自分史上最高に熱い夏 Ⅰ
自分史上最高に熱い夏 Ⅰ
ふと中学時代の記憶が降りてきたのは、部屋でDVDを観ていた時だった。そのDVDというのは、僕が不本意に参加してしまった〝愛染ゆかりの世直し忍法帖 秘術・童貞狩り〟である。
『完成したから、記念にあげるよ』
と、竹中さんから貰ったものだった。竹中さんがどこか浮かない表情だったのは、きっとこの作品が文学的ではないからだと僕は思う。つまりこれは、様々な〝不本意〟が詰まった作品だと言える。
会議室のようなところで、彼女がインタビューを受けている映像が流れた。
「(胸が大きくなりだしたのは)小学校四年生、くらいですかね。中学校に入る頃には今の大きさになってて……そこからもっと成長すると思ってたんですけどね!」
彼女は笑いながら応える。中学一年の時には、もうあの日見たカラダが完成していたのだと考えてしまえば、その頃の記憶が降ってきても不思議ではない。
中学一年生と言えば、僕が初めて彼女と同じクラスになった、僕にとっての記念すべき年である。当時の担任が、生徒ひとりずつ教壇に立って自己紹介をしようと悪魔のようなことを言ったのを鮮明に覚えている。悪魔は更に、発表の順番を出席番号順にしようと言い放った。男女別に五十音で並べられた出席番号順――僕からだった。
ここまでの記憶が鮮明なのに反して、僕が壇上に上がってからは、ほぼほぼ記憶が曖昧だ。モノマネを披露してクラスを沸かせた後のクラスの中心人物以外は、自己紹介の内容まで覚えている人はひとりもいなかった。僕自身も、ただ『これが地獄というものなのだろうか』という感想しか残っていなかった。
彼女もまた、内容の記憶が不確かなクラスメートの一人だった。藤村彩季、出席番号38番、まだ『愛染さん』と呼ばれるずっと前だ。だが、僕が藤村さんの自己紹介を覚えていないのには、他のクラスメートとは異なる理由があったからだった。
「東小の藤村彩季です」
僕は、壇上の藤村さんに、一瞬で恋をしてしまったのだ。
藤村彩季……フジムラ・サキ……区切る箇所を変えたら藤・紫……なんて素敵な名前だろう。名前も彩るという漢字が使われている。背後の黒板が、目の前の机が、壁に掛けられた時計が、紫色に彩られていく――そんな気がした。
「あだ名は特にないけど……『さきっちょ』とか呼ばれたことがあります」
可愛い。『朝勃ち』というあだ名にもならない悪意ある呼ばれ方しかされたことない僕は、羨ましい気持ちすらあった。教室の壁も紫がじんわり広がっていった。
「初めては……ついこの間です。最初の撮影の時……」
そう言ったのは、藤村さんではなく愛染さんの方だった。
ホントにー? と疑問の声をあげるインタビュアーに苛立ちを覚えたのと同時に、あの時の記憶が呼び起こされた。『藤村さんが可愛かった』という漠然とした記憶しか残っていなかったはずの、地獄の自己紹介の記憶が。
「将来の夢は、助産師さんになることです。昔テレビで出産の映像を見たことがあって、その時の女の人が初めて赤ちゃんを抱いた時に、すごく幸せそうで、愛に溢れた顔だったんです。だから、その幸せの、愛の手助けをしたいと思ったからです」
十二歳の中学校に入りたての女の子が、何の恥ずかしげもなく〝愛〟という言葉を口にしていたことに、愛なんてテレビや音楽の中にしかないと考えていた僕には衝撃的だった。愛を語る藤村さんは、さっきより魅力的に見えた。教室を染める紫は、優しく淡い色に変わっていた。
今回くノ一を演じるにあたって何を意識するか、という下らない質問をするインタビュアー。藤村さん改め愛染さんは、戸惑いを見せるも、少し考えて答えた。
「エッチの気持ちよさを知らない人を、少しでも幸せに出来るように……かな? ――これ、答えになってます?」
と言って愛染さんは笑った。
