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冷えたベッドであたためあって

冷えたベッドであたためあって


『快楽の果て ~そこにいるのは人か? 獣か?~』――婚約を間近に控えたゆかりは、夫となる男と幸せな毎日を送っていた。そこでの営みは愛に溢れ、ゆかりの心は満たされてゆく。だが、その幸せにひとりの男の影が。

その謎の男は巧みにゆかりに近付き、彼女を襲う。恐怖を感じるゆかりだったが、それと同時に、以前までの満たされた営みとは違う乱暴な行為に、気付かぬうちに快楽を覚えたのだった。人の温もりを与えてくれる婚約者と、獣のように扱う謎の男。ふたりの男の間で揺れ動くゆかり――

「――彼女が選ぶのは、人の道か、獣の道か……監督、竹中賢治」

 その名を見つけたときに、僕は『やっぱり』と心の奥で手を叩いた。きっとこの小説のようなストーリーも、竹中さんが考えたのだろう。彼の言葉を借りるならば、〝文学的〟だ。

 僕が演じるのは、ゆかりの婚約者の方だ。謎の男を演じるBLACK向井さんとは対照的に、温もりのある演技が要求される。

 最近分かってきたことなのだが、どうやら僕はそっちの方が合っている気がする。ハードプレイはやはり心が痛むし、そうなってくると演技にも支障を来してしまう(BLACK向井さんに人の心がない、というわけでは断じてない)。女優さんと意思を通わせながらやる方が頭の固い僕には向いているし、あらゆる修業をこなしてきた中でソフトボイスとソフトタッチの評価がいちばん高いというデータもある。

 ゆかり役は、言うまでもないが愛染ゆかりだ。あの守矢さんも所属しているセクシー女優を集めたユニットに泉川さんと共に二期生として新規加入が決まっている、今売り出し中の新人女優だ。清純派から痴女役、果てはくノ一までこなす演技力が高く評価されている。今回の二面性のある難しい役も、彼女なら上手に演じてくれるだろう。偉そうにそんなことを考えていたが、内心では久々の彼女との再会に緊張が止まらなかった。

 心を落ち着かせる為、控え室を出て現場を覗いてみた。様々な家具や小道具が運び込まれ、生活感のあるセットが出来上がっていた。

 その光景を目に焼き付けた僕は目を閉じ、妄想に耽った。愛染さんが僕の恋人、そして婚約者であるという妄想。イメージトレーニングと言った方が良いだろうか。ベッドにそっと彼女を誘い、引きつけ合うように口づけを交わし、視線を感じながらゆっくりと服を脱がしてゆく――。

「久しぶり!」

 竹中さんだ。肩を叩かれ、妄想は中断された。

「お久しぶりです」

 僕は竹中さんを真正面から見つめる。

「念願だな」

「竹中さんこそ」

 竹中さんの目はやる気に満ちていた。きっと僕も同じ目をしていることだろう。

 竹中さんとの再会も久々だったが、言葉は少なかった。二三言交わした後に竹中さんは現場に戻り、スタッフに指示を与える。僕もそれを見た後、控え室に戻った。緊張がほぐれたというか、その目を見て覚悟が決まった気がした。衣装に着替え、いつでも撮影に入れるよう、体のコンディションも整えた。今日は二度、彼女と仕事をする。ペース配分にも十分気をつけないといけない。

「達男さん、準備お願いします」

 スタッフにそう言われ、僕は再び現場に向かう。台本は覚えていたが、改めて大まかに説明を受ける。明日単身赴任で家を離れる僕は、しばらく会えなくなるゆかりと後悔が生まれないよう、長く、濃密な営みを行う。ソフトボイス・タッチだけでなく、場面によっては四十八手の技を使うこともあるだろう。ヨガと総合格闘技の経験を活かす時だ。

