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すべてはあなたに会うために

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すべてはあなたに会うために


 浅倉達弥の朝は早い。

五時半に目を覚ますと、起き抜けにナッペに取り掛かる。ナッペとは、スポンジにクリームを塗ることである。通常はゴムヘラで行う作業なのだが、浅倉達弥はそれを素手で行う。

 それが終われば朝食だ。メニューは勿論、先程のスポンジケーキ。それとミネラルウォーターという組み合わせが、浅倉達弥のお決まりである。

 浅倉達弥は大学生である。首都国際大学といえば、全国でも割と名の知れた私立大学だ。首都国大生の響きにある種の的価値を見出す者もいる程、賢さとスマートさのバランスの取れた大学といえよう。

 入学当初はそのブランドに不釣合いな、絶望的なダサさを誇っていた浅倉達弥。だが、この大学で一年を過ごした今ともなれば、かつての上京したての田舎臭さはなくなった。肉体は鍛え上げられ、パーマがかかった髪もセットはバッチリ、シンプルでありながらどこか洒落っ気を残した今時の服も上手に着こなしている。それでいて眼鏡が知性を演出しているのだから、まるで隙がない。成績も優秀だ。

 朝食を済ませると、諸々の片付けや準備をした後に部屋を出る。時間は六時半。授業にはまだ早い。それもその筈、彼が向かっているのは学校ではない。彼が向かった先――それは相撲教室だ。スマートな出で立ちからは想像もつかない場所に、彼はほぼ毎日通っていた。

まわし姿になり、稽古に精を出す。彼が主に力を入れている稽古が、がっぷり四つと呼ばれるものだ。土俵際で下半身を使って相手を寄り切る。下半身の強さを、ここで鍛えているようだ。

 およそ一時間という限られた時間でありながら、みっちり稽古をつけた彼は、そのまま大学へ向かう。ハードな稽古後であっても決してサボることはしない。それが真っ直ぐな男・浅倉達弥なのである。

 基本的にあまり他者と交わることのない彼だが、唯一時間が合えば行動を共にする男がいる。それが、相内新という男である。性格は浅倉達弥とは真反対であるが、お互いがお互いを認め合う、良き友人と言える。

 今日は昼過ぎからは授業もないらしい。食堂のお決まりの席で相内としばしの歓談を交わすと、浅倉達弥は友人に別れを告げ学校を後にする。

 目的は直ぐに分かった。彼が向かった先に、年も同じくらいの女性の姿があった。馬場鈴乃、彼のガールフレンドである。

「早く来すぎちゃった」

 存在に気付くと、彼女自身から浅倉達弥の方に駆け寄った。

「待たせてごめん」

 そう言って浅倉達弥は、駆け寄ってきたガールフレンドの頭をポンと軽く叩いた。

「謝らないでよ。わたしから会いたいって言ったんだから」

 面白い光景だ。背の低い男が、自分より背の高い女の頭を撫でる。女は嬉しそうにはにかんでいる。見る人が見れば滑稽とも言える。

 パッチリ二重瞼にスラっとした高身長。テレビや雑誌に登場する女優やモデルとも遜色ないと言っても大げさではない。つまるところ馬場鈴乃は、美女だ。

 それでいて気品も漂っている。女子アナ志望らしいが、外見だけを見れば完璧だ。

 一方の浅倉達弥はと言うと。身長は165センチ。髪型やファッションでごまかしているが、顔も地味でとても美男とは形容しがたい。家も決して金持ちでもなく、何かの金メダリストでもなければ大学野球のエースでもない。そんな彼が何故、馬場鈴乃のような美女をガールフレンドに出来るのか。