僕は何故か胸が締め付けられる思いがした。幸せの手助けをする――六年の歳月を経て、愛染ゆかりと名を変えてセクシー女優に変身を遂げた彼女は、あの時と同じことを口にした。何の色もない、殺風景な会議室で。
本質的には同じなのかもしれない。幸せにする対象が女性から男性に変わり、生み出すものも〝生命〟から〝実体のない快楽〟に変わっただけ。彼女のことだから――弱冠十二歳にして愛を語っていた彼女のことだから、お金に目がくらんだとか、邪な気持ちでこの仕事を選んだはずはない。和楽器のBGMと共に、忍者らしからぬ露出の多い衣装で妖艶に踊る愛染さんを見ても、僕はそう思った。それは願望に近いのかも知れない。そうであって欲しいと、強く自分に言い聞かせているだけかも知れない。
まだ男と交わる前にも関わらず、気が付くと僕は射精していた。
竹中さんから所在地を教わった翌日、僕は早速その場所を訪ねた。本当は朝から講義があったのだが、学校よりもこちらを優先した。つまり、サボったのだ。
十九年間の人生で初のサボり。皆が講義を受ける中、見知らぬ土地へ向かう電車の車内で、僕はひとしきりソワソワしていた。
降り立った場所は、都心からやや離れた静かな町だった。賑やかさはなく家賃相場も安いため、住みやすい町として一定の人気があるらしい。
だが、僕が竹中さんのメモをもとにたどり着いた先は、とても住みやすいと言えるところではなかった。
自然豊かな広い公園。――の、奥まったところ。頭上に生い茂る木が日光を遮り、ややじめっとした感触が肌に伝わる。
嫌な予感がした。メモが記した場所は、この先で間違いなかった。薄暗い湿地帯の先に目をやると、〝何か〟があった。
ふと幼少の記憶が浮かんだ。小学生時代だ。
「じゃあ終わったら秘密基地集合ね」
クラスの誰かが言った。分かった、と何人かが答える。その中には僕はおらず、本を読んでいるふりをしながらその会話を聞いていた。
福岡の田舎には、人が立ち入ろうとしない、未開発の場所がいくつもあった。小学生の彼らはその場所を『秘密基地』と呼び、各々何かを持ち寄ってそこに集まる。携帯ゲーム機やカードゲームを持ってそこに集まる彼らに、僕は深い憧れを抱いたのを覚えている。当然、秘密というくらいだから僕はその場所を知らない。
僕が目にした〝何か〟とは、テントだった。周囲にはガラクタが散らばっている。テントの骨組みと木の枝に結ばれたロープには、衣類がかけられている。
秘密基地なんて可愛いものではない。都内の住みたい町として紹介されているこの町において、秘密にしておきたい場所という意味では間違ってはいないかも知れないが。
『相当な曲者だけど』
昨日の竹中さんの台詞が蘇る。直接会ったわけでもないのに、その台詞に強い説得力がこめられているのを思い知った。
僕はしばしそこに佇んでいた。曲者と呼ばれる男の住居に茫然としたのもあるが、中に踏み込む前に様子を窺う意味もあった。
それで分かったこととしては、シゲオと呼ばれる男性は、今はここにいないことだ。風に煽られる衣類を見るにそこで生活していることは確実だが、中に人の気配もなく、現在は外出しているらしい。テント暮らしをしている男性が何をするのかは分からないが、セキュリティもへったくれもない〝家〟をわざわざ空けるのだから、きっと〝生きるための何か〟をしているのだろうと何となく想像する。
シゲオさんの帰りを、少し離れたベンチに腰掛けて待つことにした。
テントを見つめながら、シゲオさんとは何者なのかを思い巡らせる。伝説とまで呼ばれている男優が、こんな生活を送っているのだ。しかも八十二歳だと言う。変な人しかいない業界においても、ここまで常軌を逸した人はいないだろう。真夏や真冬はどうしているのだろう、という疑問も浮かぶ。今日のような穏やかな春の陽気ならまだしも。
「誰だ、あんカ」
