自分史上最高に熱い夏 Ⅱ
自分史上最高に暑い夏 Ⅱ
大型ショッピングモールの、バス停の前の入口の前。日差しを避けて立つ僕にひとつの人影が駆け寄ってきたのは、十二時十分をまわった頃だった。
「ほんとにごめんなさい!」
相内の言った通り、スズちゃんは集合時間に遅れてやってきた。暑さすら覚える気候も手伝って、今日の彼女は露出が多めだ。加えて初めて見るスカート姿に、今までで一番女性らしさを感じた。
「いやいや、ぜんぜん平気だよ」
と僕は言った。『女は男と違って準備の手間がかかるから、少々の遅刻は大目に見ろ』という相内の助言もあって、十分そこらの遅刻には全く動じなかった。
あの飲み会の後、どういうわけか僕のスマートフォンの連絡先にスズちゃんが加わっていた。スズちゃんのカシスウーロンを誤って飲み干してしまってからは記憶が定かなく、どうやって手に入れたのか皆目覚えていないのだ。
「折角誘ってくれたのにこんな失礼を……後で何かお詫びさせて」
下手に言い訳してこないところに僕は好感を持った。
いや待てよ。『誘ってくれた』? 僕が、スズちゃんを?
「ほんと大丈夫だってば。暑いでしょ? 中に入ろう」
とりあえず冷房の効いた屋内で、冷静に振り返ることにした。
考えれば考えるほどに分からないのが今の状況だ。僕がスズちゃんの連絡先を聞いたこと、僕の方から彼女を誘ったらしいこと、そして――隣に目をやる。
「どうしたの?」
いちばんの謎はスズちゃんが隣で歩いていること、要は僕の誘いに彼女が乗ってくれたということだ。
「いいや、何でもない」
いつからか始まった連絡も(相内の助言をもらいながら)、今日まで途切れることなく続いていた。それがうまくいくのだから、相内の助言も馬鹿にできない。……いや馬鹿にしていたわけでは決してないのだが。
なので、今日のプランもすべて彼の提案だ。映画を観て、軽食を済ませ家まで送る――。『こうして見ると中学生みたいだな』
と彼は笑った。
「今日が楽しみすぎて、昨日ぜんぜん寝られなかったんですよー」
とスズちゃんは言う。その時に見せた笑みには、彼のような嘲りは含まれなかった。率直に天使みたいだと思った。
「そう言ってくれて、お世辞でも嬉しいよ」
隣の天使に僕はそう答えた。
「お世辞なわけないじゃん」
と天使は頬を膨らませる。怖くない。むしろ可愛い。けれどあざとさもない。
こんな素敵な子が何で僕と二人きりのデートを了承してくれたのだろう。相内の力あってこそだが、できれば僕の人柄のお陰であってほしいものだ。
「何時から上映されるの?」
「一時から。まだ余裕だね」
恋愛ものでありながら笑いもある、いわゆる〝ラブコメ〟。これから観ようとする映画のジャンルがまさにそれだ。ベタではあるが、外さない――あの相内がそう強く推すのだから、間違いはないだろう。
そもそも映画を選んだのも、話術の乏しい僕への彼なりの気遣いであった。
上映中は、しっかり内容に集中しつつも、その後の軽食時の会話の内容もしっかり考える時間に充てた。けれど。
映画も見ながら他のことも考えることは、思っていた以上に困難なことだった。加えてその考えることといえば、『女の子を喜ばせる会話とは如何なるものか』と言う、これまでの人生で考えたこともなかったこと。二時間そこらで良いネタが浮かぶ筈もなかった。
上映中、僕は何度か右隣のスズちゃんを横目に確認した。
スクリーンに釘付けでこちらの視線には気付いていなかった。主演俳優の顔面にボールが直撃し白目を剥いて気絶するシーンでは無邪気に笑顔を見せ、悲しい過去を涙ながらに語るヒロインを無言で抱き寄せるシーンでは手で口を覆って瞳を潤ませる。薄暗い館内では彼女の表情を細かく見ることは出来なかったが、物語に感情移入するくらいには気に入ってもらえたようだ。
僕は必死に頭を働かせる。映画の話題は欠かせない。学校の話題も聞き方次第では有りだ。『最近学校どう?』みたいな親みたいな切り出し方さえしなければ。好きな俳優とかは……僕があまり知らないから状況を見て聞くことにしよう――。
この子は、一体どんな話をすれば盛り上がってくれるのだろう。そう考えながら六度目の横顔確認をすると、僕は彼女の変化を発見した。
髪を切っている。腰上まで伸びていた髪が、二十センチほど短くなっていた
これだ!