 二つある。ひとつは、彼の誠実な性格。

 そしてもうひとつが〝コレ〟だ

「じゃあ、行こう」

 美女は彼の手を取って歩き出す。

「行くってどこへ?」

 浅倉達弥がそう尋ねると、美女は顔を赤らめて言う。

「……いつものところ」

 〝いつものところ〟――それは、ふたりがいつも利用しているラブホテルのことである。彼女が彼に惚れるもうひとつの理由、それはベッド上のテクニックだった。

 相撲のがっぷり四つからヒントを得た彼の腰さばき、素手ナッペによって洗練された繊細な指使い――彼から繰り出される技の数々に、彼女は魅了されたのである。

「しょうがないなあ。じゃあ、二時間だけね」

 と浅倉達弥が告げると、美女は最初、『たった二時間……』とばかりに不服そうな顔をする。だが直後に『二時間彼に気持ち良くしてもらえる』と分かると途端に表情が明るくなった。

「早く早く」

 美女が地味な男をラブホテルへと引っ張る、というこれまた滑稽な情景を確認することが出来た。

 ホテルでは、それはそれは濃密な時間を過ごしたふたり。彼のテクニックは、日々欠かさず行っているトレーニングによって培われたものであり、並の男では到底味わわせることのできない感覚を、彼はこともなげにやり遂げてしまうのだ。彼女が惚れないわけがない。そればかりか、もう既に他の男では満足できない体になってしまっている。

 そんな彼女は、恥ずかしさも忘れてあられもない姿で横たわっている。行為は終了したのに、彼女の息はまだ荒い。

 浅倉達弥は、そんな彼女の耳元でそっと囁いた。

「風邪引くよ」

 と言って布団をかけてあげる。プレイだけではない。誠実な彼はアフターフォローも欠かさない男なのである。

「延長は?」

 布団の中で美女は尋ねる。欲張りである。だが無理もない。彼のテクニックに、優しさに、囁き声に、虜になってしまっているのだから。彼女自身は自己主張の少ない、大人しい性格だ。そんな彼女をこうさせている事実。罪な男である。

「ダーメ。予定が入ってる」

 見ると、浅倉達弥は既に服を着ていた。いつでも出られる準備をしていると同時に、『もうこれ以上はない』ということを暗示させていた。

 物分りの良い彼女はそれ以上駄々をこねることなく、シャワーを浴び、服を着た。

 彼の言葉も、決してその場しのぎの嘘ではない。朝の相撲教室と同様に、午後も習い事の予定を入れているのである。

 美女と別れた浅倉達弥は、その足でヨガ教室に向かう。

 そう、彼はヨガを嗜む男なのである。それ以外にも、総合格闘技のジムや、卓球教室にも通っている。勿論、それぞれに理由はある。

色々なプレイを持ち掛けられた際に対応出来るように、柔軟性に特化したヨガを。

どんな姿勢でも問題なく行為に及べるように、寝技に特化した総合格闘技を。

また、時に激しいプレイを要求される時。小気味良い音に加え相手に必要以上に痛みを与えないように、手首のスナップを鍛える意味で卓球を、それぞれ日替わりで通っている。全ては女性を満足させるためだ。鍛え上げられた肉体は、あくまでその過程でついただけに過ぎない。

 みっちり柔軟性に磨きをかけた浅倉達弥は、ようやく帰宅する。駅から十分。途中にある牛丼屋は彼曰く、思い入れのある場所なのだとか。充実した学生ライフを送る今でも、たまに寄るという。

 部屋についても、彼の日課は終わらない。入浴時も、湯に浸かりながら指を鍛える修業を行う。しぶきを立てないように指を動かすのは至難の業で、一度も成功しない日すらある。

一見無意味にも思えるこの修業も、潮吹きに欠かせない要素だという。この修業を仮に人差し指と中指の〝柔〟の動きを鍛えるものだとすれば、風呂上がりに行う指先ビルドアップは〝剛〟の動きを鍛えるものだ。要するに、どんな重りも持ち上げる強さと、緩やかな波を立てる繊細さが合わさって初めて、潮を吹かすことができる。ガールフレンドの心を満たすテクニックは、このような人の目につかない努力によって培われたのである。