さっきの妄想と、修業の記憶を交互に頭に思い描きながら、徐々に本番への意識を高めていった。

「愛染ゆかりさん、入られます」

 僕をここにいざなったスタッフが、セット全体に響き渡る声で叫んだ。

 直後、現場に響き渡る足音。パタパタというスリッパの音は、僕が履いているのと同じものだ。さっきのスタッフの声はきっと開戦の合図だったんだと、僕は思った。

 大丈夫――そう自分に語りかけながら、もう一度イメージを膨らませてゆく。



 ベッドルームにて。部屋着に着替える婚約者と、それを手伝うゆかり。

「明日、行っちゃうのね」

「……ああ」

「今度はどれくらいで帰ってくるの?」

「一週間もあれば帰ってくるよ」

「そうだけど……(心の声『一週間も離れ離れなんて、耐えられない!』)」

「ゆかりは心配性だな」

「(心の声『そうじゃなくてわたしが――』)えっ?」

 無言で抱き寄せられるゆかり。

「何? どうしたの?」

「だめかな?」

 耳元で囁かれるゆかり。思わず体を預ける。

「一週間分の……ちょうだい?」

 ふたりはゆっくりとベッドに向かい、体を重ねてゆく――。



 肌、唇、時折漏れる吐息。思い出されるその全てに、僕は興奮した。白い肌を撫でたあの感触は、撮影を終えた今でもこの手の中にある。

「お疲れ様。いい仕事してくれたねー」

 と竹中さんからお褒めの言葉を頂いた。僕はその言葉を、真っ直ぐ受け取った。

今日の僕は、待ち焦がれていた女性を抱き興奮している中でも、キチンと自己を保てていた。あくまで仕事として、彼女の白く美しい肌を、艶やかな唇を、セクシーな息づかいを心ゆくままに堪能した。世の、彼女の新作を求める全国の男性のためにだ。

 彼女もまた、自らの魅力を存分に活かしたプレイを見せてくれた。ヨガと総合格闘技からヒントを得た僕の動きにも、愛染さんは柔軟に対応してみせ、決して広くないベッドの上で存分に絡み合った。

 この時期になると、日が傾き出す頃には肌寒さを感じる。二度の本番を終えた僕は、控え室ではなく、屋外で冷たい風に吹かれていた。もたれかかる自動販売機は、時折音声を発し、横に並ぶゴミ箱は、風でガタガタ音を立てていた。

 だが僕はそんな雑音は耳に入っていなかった。ただ黙々と、考え事をしていた。彼女のことだ。

 ベッドの上で絡み合った僕ら――相性は決して悪くはなかった。ソフトボイスにも四十八手にも、彼女の体は激しく感じていた。その姿に僕の体も正直に反応した。体位を変える際もスムーズだったし、むしろ相性はいい方といっても良い。

 だが、体は正直な一方で、頭のほんの片隅にひとつ引っかかるところがあった。

 それはあまりにも些細なもので、自分でもそれが何なのかは説明がつかないことだった。最初に抱き締めた時からその違和感はあった。彼女の肌を、唇を、吐息を堪能してしまえば、そんなもの直ぐに忘れられた。

再び違和感が襲ったのは、お互い一糸纏わぬ姿で見つめ合ったときだった。彼女の目を見つめると、男としての性の赴くままに動いていた体が、ほんの一瞬だけ止まった。

 僕は、彼女の瞳の奥に〝何か〟を見たのだ――。

「お疲れ様です」

 その彼女が目の前に現れた。声がするまでその存在に気付かなかったのは、よほど考え耽っていたからだろう。

「ああ、お疲れ様です」

 驚きはしたが、取り乱すことはなかった。

「……かっこよくなったね」

 と彼女は言った。その言葉は紛れもなく〝愛染ゆかり〟ではなく〝藤村彩季〟から発せられたものだった。

「藤村さんもね」

 僕も浅倉達弥として返す。

 シャワーを終え、セットも何もしていない髪が、初冬の風になびく。パーカーにロングスカートと、服装はシンプルだ。メイクこそしっかり施されているが、一見してセクシー女優には見えない。あの頃のまま、大人になったみたいだ。

「勝手な思い込みだったら笑ってね? ……わたしに会うために男優になったの?」

 あまりに直球な質問に、返す言葉に詰まる僕。静寂をあざ笑うかのように、僕らの間を風が音を立ててすり抜けた。

 答えるかわりに僕は彼女に体を背けた。自販機に向かい、小銭を入れ、商品ボタンを押した。何故そうしているのかは分からない。取り出し口からペットボトルのミネラルウォーターを取り、一気にあおった。

