後編『遊戯としてのゲーム』
前編では想像の余地について述べました。後編では私がレトロゲームに惹き付けられるもうひとつの要素である『遊戯としてのゲーム』について触れたいと思います。
最新のゲームをプレイして、たまに「このゲーム盛り込みすぎだな」と思うことがあります。
ボリュームがあることに不満を漏らしているわけではありません。やり込み好きな私としても、すぐにクリアできるよりは長く遊べる方が好感を持てます。
ですが意図的にプレイ時間を引き伸ばすためのコレクション要素の濫用や、奇をてらって戦闘システムを複雑にしすぎた結果、結局は火力でボコるだけで戦略性が意味をなさないゲームも散見されます。
そして演出や映像美にこだわるあまり、テンポを損なって逆にストレスとなる作品もあります。
ゲームの進歩によりユーザーの目も肥え、映像、音楽、ストーリーなど、あらゆる面で高いレベルが要求されるようになりました。その影響でいわば「実写映画のようだ」と形容されるゲームが登場しました。特に大作はユーザーからの期待値も高く、一分の隙も無い作り込みがほとんど義務化されています。
ですがそういった細部へのこだわりは、時として肝心のゲーム性がおざなりになってしまう事態を引き起こします。ゲームはゲームであって、決して映画を見たいのではありません。
一方のレトロゲームはどうでしょう。最新のゲームとはグラフィックもSEも比べ物にならないほどショボいです。現在なら個人制作でももっとクオリティの高いゲームが作れます。
ですがこのレトロゲーム、特に名作と語り継がれる作品には、決まって共通点があります。それこそが『作品のセールスポイント』なのです。
当時のゲームは先例も無く、作り手も手探りで何が売れるのかさえもよくわかっていませんでした。それはユーザーも同じで、後にクソゲーとボロクソに評価される作品でも、広告のおかげで意外と良好な売り上げを記録することもありました。
そんな状況ですので今なら発売を躊躇うような奇抜なアイデアも多く作られました。占いや超能力開発、電子手帳ソフトなどおよそゲームとは呼べない代物も登場しました。
ですが前編でも述べたように当時はソフトの容量が少なく、製作者のアイデアを全て組み込むことはできませんでした。必然的にゲームの肝となる要素を残し、そうでないものは泣く泣く削らざるを得なかったのです。ゲーム一本に詰め込めるアイデアはほんの少しだけです。
それがかえってゲームの個性を際立たせています。独自ルールのパズルアクション、高難度の横スクロールアクション、牧歌的な世界のアドベンチャー。当時のゲームはその特徴を一言で表すのが簡単です。
画面の敵を避けながらステージ中のコインを集める。ストーリーなど無くともこれだけでゲームとして成立します。ひとつのエッセンスを残すことでその面白さが雑味無く味わえるのです。料理で例えるなら素材そのままの味、とでも言いましょうか。
単純ゆえの面白さ、制限があるゆえの面白さも起因します。大容量を謳う作品に、カスタマイズ要素が多すぎて、序盤から自由度が高すぎて面食らった経験のある方も多いでしょう。レトロゲームならばこちらが変更出きる要素や試せる方法もたかが知れているので、攻略に失敗しても再挑戦の敷居は低いものです。
またゲームを遊戯として際立たせる原因に、レトロゲームは記号の集合体であることも関わっているでしょう。これは前編で述べたこととも重複します。
ゲームってよく考えてみればおかしいことの集合体なのです。ブロックが空中に浮いていて、それを叩けばアイテムが出てくるなんて普通あり得ませんよね?
RPGでも敵は自分のターンが来るまで、プレイヤーがコマンドを選ぶのを律儀に待ってくれます。現実ならさっさと襲いかかってくるはずです。
それでも許せてしまうのは、ゲームをルールに従った遊戯であると認識しているためです。本質的には将棋やトランプと同じです。
ですが映像が発達して現実に近づけば、単なる遊戯の枠を飛び出し、映画としての面白さも兼ねた複合的なコンテンツとしてとらえられるでしょう。
そうなるとステージ構成などのギミックを配置した際、アイテムが空中に浮いていたり、無理すれば通れそうな道を主人公が「これは通れない」と言うのを見れば強烈な違和感を抱えるでしょう。
レトロゲームは極端な話、マップチップなど記号の寄せ集めと言えます。つまり将棋のコマと同じで、絵としてでなく意味をもったシグナルとしての側面が強調されます。
記号の集合体なのでよく考えればおかしい構成でもそう違和感は感じません。町を歩く住民の数に対して明らかに家屋が少なくても、突っ込みを入れようとは思いませんよね。
このおかげでアクションゲームではギミックを重視した構成が可能となり、リアル志向重視ゆえに発生するテンポの悪さや表現の束縛といった弊害からは無縁の自由を得ます。
また、記号の組み合わせのため次々とステージや町のマップを量産しやすいといった側面もあります。完全3Dのステージは制作に時間も費用もかかるため大量に作るには大変です。昔のRPGと比べて近年の作品は町の数などが減っているのは、こういった背景も影響しているでしょう。
かつてゲームは今以上にこどもの玩具の一種という風潮が強く、リアルさよりも遊具としての面白さが大切にされていました。そしてその面白さを存分に発揮できた作品が後の時代にまで名作として語り継がれていったことは想像に難くありません。
以上がレトロゲームを遊びながらふと思った私なりの所感です。いや、お前の言うことは間違っている、今だってゲーム性の高い作品はあるぞ、と思う読者もたくさんおられると思います。
ですが実際に最近流行りのスマホゲームは、スペックの側面から映像の美しさは専用機と比べると見劣りしますが、パズルのようなアイデアを組み込むことで高い人気を得ています。
遊戯としてのゲームが今でも求められていることは普遍的な事実でしょう。
もっと書きたいこともありますが、そうなると余計に収拾のつかない事態になるため、このエッセイはこのあたりでおしまいとさせていただきます。
レゲーオタの戯言にお付き合いくださり、ありがとうございました。