 入浴中、そして風呂上り、そのふたつの修業を終えた浅倉達弥に、ようやく至福のひと時が訪れる。睡眠だ。この時ばかりはいやでもほかのことは忘れることが出来る。学校に、仕事に、恋人に、そして修業に。〝忙殺〟という言葉が似合う男・浅倉達弥は、下着姿でベッドに寝転がり、眼鏡を外し、いつでも安らぎの世界へと旅立てる体制に入った。後は時間の問題だ。

 ――と思ったのも束の間。

 着信音が、この狭い部屋に鳴り響いた。閉じかけた目を開き、スマートフォンを手に取る。

「もしもし」

 眼鏡をかけないまま出たので、電話の相手は確認しなかった。

「もしもしお疲れ様です」

 電話の相手は、ややかしこまった声で話す。その口調から相手は一瞬で分かった。マネージャーである。

 彼にはセクシー男優というもうひとつの顔を持っていた。チェリー達男と言えば、今や勢いだけならば四天王をも上回るとも言われる若手のホープだ。彼はその名で、今のAV業界を席巻しているのである。

 電話の内容は、急遽入った仕事の依頼だった。マネージャーがいないとスケジュールを管理できないくらい、最近はオファーが多い。流石は若手のホープ。

 潮吹きの経験もなければ絶対にしない自信がある、という女優を相手に五人の刺客が潮吹きの快感を味わわせる、という内容のものだった。勿論刺客の一人としてのオファーだったが、その中にはあの四天王の一角であるフィンガー・タカもいるらしい。

 浅倉達弥は二つ返事で許可した。彼がまだ学生である以上、制作側も多少の融通を利かせてくれるし、仮に断ったとしてもスタッフからも女優からも評判も良い彼にとって、後の仕事に支障が出ることはない。一年ほどこの仕事を続けていながら、驕ることなく今でも真面目な彼を、悪く言う者は業界内では少数派だ。しかもそのほとんどが、嫉妬から来るものであり、真っ当な評価ではないと言える。

 あの四天王と同じ土俵に立てる――電話を切った彼は、その喜びに浸りながら、ゆっくりと眠りにつくのだった。

 こうして浅倉達弥の濃密な一日は、終わった。



「いや、わたし、潮吹きなんてしたことないです」

 泉川万結華は、今作がデビューから三作目の新人だ。明るく活発な性格で、言動からは他の女優に比べて〝エロ〟が少ない。だがそれが、完璧と言っていいスタイルのセクシーさをより際立たせている。

「そう、だからよく分からないんですよねえ」

 インタビューに答える様子からは、セクシー女優の雰囲気は微塵もない。これがひと度プレイに入れば変わるのだから、人気が出るのも頷けるというものだ。

「ほんとに気持ちよかったら、潮吹きなんてしないと思いますよ」

 そう断言するイズマユこと泉川万結華。与えられた台本通りではあるが、彼女にとってその発言は嘘ではない。潮吹きの経験がないのは事実らしい。

 彼はその情報を直前に聞かされたが、それでも不安になることはなかった。彼女の言葉が本当であったとしても、彼女に潮を吹かせる自身が彼にはあった。

インタビューを受ける泉川万結華の撮影現場の隣の別室。そこで彼は、彼女のインタビューの様子を観察しながら今日のプレイを細かく何通りもイメージし、気持ちを高める。そうすることで、初共演の女優ともことが上手く運ぶのだ。

 すると間もなく、スタッフからゴーサインが出た。彼は素早く別室を出、音も立てず彼女の後ろに立った。

 インタビュー中の女優に気づかれぬように近付いて突然プレイを始める、というのが大まかな筋書きだ。勿論、泉川万結華自身もその段取りは知っているのだが、まだ質疑応答を繰り返す彼女は後ろに立つ男優の気配に気づいていなかった。

