです。少年のときにウェスタ神殿の少年神官になっていたカエサルはまだ18歳になったばかりであり、家長としての役割もあります。政治的な活動もまったくしておりません。
どうか、コルネリウス組のリストから削除いただき、死罪から免除を賜りたいと思います。」
スッラの顔が、真っ白になり、今までの微笑が凍り付くのが感じられた。じっと巫女の長を見ながら、自然を振る舞いながら口を開く。
「カエサルというのは、ガイウス・ユリウス・カエサルでしょうか。」
その言葉づかいにも厳しさが加わっていた。
それでも、初老の巫女の長は、ひるむことなく勇気を振り
絞って続ける。
「はい、同名の父とアウレリウス・コッタの娘の子、ガイウス・ユリウス・カエサルです。」
スッラは、椅子に座ったまま、巫女を見ていった。
「ガイウス・ユリウス・カエサルは、先の年、市民を無秩序に殺戮したマリウスに連なる者だと思っていましたが、いかがでしょうか?」
巫女の長は頭を下げて、静かに返答する。
「はい、おっしゃられるとおりです。ただマリウスの直系ではなくガイウスが小さかったときにおばがマリウスと婚姻関係にあったためで、彼自身の思想にマリウスに連なるものはありません。」
少し熱を込めて、自分の気持ちを伝えようとした。
「また、ローマ開闢のころよりある名門であるカエサル家ですが、前任の法務官でありました父をなくし通例よりも早い16歳でガイウスが家長になってなんとか頑張っている次第です。政治的な活動をするような力もなく今までを過ごしている卑小の身ですので、なにとぞ、スッラ様の寛大な措置を賜りたく思います。」
スッラは、なるほど、とうなずきながら、巫女の長に問いかける。
「巫女様のお気持ちはわかりました。同じような助命の依頼の話は、他にもたくさんあります。私もなんとかしてあげたいという想いもありますが、彼だけを特別扱いする、というのは、いかがなものでしょうか?」
巫女の長は、
「おっしゃるとおりでございます。ただ、私は少年神官の頃から彼を存じ上げていますが、家族思いで特に女性に優しくあろうとしているかわいらしい少年です。彼が誰かを一方的に傷つけるようなことはありません。なにとぞ、スッラ様に寛大な処置にとどめていただきとうございます。」
スッラは、巫女の長を見ながら思った。
非常に感情的になっている部分も多く、理屈では難しいところもある。そんなことを感じながらスッラは、左手で椅子を何度かなでて自分なりに考えるしぐさをした。
それから頭をあげ、
「巫女様の優しさが、私にも感じられました。その優しき心に対応できるようにもう少し熟考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」
巫女の長は、まずい、と思った。
もし、スッラが熟考をする、と言って実際には何も動かなければ、コルネリウス組によって、カエサルは排除される危険性があったからだ。
しかし、自分は、熟考、以上を求めることができない。権力者であるスッラがそういった以上は、何もしようがない。
鎮痛な面持ちで、「はい、なにとぞ、何卒よろしくお願いいたします。」
ただ、ひたすらお願いを伝え続けることしかできなかった。
そこへ扉が再び開いた。スッラは開いた扉に目線をうつす。
今、すでに客がいるなかで新しい客を入れるというのは、独裁官であるスッラの侍従としてはどうか?