僕は心の中で叫んだ。見た目の変化に気づいてあげるのも男のマナーだと、相内も大げさに言っていた。
僕「髪切ったね」
スズちゃん「気づいてくれたの? 嬉しい!」
僕「よく似合ってる」
スズちゃん「ありがとう」
ざっとこんなものだろう。彼女自身の性格と、いち女性としての性質を鑑みれば、このようなやり取りになることは想像するに容易い。スクリーンに視線を注ぎながら、そこから先の会話もシミュレーションしてみた。
僕「長い髪が好きなの?」
スズちゃん「そうだよ(もしくは『別に好きってわけでは……』)」
僕「短くても似合いそうだね」
スズちゃん「達弥君は、どっちが好き?」
僕「今の長さが好きかな」
スズちゃん「どうして?」
僕「『どうして』って……」
――どうしてだろう? 疑問が降ってきたのは、ヒロインを奪おうとする恋のライバルが三度目の登場を果たしたシーンに差し掛かっただった。
今の長さが好きなのは事実。だが僕の脳内のスズちゃんは、その理由を知りたがっていた。厄介だ。そもそも好きなことに理由などあるのだろうか。適当に『そのくらいの髪の長さの女優が好きだった』とでも言っておこうか。そう結論を出し、彼女と同じシルエットの女優を探すことにした。
ところが、その長さの女性で真っ先に思い浮かんだのは、不思議なことに女優ではなかった。
七度目。僕は隣の女性の横顔を見た。
表情を細かく捉えられない薄暗い館内で、ほんの一瞬だけ、彼女が藤村彩季さんに見えた。
途端に記憶が駆け巡る。二年前の秋。屋上。僕が藤村さんを思うとき、必ず思い出してしまう光景だ。僕を校舎のいちばん高い所へ登ったとき、僕は彼女が差し出した手を握った。あの時の感触が忘れられなくて、僕はまた彼女に触れたいと思った。二年が経った今日も、夕焼けを僕の視界が捉えた時には、その気持ちは蘇る。二か月前、思わぬ形で彼女と強く絡み合った今でさえ。
隣にいるのはスズちゃんであることは分かっていた。けれど彼女に、藤村さんにまた触れたいと願ってしまった僕は、知らず知らず彼女の左手に手を近づけていた――。
「先輩ゴメン。わたし……響介と付き合ってるから……!」
と言うヒロインの台詞に、数人の女性が悲鳴のような声をあげた。それが僕を現実に引き戻す目覚まし時計になった。我に返ると、彼女に触れようとする右手を慌てて膝の上に戻す。隣は見紛うことのないスズちゃんだった。彼女もまた、先程のヒロインの台詞にときめいている様子だった。
その後はエンドロールに入るまで、彼女を盗み見することはしなかった。
テレビなどをほとんど見ない(修業を始めてからは特に)僕でも耳にしたことのある、人気ガールズバンドの曲が流れる。方々では席を立つ者も出はじめ、少しガヤガヤしてきた。
スズちゃんは〝エンドロールを観る派〟なのだろうか。僕と一度視線を合わせたが、微笑むだけで立ち上がる様子はなかった。
僕は先に出ることにした。
「トイレ行くから先に出るね」
そう告げて立ち上がる僕。
「浅倉君が出るならわたしも出る」
さっきまで座ってエンディングテーマを聴き入っていたスズちゃんもひょいと腰を上げた。
「(この子はどこまで僕を喜ばせるんだろう……)」
憎らしいほどに〝良い子〟の彼女に、僕はついそう思ってしまった。そして直後に、答えは出た。そうだった。彼女は天使だったんだ。
一階のカフェに行こうという提案を、スズちゃんは快く受け入れてくれた。そこでは映画の半券があれば割引サービスを受けられる。コーヒーはおろかお茶さえも滅多に飲まない僕に、カフェに行く資格などないのかもしれないけど。
下りのエスカレーターに乗っている時にそんなこと言ってみると、スズちゃんは声を出して笑った。
「カフェに行く資格ー? そんなのあるわけないじゃん」
前を行く彼女は、そう言って先に一階に降り立つ。二歩前に進むと、振り向いて僕を待った。
「コーヒーとか紅茶を好きな人じゃないと入れないカフェなんて、わたしだって行きたくないよ」
僕もエスカレーターから降りると、スズちゃんは先へ進む。追いかけるように僕も歩を進める。
「でもス……スズちゃんは、コーヒー好きだよね?」
前の飲み会でそんな話をしていたのを思い出した。
そしてこれは余談だが、遂に彼女に聞こえる声で「スズちゃん」と呼べた。
「好きだけど、わたしにとってカフェではコーヒーなんて二の次だよ」
「そうなの?」
「好きな人とゆっくりお話できる場所。わたしに言わせてもらえばそんな存在だな」
僕は返事に窮す。「もう一回言って。最初のところをゆっくり」と言いたかったところをグッと飲み込んだからだ。
〝好きな人〟と言った――? つまりカフェの提案を受け入れた彼女にとって僕は――?