「どうしようー。もししちゃったら、初めてだから絶対恥ずかしいと思います。この間だって初めて――えっ?」

 回答の途中の彼女に、彼は音もなく襲いかかった。


     5


 今日の仕事は、思っていたより早く終わった。いや、終わってしまった。女優さんが思いのほか早く潮を吹いてしまったからだ。

「いやー、流石だね。撮れ高大丈夫かな?」

 見知ったスタッフはそう言って僕を褒めてくれたが、今になってその言葉が胸に突き刺さった。控え室で僕は女優さんの支度が終わるのを待っていた。

 相手がまだデビュー間もない新人だったことを、軽視しすぎていたのかも知れない。少し控えめにしたつもりだったが、水しぶきが大きな放物線を描き、直後現場に小さな虹がかかった時の様子が、今でもスローモーションで思い出される。その時の新人さんの、驚きと快感がないまぜになった表情も深く印象に残っていた。

 控え室のドアがノックされた。

 応答すると、ひとりの女の子がドアの向こうに立っていた。

「お疲れ様でした! 今日はありがとうございました!」

 屈託のない笑顔とハツラツとした声は、インタビューの時の印象そのままだ。新人の、泉川さんだった。バスローブ姿でのご来訪だ。

「お疲れ様です。こちらこそありがとう。ゴメンね驚かせちゃって」

 明るい来訪者にそう言って僕は頭を下げた。台本通りとは言え、戸惑う女の子をカメラの前でめちゃくちゃにしたのだ。何度もこの現場を経験しているとは言え、未だに胸は痛む。

 ところが彼女は、そんなこと気にも留めていない様子だった。

「気にしないでください、仕事なので。――そんなことより!」

 誠心誠意の謝罪を軽くかわされた僕に、彼女は手を差し出す。

「ベッドアンケート、わたしにも書かせてください」

「……今なんて?」

 竹中さんからは『不思議な子』だと聞かされていたが、僕は早くもその言葉に同感しようとしていた。

彼女は僕と初共演であるばかりか、この業界も浅い新人だ。僕が本気の指先のテクニックを披露できないまま、フィニッシュに達してしまうくらい、まだまだ場数も足りていない。

 そこで疑問がひとつ。初共演の彼女が、何故ベッドアンケートの存在を知っているのかということだ。

 だが何も、彼女に対して不思議と感じたのはそこだけではない。

 彼女の評価すべき点を挙げるとすれば主に三つ。抜群のスタイルと、飛び抜けて明るいキャラクターと、それと対照的なプレイ中に時折現れるエロだ。僕が泉川さんを不思議と判断したのは、そのふたつ目。明るい性格で、驚く程早く距離を詰めてくるところだった。

「守矢さんから聞いたんです。ベッドアンケートのこと」

 と言って泉川さんは近寄ってくる。まるで物理的にも距離を詰めようとしているかのようだ。

「ああ、そういうことか」

 守矢さん――守矢ツバサさんなら、ベッドアンケートのことを知っていてもおかしくない。今まで何度も書いてくれたのだから。

 そういうことならと、僕はカバンからアンケート用紙を取り出して彼女に手渡した。

「ありがとうございます! あの、ここで書いてもいいですか?」

 そう言うと彼女は、僕の返事も待たずに机にアンケート用紙を置いて記入し始めた。

 不思議な子だ。きっと僕がどんなに振りほどこうとしても、そうそう離してはくれないだろう。椅子に座らず、前のめりの姿勢で記入しているものだから、僕からの角度だと丁度胸の谷間が覗いてしまう。