 冷たい水が喉を通ると、詰まっていたものが取れたような気がした。

「うん」

 言葉にすれば簡単な答えを、水が代わりに言ってくれた。

 そう、と藤村さんは素っ気なく言った。

「鍛えとるんやね。脱いだときビックリした」

「ありがとう……」

 彼女に褒められ、僕は瞬時に体が熱くなった。火照りを冷ますように、慌てて再度水を摂取する。

「水を飲むのも、体型維持のためなん?」

「それは元々。水が好きなんだよ。自分でもどうしてか分からんけど」

 取り留めのない会話。だがどうしてか、僕にはそれが楽しかった。方言も自然と出てくる。変わっていなかった。優しい藤村さんも、そんな彼女を好きな僕も。

 そんなささやかな幸せを噛み締めている間にも、違和感は心の中にずっと滞在していた。髪を染めているとか、そんな表面的なものではない。目に見えず、恐らく瞳の奥にある。彼女の大きな瞳で見つめられると感じるドキドキに、好き以外の要素があるのだとすれば、きっとその仕業だ。

 藤村さんが僕の方に歩み寄る。つい体が硬直してしまうが、向かう先が僕ではなく、その横の自販機であることが分かると、一気に力が抜けた。

 情けない、と思った。さっきまで行為に及んでいた自分が嘘のようだ。

「浅倉君」

 と藤村さんが僕を呼ぶ。僕は彼女を見るが、彼女はこっちを見ない。アイスコーヒーのボタンを押していた。こんな時期にアイス――そう思ったが、直後に自分が手に持っているペットボトルに目を落とすと、その感想をぐっと飲み込んだ。

 音を立てて商品が取り出し口に落ちる。拾い上げ、プルトップを開け、口をつける。その仕草一つひとつに、僕は目が離せないでいた。空を見上げるくらいの角度で、勢いよくコーヒーを喉に流し込んでいく。喉の動きがよく見えるくらいの飲みっぷりだ。

僕の名を呼んだのは、気のせいだったのだろうか――そんな考えが過ぎった時だった。彼女が再び口を開く。

「浅倉君は、セックスにいちばん大事なものって何だと思う?」

 それは予想もしない言葉だった。標準語が、冷たく響く。

「セックスに……大事なもの……」

 言葉を繰り返すのに精一杯な僕。恐る恐る藤村さんの表情を窺う。大きな瞳は真っ直ぐ僕を見つめ、答えあぐねるひとりの男を映し出していた。

 回答が得られないことを察した彼女は、缶の残りを勢いよく飲み干し、ゴミ箱の上に置いた。コン、というその音が、全ての雑音を打ち消した。

 彼女は短く、こう言った。

「愛よ」

 仕草に、所作に、言葉に――釘付けになっていた僕が我に返った時には、既に藤村さんの姿はなかった。

 違和感の正体がやっと分かった。さっきまでの僕は、違和感は彼女の中にあると踏んでいた。瞳の奥から中身を覗こうとしていたのだ。だが彼女の黒く輝く瞳には、心の奥を覗ける穴などなく、僕の姿を映すだけだった。

 僕が彼女を見つめると感じた違和感――それは、瞳の奥から発せられたものではなく、瞳に映る僕自身が発していたものだった。知らず知らずのうちに変わってしまった、僕の姿かたち、そして心……。

 僕は走った。控え室には荷物が残っていた。けれど走った。――いや、〝だから〟走った。あの荷物には、僕の仕事道具が詰まっていた。当然、藤村さんに書いてもらうつもりだったベッドアンケートも。

今それを取りに行けば、僕はひとりのセクシー男優に――チェリー達男になる。藤村さんにもう一度会うために生まれた、もうひとりの僕。彼は、〝浅倉達弥〟だけでは叶えることの出来なかった望みを叶えてくれた。かけがえのない存在だ。

 だがそれは、彼女からの信用を失墜するだけの要素も秘めていた。彼女にとって男優とは、あくまでビジネスパートナーであり、そこで発生する事象に愛などないのだ。

 走り続ける僕の胸に、悔しさがこみ上げてくる。なぜ気付かなかったのだろう? 愛を誰よりも理解していた彼女が、誰よりも求めていることに。そして、幾多の女性とパートナーを組むことで、行為そのものに愛を注げなくなった自分に。

 どれくらい走り続けたのか、またどのルートで走ったのか。現場から大きく離れた公園の木にもたれかかるように、僕は眠っていた。その姿はまるで、この世界から消えようとしているかのようだったと言う。

 誰が言ったかというと、その僕を発見した者からの声を聞きつけてやってきた、よく知る男だった。


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