背後からかけられた声に、僕はビクッと体を震えさせた。「誰だ」のあとに続く言葉は聞き取れなかったが、ゆっくり振り返る。
謎のメーカーのキャップを被り、汚れてボロボロの上下ジャージ姿の老人が、こちらを見つめていた。腰が曲がっているせいで、座っている僕と目線がほぼ変わらない。だが、その顔つきは八十代という年齢を感じさせない、凛々しさを覗かせていた。
「シゲオさんですか?」
右手に酒を握りしめた男に、ポツリとそう尋ねた。
「誰だあんカ」
僕の言葉には答えず、老人は同じ問いを繰り返した。この老人、どうやら〝た行〟の発音が苦手なようだ。「誰だあんた」と言いたいらしい。
僕は慌てて立ち上がった。
「浅倉達弥と申します。○○というセクシー男優の事務所で、チェリー達男という名前で活動しています」
老人は表情を変えない。僕は続ける。
「仕事の件でアドバイス等を頂きたく、竹中さんの紹介でこちらを訪ねさせて頂きました。失礼ですが、シゲオさんでお間違いないですか?」
「違うけど」
「……は?」
僕は言葉を無くした。一気に顔が紅潮するのが分かった。
「あんカ、そんな仕事してるんだね」
老人は僕をまじまじと眺めながらそう呟くと、手に持った酒を一口飲んだ。
卒倒しそうだ。いや、むしろ卒倒してほしかった。倒れて、家のベッドから目覚めて、すべてが夢だったと思いたかった。
「人は見かけによらないねえ」
「え、じゃあ、このお住まいは誰が……」
最早満足に言葉を発することもままならなくなってしまった。それほどまでに僕が負った傷は深い。
「ここは俺んキ。だけど、シゲオって奴は知らないよ」
――その言葉のあまりの衝撃に、僕に軽度の記憶障害が襲った。見知らぬ町を彷徨った先に一軒のファストフード店を見つけるまで、記憶は僕自身の肉体から離れたところにあった。
軽食を取って少し心を落ち着かせると、迷いなくスマートフォンを操作した。心ここにあらずの間に来ていたメッセージには気にも留めず、僕はある人物に電話をかけた。
「もしもーし」
竹中さんだ。抜け殻状態にさせた元凶と言っていい。
「シゲオさんじゃなかったですよ。どういうことですか?」
一連の出来事を事細かに話した。ショックのあまり、あの老人にきちんと別れの挨拶が出来たのかも、ここまでどうやって行き着いたのかも覚えていないということまで。
「何だったら、竹中さんが電話に出るまで上の空だったんですからね」
目の前に置かれたセットのドリンクの中身でさえ、今の僕には分からない。
電話越しでは竹中さんの軽快な笑い声が響く。
「笑い事やないですよ!」
「いやいや、十分笑い話じゃん。見ず知らずの年寄りに『僕はセクシー男優です』って自己紹介したんだろー?」
竹中さんは呑気だ。僕が犯した過ちの大きさも知らず。
「ちょっと……無責任やないですか? あの住所、竹中さんが教えてくれた場所で確かに合っとったとですよ?」
そうだ。何度も確認したため、あの場所が間違っているということは決してないはずだった。
「合ってたんだろう?」
笑いを堪えた口調で竹中さんは言う。
「はい」
恥ずかしさも薄れ、今は苛立ちの感情も芽生えてきた。
「そこに住む年寄りに人違いだって言われたんだろう?」
「はい」
「じゃあ、確実にその人がシゲオさんじゃないか」
「……はい?」
竹中さんの言葉を理解できなかった僕は、少しだけ冷静になれた。
「浅倉君はさ、初対面の人に『セクシー男優ですか?』って聞かれたら正直に答えるのかい?」
ゆっくりとそう尋ねられて、僕ははっとした。
「いえ、答えないです」
「だろ? 誰だって隠し事のひとつやふたつあるさ」
確かにそうだ。完全に冷静を取り戻した僕は、周囲の視線が僕に注がれていることに気付いた。いかに取り乱していたかが分かって、今ではさっきと違った理由で恥ずかしかった。