だがそれを気にする様子はない。不思議な子だ。――いや、この程度の〝不思議ちゃん〟なら、この業界にはもっといるだろうか。

「次の撮影は大丈夫なの?」

 黙々とペンを動かす不思議ちゃんにそう尋ねた。

「タカさんが来られるまで一時間くらいあるので大丈夫です」

 と彼女は答えた。その際に一瞬だけペンを止めて僕と目を合わせたが、直ぐにアンケート用紙に目線を落とした。

 次はフィンガー・タカさんとの共演か。さっきあれだけ潮を吹いた彼女だが、次の撮影が四天王のタカさんなら、〝吹かない〟という心配はなさそうだ。

「書けましたー」

 不思議ちゃんもとい泉川さんは、そう言って記入の終わったアンケート用紙を僕の目の前に広げた。

「こんなに丁寧に書いてくれて、ありがとうございます」

 受け取った用紙にびっしりと書かれた文字の量に、思わず面食らった。それは、新人の女の子につい敬語になってしまう程に。

「こちらこそです。わたし、ツバサさんからベッドアンケートの話を聞いたときに、『いつか書けたらなー』って思ってたんですよ」

 泉川さんは喜々としてそう話す。

 ツバサさん、と言われると誰を指しているのか分からなかったが、守矢ツバサさんのことだと判明するまでに時間はかからなかった。守矢さんが、同業の女の子からの信用の厚いお姉さん的存在なのを僕は知っていた。

「そんなに知られてるの?」

 嬉しい半面、やはり照れくさい。それより何より、僕はこのアンケートの認知度の方が気になっていた。

「有名だと思いますよ」

 と泉川さんは言う。

「わたしは新入りなので、失礼がないように共演者さんのことは可能な限り調べてから現場入りするんですけど、チェリー達男さんがベッドアンケートっていうものを書かせているって話はすぐ知りました」

 話によると、守矢さんだけでなくほかの女優さんやスタッフさんも、僕のアンケートのことを話してくれているらしい。

「あの、ひとつお願いがあるんですけど」

 と、またしても彼女は前のめりの姿勢で僕に詰め寄ってきた。

「それ見せてもらえませんか?」

 と言って彼女が指差したのは、過去のアンケートをまとめたファイルだった。

 思えば、このファイルを自分以外の誰かに見せたことは一度もなかった。ベッドアンケートにここまで興味を持ってくれた人がいなかったから、当然といえば当然だろう。

「勿論、悪用なんかしませんよ!」

 少し迷ったが、名前は女優名で個人情報は書かれていないし、彼女もそう言っている。僕はバッグからファイルを取り出し、テーブルの上に置いた。

「ありがとうございます!」

「ちょっと恥ずかしいんだけどね。――まあ座って見なよ」

 そう促すと、既に一枚目を見ていた泉川さんは、アンケートから一切目を離すことなく、手探りで椅子を引いて腰掛けた。ついでに僕も見ることにした。

 最初の方の内容は、それはそれはひどいものだった。酷評に次ぐ酷評。嬉しいことを書いてくれているものもあったが、文面から気遣いが見て取れる。恥ずかしさのあまり、顔が火照ってくる感覚が襲ってきた。

「へえー、達男さんもこんな時代があったんですね」

 と泉川さんは言った。その言葉が余計に顔の火力を増してゆく。

「もういいんじゃないかな」

 という言葉は意に介さず、彼女は尚もペラペラと紙を捲ってゆく。「へえー」とか「はあー」とか、何かの鳴き声のようなものを発しながら。そして時折、

「あ、滝さん発見」

 こんな風に同事務所の先輩の名を見つけては、大きな声をあげるのだ。

「へえー……ホントいろんな人と共演してますね」

「まあ、そうだね」

 事実ではあるから、否定はしなかった。マネージャーがつくようになってからは特に、著名な女優さんとの共演も増えてきた。

 こうして読み返すと、自らの成長とともに、アンケートに協力してくれた女優さんのことも分かるような気がしてきた。僕の男優としての活動歴は少ないが、その中でも何度も共演している女優さんは何人かいる。僕だけでない多くの男優と絡んできた彼女らの評価は本当に貴重なものだ。

その中のひとりである守矢ツバサさんは、アンケートにこう記入していた。

『達男さんみたいな人ともっと早く出会いたかった』

 のちに竹中さんから聞いた話なのだが、彼女は売れっ子のセクシー女優であると同時に、セックス依存症に悩むひとりの女性でもあるのだそうだ。そのことを知ったうえでその文を読むと、あの時とはまた違った感情がこみあげてくる。