なんて考えを巡らせていると、気付けば入店し席に通され、メニューまで目の前に用意されていた。水を運ばれたことすら気づかないくらい、思慮に耽っていたようだ。
「随分悩んでるね」
彼女にはメニューで悩んでいるように見えたらしい。
僕は首を振る。注文するものは既に決まっていた。
彼女はコーヒーを、僕は紅茶をそれぞれアイスでオーダーした。半券のサービスは、その二種類しか適応していないらしい。コーヒーが飲めない自分に選択の余地はなかったのだ。
「何か悩みでもあるの?」
僕の顔をじっと見ていたかと思うと、唐突にそう尋ねた。
「えっ、どうして?」
予想だにしない質問に、ついたじろぐ。
「だって浅倉君、今日ずっと何か考え事してるみたいでさ」
と彼女は言った。
「あー」
思い当たる節はあった。いや、ありすぎた。何たって今日は初デートだ。並んで歩いていいのか、どんな会話をするべきか、今日の服装はダサくないかなどなど、考え事をしないはずがない。
「考え事は……まあしてるって言えばしてるね」
初デートだし。
「女の子と二人で遊ぶのなんて初めてだから、どうしたらいいのか分からなくて……」
「あ、そういうことだったのね」
どうやら納得してくれたようだ。
「安心した」
「何が?」
「すごく思いつめてたように見えて、もっと大きな悩みを抱えているのかと」
とスズちゃんが言ったところで、ドリンクが運ばれてきた。
もっと大きな悩み……彼女の言葉の一部を頭の中で繰り返しながら、紅茶にシロップを入れる。
初デート以上の悩みといえば、修業のことにほかならない。だが、こっそり素手でナッペしていることや、ティッシュを目の前に官能小説を朗読しているなんて、口が裂けても言えない。興味は〝惹かれる〟だろうが、〝引かれる〟のもまた時間の問題だ。
それに最近は、もうひとつの修業も並行して行っている。中指と人差し指に重りをつけ、それを指先だけで持ち上げる――指先ビルドアップだ。フィンガー・タカの潮吹きを習得するための特訓である。お陰でペンを握るのも一苦労だ。
「ゴメンね、余計な心配させちゃって」
紅茶をストローでかき混ぜながら、明るくそう答えた。よく分からない修業で指先を鍛えているなんてこと、言えるわけもない。
「いいのいいの」
と言ってスズちゃんは、コーヒーをブラックのまま飲んだ。
「むしろ、今日のことにこれだけ悩んでくれてることが、わたしにとってすごく嬉しいな」
また出た。天使の微笑み。先程から襲われる天使の幻覚だが、嫌な気はしない。
けれど今回は、さっきとは違った。
『どうしたと?』
幻覚とともに幻聴も僕を襲ったのだ。
藤村彩季さんの声だった。二年前の、西日が差し込む屋上――その時の声そのものだ。
ここはモール内のカフェで、今は昼過ぎでまだ太陽も高い。あの日との共通点といえば、目の前に女の子がいる、ということだけ。
なのに予期せぬ幻聴が襲うのは、無意識にスズちゃんを藤村さんとダブらせてしまっているからにほかならなかった。
「何でだろう」
何で、ふたりを重ねるんだろう。
「何が?」
スズちゃんのことならとっくに好きになっているのに。
「何で……」
僕は彼女に、藤村さんを求めているのだろうか。
「おーい」
とても優しくて、素敵な人なのに。
「……」
それに純粋だ。とてもセクシー女優になるような子では――
「こら!」
パチン、と目の前で音がしてふと我に返る。
音の主はスズちゃんだ。僕の鼻先で両手を合わせる。
「悩んでくれてるのは嬉しいけど、女の子を無視してまで考え込まないの!」
「ごめんなさい……」
スズちゃんからの軽い説教に、呆然としながら答えた。するとスズちゃんはたちまち表情を変え、
「分かればよろしい」
と笑みを見せた。
その笑みから、僕は再び天使の幻を見た。藤村さんの幻覚も幻聴も、今はない。彼女の底なしの優しさが、藤村さんの亡霊から僕を救い出してくれたのだ。スズちゃんに感謝しながら、気を取り直してこのデートを楽しむことにした。
「そう言えば、髪切ったんやね」
ずっと脳内で繰り返していた台詞だったが、口から出たのはまさかの博多弁バージョンだった。気付けば、鼓動が早鐘のように鳴っている。さっき鼻先で大きな音を立てられたことで、少し取り乱していたようだ。
