ナレーター、前世を思う夜
フィアが工房に帰った夜、秀は長い間、静かにしていた。
「もう一つの目」も、近くで静かにしていた。
フィアの物語が一区切りついた。終わりではない。でも、長い間引っかかっていたものが解けた夜だ。
二つの視点が並んで、ラメールの夜を見ていた。
秀はふと、前世のことを考えた。
こういう夜は、時々前世が呼び起こされる。
武道館の夜のことを、今でも覚えている。階段から落ちる前の、ファンたちの顔。叫ぶ声。駆け寄るスタッフの手。何も感じなくなる前の、一瞬の、妙な静けさ。
あの静けさの中で、秀は何を思っていたのか。
怖かったか。後悔があったか。
今になって思うのは、不思議と後悔がなかったということだ。
二十二歳で死ぬのは早い。それはわかる。でもやりたかったことをやっていた。一緒にいたかった人間と、一緒にいた。届けたかったものを、届けていた。
ステージに立つたびに、全力だった。手を抜いたことは一度もなかった。
そういう人生だったから、白い部屋でパニックにならなかったのかもしれない。
(メンバーたちは今頃どうしているだろう)
この問いは、テアトルムに来てからずっと繰り返している。答えは出ないが、繰り返す。
零は、翔は、蓮は、湊は。
(お前たちは、大丈夫だろうな)
声は届かない。テアトルムから日本へ、声を届ける方法など存在しない。
でも思うことはできる。
(俺はここで、元気にやっている。元気、というのも変な話だが)
体がないから病気にもならない。腹も減らない。疲れもしない。
でも確かに、何かが充実している感覚がある。毎日、誰かの人生を見ている。驚いたり、喜んだり、もどかしくなったり、感動したりしている。
それは生きている、と呼んでいいものに近い。
「もう一つの目」の気配が、少し動いた。
秀の物思いに気づいたのか、気遣うような揺れだった。
(お前も、前世を思うことがあるか)
返ってきたのは、静かな肯定だった。
(そうか。俺たちは同じだな)
知らない誰かと、知らない前世を持つ誰かと、同じ夜の下にいる。
それがどれほど奇妙で、どれほど温かいことか。
ラメールの灯りが、一つひとつ消えていった。
レインが眠り、フィアが眠り、サラが旅先で眠り、ガルドが王都で眠り、エイルが眠り、コルが眠った。
ナレーターは眠らない。
二つの視点が、静かにテアトルムの夜を守り続けた。
二人の観客が、この世界を愛していた。