「もう一回行ってみな。ここまで来たんだ。諦めきれないだろう?」
電話越しの竹中さんの言葉に、僕は奮い立つ何かを感じた。そうだ。片道一時間弱、二度の乗り換え――そこまで過酷な移動ではないが、何より今日は学校をサボってきているのだ。その覚悟を、たった一度撥ね返されただけでふいにするわけにもいかない。
「それにしても――」
竹中さんは思い出したようにクックッと笑う。
「もういいでしょう。恥ずかしいからこれ以上は――」
「いや、違う違う。そのことじゃなくてさ」
「何ですか?」
「浅倉君って、熱くなると方言出るんだね」
竹中さんのどうでもいい発見に、返す言葉のひとつも思い浮かばなかった僕は、そっと電話を切った。
「シゲオさんですよね?」
再びさっきの地に赴いた僕は、ベンチに腰掛ける老人にそう尋ねた。
「だから違うってば」
老人はまた否定する。だが、今回は引かなかった。
「いいえ、知ってますよ。あなたが『伝説の男優』と呼ばれている方だと」
「伝説ねえ」
と呟くと、持っていた酒をあおった。ベンチの手すりには空の容器が一本あった。彼は日中にもかかわらず、少なくとも二本の酒を空けていた。
「こんなみすぼらしい伝説があるかね」
老人は笑う。隙間から覗いた歯は半分近く欠損しており、残された歯も今にも取れそうだ。笑い声から漏れる吐息からは強い酒の臭いがした。
「分かりません」
僕はきっぱりとそう答える。
「『伝説』と呼ばれるものに出会ったことが今までないものですから」
そう簡単に伝説を目撃してしまえば、それはもう伝説とは呼べない。みすぼらしい格好でも、酒臭くても、歯も家もなくても。事実は小説より奇なりというものだ。
「面白いね、君」
老人はそう言った。
「ありがとうございます」
僕は再び問い詰める。
「シゲオさんで間違いないですね?」
と僕が言うと、老人は手に持った酒をすべて飲み干した。はあっと息を吐き、ややあって、
「……ああ、そうだよ」
と絞り出すようにそう答えた。
伝説かどうかは分からないけどね、と付け足すと、手すりに空になった酒の容器をそっと置いた。
「で、何の用だっカっけ?」
彼が伝説の男優であると認めたばかりに、不思議と言葉に独特な雰囲気を覚えた。伝説というフィルターで覗くとこうも変わるのかと、途端に僕の緊張は高まる。ジャージの汚れや空いた穴も、幾多の戦いを乗り越えた証に見え、手すりに並べられた空の容器も、敵から奪った高価な戦利品に見えた。
僕は〝伝説〟にどんなイメージを抱いているのだろう。自分で自分が分からなくなった。
「僕は、男優のトップになりたいんです」
ただのホームレスの老人だと心の底で言い聞かせながら、僕は口を開いた。
「率直にお願いします……あの、弟子にさせて下さい!」
目を合わせると、上手く言葉が出てこなかった。単刀直入にそう言うと、僕は深く頭を下げた。
「今時弟子入りかい」
とシゲオさんは言った。表情は読み取れなかったが、口調から察するに笑っている。
本心を言えば、僕もそう言うつもりはなかった。アドバイスを貰いたい、迷惑でなければここに通わせてもらいたい――伝えたかったことはこれだった。だが、生ける伝説を前に僕の口からこぼれた言葉は、『弟子入り』と言う陳腐なものだった。
「時代は関係ありません」
言葉に出してしまった以上、引っ込みがつかなくなった。頭を下げたまま、僕はそう答えた。
「何のカめにトップになるのかい?」
シゲオさんは、頭を垂れる僕にそう問いかけた。
「何のために……」
「お金のカめ? それとも、自分の欲求を満たすカめ?」
僕はゆっくりと顔を上げ、シゲオさんと向かい合う。その目は真剣だった。
「……嘘だと思うかもしれませんが」
自ずと口が動いた。
「そもそものキッカケは学生時代のひとつの恋なんです」