目の前の天使は、笑いつつもやや困惑した表情を浮かべながら
「……何で博多弁?」
そうつっこんだ。
ひと仕事終えた後は、何とも表し難い感覚に陥る。身も心も抜け殻のようで、出来ることならしばらく横になりたい。
「あ、お疲れ様です」
けれどそうはいかないのがこの仕事だ。女優さんたちの方が体を張っているわけだ。カメラの前で恥ずかしいところを見せているのだから、高いリスクも払っている。そんな現場で僕が悠長に体を休める場はないのだ。
ひとつの撮影を終えた現場は、撤収作業などで慌ただしい。ゆっくりできるのは、体を酷使した女優さんくらいで、監督でさえ忙しない。僕の挨拶も、聞こえているかすら疑わしい。
仕事後の女優さんは、シャワールームで体を洗い、次の撮影があれば再び衣装やメイクを整え、なければそのまま帰り支度をする。帰る場合、多くの女優さんはメイクもろくにしないで風のように去ってしまため、ボヤボヤしていたらアンケートを渡し忘れてしまうことがある。
今日は後者。僕はシャワールームの前でアンケート用紙を持って女優さんが出てくるのを待つ。
待つこと五分。扉が開く。
「あ、達男さん。お疲れ様ですー」
一糸纏わぬ姿で現れても何も感じなくなってしまったのは、この仕事を続けているからだろう。
さっき共演させてもらった、女優の守矢ツバサさんだ。今日で三回目の共演になり、向こうも顔を覚えてくれていたようだ。
「お疲れ様です」
と僕は頭を下げる。何回も共演していても覚えられないこともあるため、守矢さんは僕にとって、とても大きい存在だ。
「もしかしてアンケートですか?」
そして何より、気さくなのがありがたい。渡すより先に手を差し出してきた。
「そうです、協力してもらえますか?」
「勿論。達男さんだったら協力しますよ」
僕は差し出された右手にバインダーとペンを手渡した。
恐らく年上の彼女は、僕にも敬語で話す。セクシー女優とは思えない親しみやすさだが、これが不思議なことに女優としての守矢ツバサは、〝妖艶な痴女〟という言葉が似合う、他を寄せ付けない孤高な役が多い。そのギャップに、これまでも幾度となく心が洗われた気分になったのは言うまでもない。引き締まった細身の体型は、長年続けていたダンスで培われたものだと彼女は言い、プレイ中もその経験を活かしてしなやかな動きを見せている。
「支度してくるので待っててください」
と言い残して守矢さんは控え室に消えていった。
取り残された僕は、さっきのプレイを自分なりに反省すると共に、守矢さんの体の感触を思い出し、余韻に浸っていた。
仕事を始めたばかりの時は、大勢の男優のうちのひとりとしての出演で、女優さんとの絡みなど無いに等しかった。三ヶ月が経とうとしているが、竹中さんをはじめ周囲の人間が言うには異例のスピード出世らしい。
『二、三ヶ月で一体一のプレイなんて、そうそういないぞ』
薄っぺらいでお馴染みの竹中さんだが、その口調はどこか真実味を帯びていた。
更に竹中さんは、僕の〝スタミナ〟に対しても異常だと舌を巻いていた。
当然のことだが、大変なのは女優だけではない。男優だって体を使うし、撮影が終わればヘトヘトだ。内容によっては長時間の撮影もあり、中には一日に三度も四度も〝アレ〟を出すことだってある。疲れないということは決してないが、『出ない』ということも一度だってなかった。
竹中さん曰く、撮影後に余韻に浸れる余裕があるのは若手の中では僕ぐらいだそうだ。大抵は疲れてそれどころではなく、中には行為そのものが嫌になる者もいるらしい。
『ひょっとしたら天職かもな』
全く嬉しくない褒め言葉と共に肩を叩かれた日は、どんな表情をして何て返事するべきか困ったものだった。
「お待たせしました」
守矢さんの支度は意外にも早く終わり、回想は服を全て脱ぎ終わる前で終わった。
「ありがとうございます!」
僕は低く頭を下げ、丁寧にアンケート用紙を受け取った。余談だが、僕のことを〝日本一腰の低い若手セクシー男優〟と呼ぶ業界人もいるらしい。
「お疲れ様です」