それとも開けざるを得ない人が来たのか、素早く頭を巡らせる。そこに入ってきたのは、白髪まじりで背も曲がってきている老人だった。
「独裁官、スッラ様、ただいま、エスタ神殿の巫女の長様がガイウスの助命の依頼をしていると伺ったので、失礼ですが、私も少しお願いをさせていただきたいとおもい、失礼を承知で伺いました。」
スッラの前までよぼよぼと歩いてきて、改めて頭を下げる。
それからまがった背中を伸ばせるだけ伸ばして、堂々した意見を述べた。
「スッラ様、なにとぞ、私の娘の一人だけの男子であるガイウスを救っていただきたい。でなければ、私と娘は気が狂ってしまいかねません。」
スッラは、よぼよぼした老人をにらみつける。
マルクス・アウレリウス・コッタという元老院でも一定の支持を受けている法学者として、ローマの秩序に貢献してきた老人は、静かに自分を見ている。
スッラはため息をついた。
巫女長の前にも何人かの元老院の者や神殿の関係者がカエサルの助命嘆願をしてきていたのだ。
そして今、スッラの目には、さらにコッタが追い打ちをかけようと口を開こうとしたのが見えた。コッタのことだ。他にもスッラを説得する切り札があるのかもしれない。
コッタと水掛け論をするのは面倒である。ローマの法をもとにした細部での議論は避けたいという気持ちが芽生える。
明晰な頭脳は損得を素早く計算していた。
元老院の体制を強化し、古き良き強いローマの共和制をつくりあげたいと思っているスッラは独裁官になり、なんでもできる。だが、元老院のなかでも腐敗していないで力を持ったコッタのような人材は大切にしたい。マルクスの息子で同じ名前を持つコッタも必ずや助命嘆願に回るのが目に見えている。人材を無駄にしないためにも、多くの人からも尊敬されている老人の敵をいたずらに増やすことは避けるべきだと考えた。
スッラは静かに口を開いた。そして、二人に対して
「わかった。少なくとも、今の時点では許そう。ただ、一度その少年にあって本人の意思を聞いてみたい。巫女長様とアウレリウスどのが言うガイウス・ユリウス・カエサルは、マリウスの意思を受け継ぐ反逆者では本当にないのか、または、ルキウスのように元老院の議員として今後活躍をしたいと願っているのか。」
3人の間でしばしの間が訪れた。
そして、少しの沈黙のあと、
「ありがとうございます。スッラ様」
巫女の長は声を出して感謝をささげた。
コッタも、スッラに感謝の意を伝えて、スッラの手を握り親愛の情を示した。コッタと巫女の長は、互いの意見が通ったことに安堵しながら、スッラに感謝の意を改めて伝え、礼儀正しくスッラの執務室を出て行った。
扉がしまり、ほっとしたコッタは、自分が年をとってしまったことを嘆く。
もっと若く、もっと力があれば、さまざまなスッラにここまでのことをさせなくてもよかったのだ、と嘆息する。しかし、コッタと巫女の長は、自分たちができるおぜん立てはここまでだともわかっている。あとは、カエサルが自分自身の経験を積むしかない状態になったことは確かだった。
「誰か、今話題の若者、ガイウス・ユリウス・カエサルをこの場に連れてきてくれ。なるべく早く、だ」
スッラの意思は決まった。
少なくとも今この時点では死のリストからカエサルを削除するように指示した。
「死のリスト」とはスッラが作成を指示したリストで、スッラに敵対する民衆派の関係者を捕まえるまたは殺害するために名前を記載したリストのことである。
この時点でスッラは若者の真意などどちらでもよいと考えていた。コッタ老でも言い返せない反逆の意思につながる言葉をカエサルが言えば、叛意ありとして再びリストに加えればよい。カエサル自身の言葉の選択で本人の生死がわかれることになってしまえば、二人の老人がスッラに意見を挟むことはできないはずだ。
18歳の若者がどこまでこのコルネリウス・スッラと言葉での戦いで負けずにいられるか、それは楽しみかもしれない。
そう思ってほくそ笑んだ。
スッラの侍従は、部下に声をかけて、至急ローマの下町、スブッラに住むガイウス・ユリウス・カエサル」をスッラのいるところまで招待するように声をかける。
従者は急いで公邸を出ていく。スッラのいる公邸から下町まではそんなに大した距離ではない。侍従たちは、厳しいが理路整然とした主人スッラを敬愛してもいた。
そのため、主人を悩ませた話題の若者を素早く捕まえ、主人の前に持っていこうと考えていた。
独裁官スッラの前に連れて来られたカエサルは、ローマの権力の頂点にいる独裁官スッラの問いに正しく答えることはできるだろうか。
言葉の選択を間違えることは、すぐに死につながる。