緊張こそしているが、さっきの言葉に詰まっていた自分が嘘のように次々と言葉が生まれてくる。
愛染ゆかりの名を出すと、シゲオさんは首を傾げた。最近のセクシー女優事情は知らないらしく、僕は画像と動画を見せた。
ほう、とシゲオさんは唸った。
「体クきは物足りないけど、エロい雰囲気をまとってる子だな。胸や顔なんかはどうにでもなるが、あのオーラはなかなか出せないぞ」
思わぬ太鼓判だった。
「僕、彼女とクラスメートだったんです」
僕が地味で根暗だったこと、彼女がそんな僕にも気さくに接してくれる優しい人だったこと、そして僕がそんな彼女のことを密かに好いていたこと。
ただの思い出話になってしまったが、シゲオさんはちゃんと聞いてくれた。
上京したのは進学のためで、彼女を追いかけたつもりは毛頭なかった。違う世界の住人なのだから、彼女が東京へいったということさえ知らなかったくらいだ。その後奇跡的な再会を果たした僕ら。だがそれはときめきの欠片もない、ハプニングと言っても間違いではない。でも――。
「でも、これは……この奇跡は、自分にとって最後のチャンスだと思うんです」
高校二年の秋。文化祭が僕らを二人きりの空間に導いてくれたあの時。あの時は絶好のチャンスをみすみすフイにした。
「トップになって指名するんです、彼女を。――あんな偶然、もうきっと来ない。だったら、今度は自分の力で二人きりの空間を作るんです!」
そして、四天王ばりのテクニックで藤村さんを喜ばせたうえで、一昨年言いそびれたことを伝えるのだ。
「もう彼女は愛染ゆかりなんだよ?」
シゲオさんは口を開いた。
「君が彼女を指名できカとしケも、その先に待っケいるのは、ひコりのセクシー女優だ。穢れのない女子高生じゃない」
「……」
「それは理解できるか?」
そうだ。あの時僕が見たのは、セクシー女優の愛染ゆかりだ。『肩書きに左右されるな』と相内は言ったが、最早今の彼女は肩書きによって生まれた全くの別人だった。官能的な声を操り、刺激的な下着を身にまとったその姿は、卒業アルバムの藤村彩季とは似ても似つかぬ他人だ。
「分かっています」
僕は短く答えた。さっきあれだけ長々と語っていたものと同じとは思えないくらいに、今の口は動きが堅い。頭もうまく動かない。出来たことといえは、実直な目で、目の前の老人を見つめることだけだった。彼もまた何も言わずこちらを見る。
永遠に似た数秒間を経て、先に口を開けたのは老人の方だった。
「……分かっカ」
一体何に対しての『分かった』なのか。分からなかったが聞き返すことはせず、彼の次に続く言葉を待つことにした。
「なっケあげるよ。君の師匠に」
藤村さんの変わり果てた姿を見た時にも、伝説と呼ばれるセクシー男優の年齢を知った時にもない、人生でこれまでにない衝撃が走った。ひと言にまとめることは出来ないが、それが〝喜び〟から生まれたものであることは分かる。なぜなら、今にも飛び上がりそうだからだ。
「ホント……ですか?」
代わりに出た言葉があまりに間抜けで、あまりに情けない。
「ああ、ホントだよ」
「ありがとうございます……」
飛び上がり損ねた僕は、その言葉を吐き出すと同時に立つ力を失い、ヘナヘナと倒れこむようにシゲオさんの隣に腰掛けた。
「そうだなー、トップになるにはやっぱり修業が必要だな」
修業、という言葉が強く引っかかった。
「一体、どんなことをするんですか」
と言って唾を飲む。自慢にならないが、僕はこれまでの人生で『勉強しかしてきていない』と言っても過言ではないのだ。僕は想像力というものが著しく欠如しているらしい。初めての仕事の前の待ち時間でもそうだったが、これからどういうことをするのか、という想像が、そのきっかけさえも浮かばないのだから。
「そうだなー、まず準備しないコいけないから、それを用意してからだな」
シゲオさんがそう言ってから、僕は慌てて荷物からメモ帳を取り出す。