さっきまで僕の脳内で下着姿だった守矢さんは、全体的にピンク色で統一された、比較的派手めな私服に着替えていた。化粧は目元しかしていないようで、顔の半分は大きなマスクで隠されている。
彼女は僕にアンケートを渡すと、そそくさとこの場を立ち去った。出番が終わっても現場に居座る女優もいるが、守矢さんに限ってはそうではないらしい。僕は彼女の背中に向かって再び礼を言った。
「お疲れ様です、ありがとうございました」
珍しいことでもないので、別段落ち込むこともなければ名残惜しさを感じることもなかった。
珍しいことが起こったのは、その数分後だった。
「達男さん!」
現場から立ち去ったはずの守矢さんが、何故か目の前にいるのだ。帰り支度をしていた僕は、その存在にすぐには気付けなかった。
「おお、どう……したんです?」
混乱し狼狽する僕。それを知ってか知らずか、彼女はこれでもかというくらい顔を近付ける。
「アンケートにも書いたんですけど、やっぱり直接言いたくて戻ってきちゃいました」
と言うとおもむろにマスクを外し、僕の耳元に回り込んで囁いた。
「今日は、この間よりも、すっごく気持ちよかったよ」
その声から浮かんでくるのは、カメラが回ったときにのみ見せる、女優としての姿だった。
「守矢さん……?」
それ以外の言葉が出てこない僕。彼女の色っぽい囁き声に、股間の辺りが熱くなる感覚だけは分かった。
フフッ、と守矢さんは吹き出す。
その直後に顔を離したものだから、笑った理由を聞きそびれてしまった。
「お疲れ様です」
本番を終えた、素の守矢さんの姿がそこにはあった。何も言えずに立ちすくんでいると、彼女は僕の股間に目をやりながら続けた。
「〝もう一回戦〟はできそうですね」
その言葉の意味を理解したとき、僕は顔を激しく紅潮させた。
「いや、そんなことは全く……やめてくださいよ!」
「ハハハッ――まあ、プライベートに取っておいてくださいね。お疲れ様でした」
と言って手を振り、今度こそ現場を後にした。
彼女が去ったのを見届けると、僕は荷物の中にしまったアンケート用紙と、それを綴じるファイルを引っ張り出した。
さっき守矢さんに書いてもらったアンケート。それと、過去のデータも綴じられているファイルから以前彼女に書いてもらったアンケートの内容を比べてみる。
三度目の共演になるが、内容は段々と良くなっているのが確認できた。五段階評価で記入してもらう項目も全て4と5で、きちんと書いてくれる守矢さんからのその評価は、率直にすごく嬉しかった。
そして僕がいちばん嬉しかったところ――それは最後の自由に記入できるスペースにあった。
『耳元でささやきながら体をやさしくさわられた時が、一番キモチよかった』
――〝素手ナッペ〟と〝ティッシュをイかせろ〟が、功を奏したのだ。まだまだサイキッカー南さんの領域にたどり着いたとは言えないが、少なからず近づいてはいるらしい。
あの修業も馬鹿にできないなと思いつつも、少しでもシゲオさんを疑っていた自分を恥じた。
そしてさっきの守矢さんの言葉、『プライベートに取っておいてくださいね』の部分が不意に呼び戻された。
今まで仕事でしかことに及んだことがない僕。竹中さんに天職だとお墨付きをもらった体を、僕は今日まで持て余していたらしい。
仕事とプライベート、同じ行為でも何か違うのだろうか――。
その疑問を問いかけられる者も、それに答えられる者も、自分の周りにはまだいない気がした。そして、自分自身もその問いに答えを見出すことはできなかった。今はそれどころではない。帰ったら修業が待っている。僕はアンケートとファイルを荷物の中に押し込めて、慌ただしさもひと波超えた現場を後にした。
「達弥、お前睡眠足りてないんじゃないか?」
と相内は僕の顔を覗き込む。最近彼から心配そうに声をかけられることが多い気がする。
「ああー……そうかも」
相内はほんとに目敏いな、と続けると彼は「いやいや」と首を振る。
「俺じゃなくても分かると思うぞ」
「そうかな?」
「目が真っ赤だし、クマもあるし、絵に描いたような〝睡眠不足顔〟だぞ」
きっと修業のせいだ。最近は早朝に新たな修業も加わった。仕事もこれまで通りこなしているのだから、自分の時間が削られるのも無理はなかった。