 過去に何かあったのだろうか……だから多くの作品に出ているのだろうか……ダンスはそれが原因で辞めたのだろうか。

 そんな彼女が、僕に早く出会いたかったという。僕はその文字の重みを強くかみしめた。

「ありがたいことだよね」

 そうボソッと呟くと、ファイルを見つめたまま泉川さんはクスクス笑いだした。さっきまで僕の言葉なんか聞こうともしなかったのに。

「さすが〝日本一腰の低い男優さん〟ですね」

 そう言われても笑っている理由が分からなかったのは、きっと彼女が不思議ちゃんだからだろう。僕は苦笑いで返す他なかった。

 結局最後までアンケートを見終えた彼女だったが、テンポよく捲っていた為にそんなに時間はかからなかった。

「ありがとうございます」

 そう言って丁寧に両手でファイルを渡してくれたので、さっき僕を笑ったことは不問にすることにした。

「次の予定は決まってるんですか?」

 僕は首を振る。マネージャーからは次の作品について何も聞かされていなかった。釣るところしばらくは、セクシー男優ではなくただの大学生だ。

「そうなんだー……じゃあ、次は誰を〝指名〟するんですか?」

「指名?」

 予期せぬ問いに戸惑う。しかし僕以上に戸惑った表情を見せたのは、他でもない泉川さんだった。

「え? 違うんですか?」

 と泉川さんはまっすぐ僕を見つめながら、首をひねる。

「違うって、何が?」

 言葉が噛み合ってないばかりか、それを噛み合わせる糸口すら見つからない。

 そのこんがらがった糸を解こうとしていると、突如泉川さんは勢いよく吹き出した。その様子から、彼女は合点がいったようだ。何とも形容しがたい空気を肌に感じているのだが、それはきっと僕だけなのだろう。

 クックッと目の前で笑い続ける彼女が、いずれ説明が出来るくらいに落ち着くまでの間、僕はその空気に耐えることにした。

「いや……わたし……てっきり達男さんに……指名されたのかと思ってー」

 笑いを押し殺しながら、彼女は言葉を絞り出す。両手で顔を仰ぎながら彼女が言うには、今日の仕事は自分が僕から指名されたものだと勘違いしていたのだそうだ。恥ずかしさと可笑しさで、笑うことしかできなくなったと。

「いやいや、勘弁してよ」

 それを聞いて僕も少し恥ずかしくなる。

「俺みたいな奴が女優さんを指名することなんて――」

 その続きの言葉を、僕は咄嗟に飲み込んだ。そして心の中で問いかける。

「あるのかな?」

 と。

 歴は浅いが、さっき泉川さんが言ったように、僕もそれなりの知名度を得るまでに至っており、修行の甲斐あって技も会得した。これはもしかして、とひとつの考えが頭に浮かんだ。

「じゃあ、そろそろ出るね。頑張って」

 僕は立ち上がると、まだ撮影の残っている泉川さんにそう告げた。

「あ、お疲れ様です。今日は色々とありがとうございました!」

 彼女はまだ顔を赤らめたまま、一度深く頭を下げた。今日だけでもあと一回潮を吹く仕事が残っている彼女に別れを告げると、そそくさと控え室を去った。

 フィンガー・タカさんにも一度挨拶しようかと考えていたのだが、僕の中ではそれより重要な別件がたった今入ったのである。僕はスマートフォンを手に取ると、マネージャーに電話をかけた。



「お久しぶりです」

 シゲオさんを見るなり、反射的に頭を下げた。

一応は師匠であるが、その〝師匠〟という言葉からも漂ってきそうな、一切の異論を認めないといった威圧感はなく、また僕自身も〝弟子〟である故にへりくだるような真似はしてこなかった。