「何を用意したらいいですか?」
「とりあえずは……生クリーム」
「生クリーム?」
耳を疑った僕の手は、生の四画目で止まった。
「うん、多めに用意しといてね。――あとはホールケーキのスポンジと、ティッシュと、エッチな小説ね」
指を折りながらシゲオさんは言う。
「コりあえずこれだけあればいいかな」
この準備物から修行のイメージが浮かばないのは、これも想像力が足りないせいなのだろうか。ほかの人間、例えば相内にかかれば何をするのか分かるのだろうか。
~ ~ ~
「藤村……彩季ちゃんね」
目の前の男は、わたしの履歴書を眺めながらしきりに何かを呟く。
「はい……」
沈黙が嫌だったのでそう返したが、男がわたしを呼ぶ為に名前を口にしたのではないことは分かっていた。
写真もなければ経歴も志望動機も書かれていない履歴書。名前や趣味特技が分かればそれで良いらしい。十五分くらいで書き上げたそれのどこを男は眺めているのか、わたしには検討がつかなかった。
「ユカリって名前はどう?」
沈黙を破ったのは、男の方だった。考えていたのは女優としての名で、わたしの名前をずっと見ていたらしい。
「はい、良いと思います」
実は良いとも嫌だとも思っていなかったわたしは、何の感情もこもっていない言葉を返した。さしずめ『フジムラ・サキ』を『フジ・ムラサキ』と区切った際に、紫色を連想したんだろう。女優名とは、こんな親父ギャグで決まるものなのか。
「じゃあ名前はユカリで決定ね。苗字の方は、それに合うやつを追々考えるから」
そう男は言うと、わたしは
「分かりました」
とあり合わせの言葉を返した。
「で、早速なんだけど仕事の話をしてもいいかな?」
わたしがハイと答えるのを確認すると、男は早口気味に話し始めた。
「ユカリちゃんが来る前にね、もうひとり女の子が来て、その子のデビューもその場で決まったのね。だから今回は、『大型新人、二ヶ月連続デビュー』みたいな形で大掛かりに打ち出そうと考えてるんだ。君がその第二弾。スレンダーなEカップの清純派、みたいなね。第一弾の子がいわゆるダイナマイトボディだから、丁度タイプも違うし――」
わたしは話半分で聞いていた。名前も偽名なら、Eカップも嘘。偽りだらけの説明に、真面目に耳を貸す気にはなれなかった。こんな大々的にデビューできるのは稀で、わたしは運がいいらしいけれど、そんなことはどうでもよかった。この仕事を選んだのはあくまでお金の為で、〝あの人〟の為だ。有名になりたい気持ちはない。
「これで人気が出れば、今計画中のセクシー女優のアイドルユニットのオーディションにも出させてあげるよ」
溜め息が出そうになるのをぐっと堪える。そんな餌に飛びつくわたしじゃない。
「――それじゃあ、今日は帰っていいよ。撮影の日が決まったらまた連絡する。その頃には名前も決めておくから」
分かりました、と六十パーセントくらいの愛想笑いを見せた。ほんのちょっとでも自己顕示欲というものがあれば、満開の笑顔を見せることも出来ただろうか。今のわたしは、このあとのバイトのことしか考えていなかった。
立ち去ろうと片足を引いたその時だった。
「あ、あのひとつ良いですか」
わたしは思い出したようにひとつのお願いを持ち出した。すぐさま足を引っ込めて、姿勢をただす。
「可能であればでいいんですけど、苗字に〝愛〟の字を使わせてもらえませんか?」
~ ~ ~
3
修業が始まって一週間が経てば、僕の体は多少なりとも変化を遂げていた。
見た目には何の変化もないのだが、まず大きく変わったのが生活習慣だ。早朝から始まる修業のお陰で、何もない日でも午前五時半にはバッチリと目覚める体になってしまった。再度眠りにつくことなく体を起こすと、そのままキッチンへと足を運ぶ。