「寝る間も惜しんで熱中するほどの趣味でも見つけたのか?」
「趣味ねえ……」
あの修業はとても趣味とは言えないな、と思った。仮にそうだったとしても、悪趣味すぎて人に教える気にはなれない。そう、相内であってもだ。
「スズちゃんとはうまくいってるか?」
と相内は尋ねる。僕は即座に返事できなかった。
あれからスズちゃんとは、相内も含めた数人で遊び、もう一度二人きりのデートをした後、晴れてガールフレンドになった。
「うーん……うまくいってるんじゃないかな」
と曖昧に答えた。別にはぐらかしているわけじゃない。彼女なんて人生で初めてだし、告白だってほぼ全て相内の段取り通りに行った。実感が沸かないのだ。
「まあ、あの子は良い子そうだから、もう俺の出る幕はなさそうだな」
「そうなの?」
「そうなの! スズちゃんみたいな子は達弥みたいな、不器用だけど誠実な男が好きだからさ。俺だとどうしても打算的になっちゃうし、それに、他の女の子とも遊びたいしさ」
見栄を張るでもなく、彼は平然とそう言ってのけた。
確かに彼女は、僕がみっともないところを見せても楽しそうに笑ってくれる気がする。自然体でもフィーリングが合うのかも知れない。
彼は、今度は僕の体全体をまじまじと眺める。
「何か、体つき変わったか?」
想定外の言葉に、僕もつい疑問符で返す。
「え?」
「気のせいかもしれないけど、少し逞しくなってる気がしてさ。鍛えてんの?」
これも新たに始めた早朝の修業のせいだろうか。
「ああ……うん、ちょっとね」
仕事を始めてから、徐々に体が絞られていく実感はあったが、こうして誰かから指摘されたのは初めてのことだった。
「マジかよ。ジムとか?」
相内は目を輝かせる。安易にそうだと答えたら、どこかで綻びが出そうなので、
「いいや、家でやってるだけ」
とだけ答えた。
だが嘘だ。家で行っていることと言えば、素手でケーキに生クリームを塗りたくったり、指に重りをつけたり、ティッシュの前で官能小説を読んだりしているだけだ。早朝に行う修業は、今までのように家の中で出来るものではなかった。
新たな修業の地――それは相撲教室だった。
『相撲ですか?』
シゲオさんにそこまで連れて来られた時、思わず目を疑った。
『相撲部屋ですることっケ言えば相撲しかないだろ』
笑って屁理屈をこねるシゲオさん。僕はそれに愛想笑いで応じる。
とは言え事情が飲み込めないのは事実だ。これまでもわけの分からない修業を課せられてきたが、それでも律儀にこなしてきた。だがそれは、僕の性質によく合っていたからだ。
僕には圧倒的に身体能力がないが、そのデメリットを持ち前の真面目さで補ってきた。ナッペ然り、朗読然り、これまでの修業はあまり体力を必要としないものばかりで、指の重りも僕の体力のなさはさして差し支えはなかった。
今、シゲオさんはハッキリと言い放った。これから行う修業は、相撲だと。真面目さと引き換えに体力を〝捨てた〟僕にとっては、この修業は人生に於ける大きな転機になりそうな気がした。
不安が拭えない僕の背中を、シゲオさんは笑って叩いた。
『コりあえずそこに行っケこい。話は通しケあるから』
こうして僕の朝稽古が始まったのである。
一日の中に色々なスケジュールを詰め込んだことで、いかに自分が時間を無駄に浪費していたかを痛感した。最近では講義中も睡魔に襲われることもしばしばで、きっと相内はその様子を見たことで、僕の変化を読み取ったのだと思う。
「達弥さあ、今月どこか暇してない?」
と相内は言う。僕は少々驚いた。今までも彼と出かけたりすることはあったが、こんな直接的な言い回しで誘われたことなどほとんどなかったからだ。
「えーっとね……今月だと……」
僕は今月のスケジュールを思い出す。仕事の話を話していない手前、彼の目の前で手帳を開くことは出来ないからだ。
「金曜ならバイトもないし、授業も早く終わるな」
「金曜か、オッケー。じゃあその日、買い物行こうぜ」
合コンの時もそうだが、彼に誘われると僕は、何だか嬉しい気分になった。大学の友人、それもいわゆる〝イケてる〟友人とふたりで出かけることが、誇らしいことのように思えたからだ。