 だからこそこの反応は、自分でも驚くべきことだった。これでも僕の中には、目の前のみすぼらしい老人を〝師匠〟だと思う気持ちがあったということだ。

「何だなんだ、いきなり来カかと思えば」

 老人は、欠けた歯の隙間からヒューヒュー音を立てて笑う。

 いきなり、と言われればその通りだ。僕は事前に何の連絡もなしにシゲオさんを訪ねたのだから。だがシゲオさんに公衆電話以外の連絡手段がない以上、彼が『いきなり』と言ってしまうのはやむを得ないことではある。

「ご報告がありまして」

 と言って、すっと頭を上げる。鍛えた肉体のおかげか、その動作は我ながらキレが良かったなと感じた。

「ん? どうしカ?」

 と言ってシゲオさんは聞く姿勢があることを示す。が。

 この老人。顔も格好も汚く、おまけに歯もないときた。真面目な顔をしているつもりでも、どこか気が抜けてしまう。自分の引き締めた顔が緩んでいくのが分かった。

「何だ?」

 はあ、もういいや。僕は一度大きく息を吐いて、言った。

「愛染ゆかりさんとの仕事が決まりました」

 先日の泉川さんとの仕事のあとの話。マネージャーへの電話の内容は、まさにこのことだ。僕が次の仕事は自分が女優さんを指名したいと言うと、マネージャーは「分かりました」と軽く答えた。更に僕が、愛染ゆかりさんとの共演は可能かと問うと、これまた軽い口調で「大丈夫だと思います」という回答が返ってきたのだった。

 アポを取ってくると言って電話を切られたが、それから「共演が決まった」という電話が再度来るまでは、怖いくらいに早かった。今もまだ現実を飲み込めていないあたり、いかに早く感じたかが分かる。

「……そうか」

 そんな僕とは正反対に、シゲオさんの反応は落ち着き払っていた。

「シゲオさんの修業のお陰です。今日はそのお礼に伺いました」

 と言って僕は、行きのコンビニで買ってきた酒の入った袋を、シゲオさんに差し出した。ホームレスは普段お目にかかれない高価なものより、普段から愛用しているものの方がもらって嬉しいだろうという、僕なりの心遣いだった。未成年の筈だが、酒のカップを五個も抱えてレジに現れた僕に何の疑念も抱いていない様子だった。

「おお、気が利くな」

 シゲオさんは喜んで受け取ってくれた。だが、そのビニール袋を右手に持ったまま、まっすぐ僕を見つめるのだった。

 我慢できず直ぐにカップを開けると踏んでいた僕は、その様子を不思議に思った。

「念願も叶ったこコだし、これで師匠と弟子の関係も終わりだな」

 続けて、何やらしんみりするようなことを言い放った。これもシゲオさんらしくない。

「そうですね」

「最後に……師匠コして、ひとつアドバイスがある」

 と言う彼の顔は、これまでに見せたことのない真面目なものだった。臭くても歯がなくても分かるものなんだな、と僕は感心してしまった。

 勿体ぶるように長い間を開けて、シゲオさんは言った。

「俺みたいになるなよ」

 彼のソフトボイスは、まるで脳に直接突き刺すかのようだった。耳ではなく、体全身でその言葉を受ける。そんな感覚だった。

「……はい」

 答えたものの、その言葉の真意は分からなかった。分かるのは、全身に感じたゾクゾクという言葉の波、その余韻だった。

 次の瞬間には、シゲオさんは欠損だらけの歯を見せて笑っていた

「よかっカじゃないか! このカめに弟子入りしたんだろ?」

 と言って僕の肩を叩く。さっきの真面目さが錯覚に思えてしまうくらい、いつもの間の抜けた表情と喋り方だった。

「どうだ? 折角だから一杯?」

 と言って彼は酒カップを僕に差し出す。

 コンビニに寄った時点で、恐らくそう言ってくるだろうと予測していた僕は、用意していた台詞でその誘いを断った。

「未成年なので」

 そう言うとシゲオさんは、つまらなそうに顔を歪め、

「相変わらず堅いな」

 と愚痴るのだった。残念ながらこれも予測済みだ。


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