修業の許しを得た翌日、用意するように言われたものを抱えて再び公園に向かった。シゲオさんは同じ場所に居たが、門前払いを食らった先日とは打って変わって、温かく迎えてくれた。
『トップを目指すには、四天王の技を使えるようになればいい』
とシゲオさんは言った。その手には例によって酒のカップが握り締められている。
あっさりとした口調だったが、勿論簡単なものではない。シゲオさんは僕に、四天王それぞれ四人の〝技〟の会得への修業内容を教えてくれた。
『その技の会得に必要なのが、〝コレ〟ですか?』
ベンチに置かれた、大量の生クリーム等の入った袋を見ながら尋ねた。
僕の釈然としない表情を、シゲオさんは歯を見せて笑った。ボロボロの歯を見せながら彼は近づき、シワシワの紙を一枚、渡してきた。
『生クリームと官能小説は、家で出来る修業だ。そこに詳しく書いケある』
その紙こそが、今冷蔵庫のドアに貼られているそれだ。冷蔵庫の扉を開ければ、たくさんの生クリームとスポンジケーキがあった。
独り暮らしの男子大学生の中身とは思えないな。とか考えながら、奥に追いやられていたミネラルウォーターを取り出した。
修業其の一。素手ナッペ。
――スポンジケーキに生クリームを塗る、ナッペと呼ばれる作業。それを素手で行うのだ。厚みの差がない、綺麗なものにするには、手先の繊細さが必要不可欠だ。
『手の感覚を研ぎ澄まさなきゃ、サイキッカー南みたいな〝イかせるテク〟は得られないぞ』
そう、これはサイキッカー南さんの武器である〝ソフトタッチ〟を会得するための特訓だった。だが、酒をあおりながらのその言葉には、どうも説得力がない。
僕が訝しんでいるのに気付いたシゲオさんは、
『ちょっと見せケやるよ』
と言って生クリームの入った袋を漁った。この場で実演してやるというのだ。生クリームを泡立てるのを手伝いながら、ほんとに出来るのかと疑いの目でスポンジケーキを準備するシゲオさんの姿を見ていた。それから数分して、僕は少しでも彼を疑ったことを後悔するのだった――。
今日に至るまでの修業の中で、シゲオさんの作品に匹敵するものはまだ作れていない。シゲオさんよりも時間をかけ、神経を指先に集中して作ってみても、出来上がるのは見せることすらおこがましいものばかりだ。素手ナッペ……陳腐なネーミングの裏には、深淵のような奥深さが隠れていた。
気付けばミネラルウォーターのキャップも、無意識に手の腹で開閉していた。指先の感覚を鈍らせたくないからだ。
『折角だから、サイキッカー南のもう一個のテクも教えケあげるよ』
そう言って彼が僕に伝授してくれた修業法が、その名も
修業其のニ。ティッシュをイかせろ! だ。――勘違いして欲しくないが、名付け親はシゲオさんである。
内容を大きく三つに分けて説明する。一、天井からティッシュを紐で吊るす。二、ティッシュが目の前にある体勢を取る。三、ティッシュが動かないよう優しい口調で官能小説を朗読する。そう、意味がわからないのである。
『これを体得できた頃には、声だけでイかせる〝ソフトボイス〟が身につく』
調理台の上の壁から吊られたティッシュを見る度に、その言葉が脳内で再生される。今なら彼の得意げな表情付きだ。
『漫画か何かを読まれたんですか?』
全ての修業の内容を聞いた後に、僕はそう尋ねた。冗談のつもりだったのだが、彼から返ってきた言葉は、それくらいに単純なものだった。
『昔ある映画にハマっケね。それを思い出しカんだよ。年取ったカンフーの達人が〝若いの〟に突飛な修業を課して鍛える、っケいう映画』
修業が始まって一週間、僕の体は変化を遂げた。修業とやらに一日の半分以上を費やす習慣に、僕は頭までどっぷりと浸かってしまったのだ。更に恐ろしかったのは、そのとても人様には見せられない修業を何の後ろめたさもなく毎日こなしている自分に、これっぽっちも迷いがなかったことであった――。