「分かった。ちなみに何を買うの?」
「買うのは俺じゃないよ、お前だよ」
相内はさらりとそう言い放った。
「僕?」
思わず訊き返す。
「彼女も出来たし、体を鍛えたりして自分の中の意識も変わったし。内面は知りあってすぐの時に比べたら見違えるくらいに変わってるよ、達弥は」
だから今度は〝外〟を変えないとな、と彼は笑う。
彼の優しさに気付いたのは初めてではないが、こうして直接的に優しい言葉をかけられたのは初めてだった。
「それはつまり、僕が『ダサい』って言いたんだ?」
僕はその優しさに冗談で答えた。
こうして、相内による、僕の改造計画が始まった。
~ ~ ~
テレビを見ているときは、リビングの電気は消すようにしている。エアコンはこの部屋を借りてから一度も点けていない。節約から始めたこの習慣も、今では不思議と心地良い。逃げ出したくなるくらいに残酷な現実から、生まれながらみな平等に〝不平等〟を与えられるこの世の中から、離れられている気分になるから。カーテンも閉めてしまえば、自分だけの独立国家の完成だ。
『――累計発行部数1000万部以上の大ヒット漫画『ビヨンド・ザ・美容室』の実写映画化が発表され、主演を人気俳優・成田純さんが演じることが決まりました』
「最近よく出るなー、この人。エロい役以外もするんだ」
さながら国家主席の気分のわたしは、唯一の外界との繋がりでもあるテレビに向かってそうぼやいた。無礼なことを言っても大丈夫。ここはわたしの国なのだから。
ふとどこからか着信音が鳴った。電話の音だった。わたしは大きくため息をついた。スマホという、外界と繋がっているもうひとつの媒体を見落としていたことと、そのスマホの画面が暗がりの中で音と光を発し、わたしの独立国家をぶち壊しにしたからだ。
画面を見て、相手の名を確認し、電話に出た。
「もしもーし」
ため息を飲み込んで、最大限の〝女の子っぽい〟声で言った。
「もしもしおはよー。今大丈夫?」
電話の相手は同僚の子だ。同い年だが、どこか年下のような可愛げのある女の子で、プライベートでも一緒に出かけたりする程度には仲が良い。
「うん。どうしたの?」
「ゆかちゃんさ、達男さんと仕事したことある?」
タツオさん? 即座に誰か分からなかったわたしは、言葉に詰まった。
「うーん……覚えてない」
「ってことはないのか」
「監督さん?」
「男優さんだよ。チェリー達男さん」
あ、と声が漏れた。その名は聞き覚えがあったし、同時に彼女からの質問の答えも浮かんだ。
「達男さんとは仕事したことないなあ」
噂は時折耳に入っていた。何でも日本一低姿勢の男優らしい。しかも勉強熱心だとか。
「そっか、残念。知ってたらゆかちゃんにいろいろ聞こうかと思って」
だが勉強熱心といえば、この子もそうだ。過去にもこうやって根掘り葉掘り質問されたことがある。チェリー達男がいかなる人物かは分からないが、彼女の人をよく見て知った上での気配りの良さには目を見張るものがある。おっぱいが大きいくせに。
「ゴメンね、力になれなくて」
「いいのいいの、気にしないで。わたしこそ急に電話しちゃってゴメン」
彼女は、わたしの謝罪に対して謝罪を重ねてきた。良い子だ。同い年だけど。おっぱい大きいけど。
彼女とわたしは、年齢も一緒ならデビューもほぼ一緒だ。『大型新人、二ヶ月連続お披露目!』なんて華々しい煽り文句で女優デビューを果たしたわたしは、ひと月前に抜群のスタイルを引っ提げてデビューを飾った彼女の勢いに乗じて、今ではそこそこの知名度を得るに至った。そんな経緯がある以上、もし彼女が性格の悪い子であっても、わたしは多分それなりに仲良くさせてもらっていたと思う。
けれど、今回のことでわたしは少し腑に落ちないところがあった。チェリー達男のことだ。
「男って、やっぱり単純だよね」
「どういうこと?」
電話の向こうの彼女が首を傾げる光景が浮かぶ。
「男はみんな、おっぱい大きい子が好きなんだなーと思って。まゆちゃん指名されたんでしょ?」
言いながら、『わたしってば性格悪い』と自己嫌悪に陥る。
「え? わたし指名されたのかな?」
「多分そうでしょ」
だって――大きいから。それに尽きる。
彼女は、わたしとほぼ同時にデビューしていながら、出演本数はわたしより少ない。人当たりがよく勉強熱心で、愛嬌もある彼女は、この仕事はあくまで副業として捉えているらしい。ひとたびセクシー女優という殻を脱げば、あっという間に一般社会に溶け込める人間なのだ。部屋を真っ暗にして身も心も閉ざすわたしとは違う。
それなのに、だ。彼女を指名する男優は多い。出演本数が少ないからこそできる、たどたどしいやり取りに、馬鹿な男はコロッと騙されるらしい。わたしもそんなに多くないはずだが、ある監督はわたしを見て『ベテランが演技しているようだ』と言った。褒め言葉として捉えることは出来なかった。
「へー、何か自信つくなあ」
電話越しの彼女の語調が上がる。心から喜んでいるらしい。この反応に、世の男は騙されるのだろうか。
その後は他愛もない会話を五分ほど交わして、通話を終えた。
通信が途切れた瞬間、再び現世と切り離された異国へと戻された。テレビの明かりしかないこの国では、『何もしない』ということが出来る。一週間敷きっぱなしの布団からは、リモコンもスマホもゴミ箱もすぐ手に届く。腰を上げれば冷蔵庫にだって。この国では、最小限のエネルギーの消費で、最低限の生命活動を維持できる。わたしが何かの欲望に駆られなければ、『何もしない』が可能になるのだ。
だからこそなのか、無意識に物思いに耽ることがある。まるで『何もしない』ことを体が拒絶しているかのように。今の仕事のことであるとか、過去の記憶であるとか、また時として最近の偏った食生活であるとか、その振り幅は広い。
男って、単純だな――。
それが今回のテーマみたいだ。好みに違いはあっても、男の男たる部位が刺激されれば、男はみな単純になる。その条件は、女の女たる部位が著しく性的であることだと、わたしは推察する。つまり彼女のような完璧と言っていいプロポーションを持ちさえすれば、多少の好き嫌いなどどうでもいいというわけだ。
じゃあ、彼があの業界に居続ける理由は――?
最初はわたしのためだと思っていた。けれど、選ばれたのはわたしじゃなくて彼女だった。
人は心変わりする。男女問わず。きっと知ってしまったんだろう。色んな気持ちいいことを。屋上でわたしを見つめる、あの時の少年には知りえないことを。
そう、人は変わる。わたしはわたし自身を見つめながらそう思う。気が付けば視点が俯瞰になり、自分の顔を見ることが出来た。西日がチカチカ明滅する屋上。彼と見つめ合うあれは、十七歳のわたし――
「――浅倉君」
西日が眩しい屋上から光のない異国へ意識が移ったとき、自分が眠っていたことに気付く。遅れて、自分の寝言で目覚めたことへの羞恥心が芽生える。
そしてその次にやってくるのが、テレビをつけっぱなしにしていた自分への自責。
『さあ、初回から東京国際大学に試練が訪れます。アウトをひとつとりましたが依然として二三塁のピンチ。豪腕・鷹羽、ここをどう切り抜けるか。セットポジションから第一球――』
大学野球のテレビ中継だ。このピッチャーは見たことがある。去年だか一昨年だかの夏の甲子園で頻繁に取り上げられた人だ。そんなに強くない公立校だったけど、彼のお陰で決勝まで行ったのだ。この異例のテレビ中継が、その時の人気を物語っていると言っていい。
『ストライク! バッター思わず高めの球に手が出てしまいました。スピードガンは152キロを計測しています』
マウンド上の彼はこのピンチでも動じていない。思わず逃げ出したくなるような状況であっても。
誰の干渉も受けないひとりきりの国に閉じこもるわたしには、逃げ場のないマウンドでピンチに立ち向かう彼の後ろ姿が一際眩しく見えた。耐え切れずにテレビを消すと、静寂がこの国を支配した。
わたしひとりのこの国に光は必要ない。ただ〝あの人〟さえ救えればいい。希望の光は、〝あの人〟にだけ降り注いでくれればいい。切に願いながらそっと目を閉じ、再び眠りについた。
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