第38話:準備
「なんで俺がこんな目に…」
「しっかりしなさい。自分の為でしょ。ほらここ間違っている。ここは空欄だし」
宗一郎は目の前に山と積まれた書類に苦戦していた。例えアリッサが手取り足取り教えてくれたとしても、彼にとっては書類の方がゴブリンキングよりも強敵に見えた。
◇
リーザを解放したのも束の間、リーザは自分が開放されたことに気づいてないため、宗一郎とアリッサによる説明が続いていた。
中々、リーザは理解してくれなく、「リーザは奴隷でなくなったら何になるのですか?」という質問を何回も繰り返していた。宗一郎はそれに対して「一般人だよ」とか「俺達の仲間だよ」とか返答していたが、リーザは納得いかない様子であった。
「私にはリーザの気持ちがわかるよ。リーザも奴隷以外の生き方を知らないんだね」
マリーンの言葉は核心をついており、リーザはコクコクと頷いていた。
「私にも経験があるから……生まれてから今まで奴隷だった自分が奴隷から開放されたら何になるのか?その不安って奴隷になったことがない人にはわかんないよねー?」
宗一郎とアリッサはムグっと口を紡ぐ。アリッサは1年程奴隷を経験したことがあるが、実際の奴隷とは似ても似つかないため、意見を出すべきではないと判断し黙った。
「そこで私から1つ提案がありまーす」
ピンと人差し指を立ててマリーンは宣言する。宗一郎との初対面のような陽気さがそこにはあった。
「ソウイチロウの元で時限的な奴隷をしてみたら?」
「時限的……」
「つまり時間が限られている奴隷ってことね。そうだねー、1年くらいで良いんじゃない?さっきの感じだと、リーザはソウイチロウ達と旅をするんでしょ。だったらその中で自分が何になれるのか、何になりたいのか、見つければ良いんじゃないかな?1年くらい旅していればリーザの考えも変わって答えが出るって」
「……わかった。それでいこう。リーザもそれで良いか?」
「リーザはソウイチロウ様の奴隷ですから、ソウイチロウ様がそれで良いと仰るのなら……でもリーザはずっとソウイチロウ様の奴隷でいたいです」
アリッサの眉が僅かに動く。
「ずっと奴隷って。奴隷から開放された方がやれることもやれるし、得だぞ。まあ、こういうのも旅しながら教えていけば良いか。で?奴隷手続きってどうやってやるんだ?」
「奴隷の鎖をつけさせるなら特別な手続きが必要になりますが、一般的な奴隷なら役所に書類を提出して頂ければそれで十分です」
「よし!リーザ、役所に書類を出しに行くぞ」
「その前にソウイチロウには身分登録をしてもらわんと」
「やること一杯だな。さっさと終わらせちまおう」
宗一郎は意気揚々と役所に向かったが、ドーンの持ってきた書類の山を見た瞬間に急激にテンションが落ちた。
「ナニコレ?」
「まずはソウイチロウ様とアリッサ様の身分登録書、そういえばリーザさんは身分証明書を……お持ちでない、はいわかりました、リーザさんの身分登録書、リーザさんの奴隷書、ソウイチロウ様の奴隷購入書、リーザさんの同意書、奴隷契約書、報奨金の受領書、リーザさんの損害賠償書、これはソウイチロウ様への報奨金を当てますので軽く書いて頂いて結構です」
「これで全部ですか?」
宗一郎は恐る恐る聞く。決してドーンの「まず」という発言を聞き逃したわけではないが、一縷の望みを持って聞いたのである。
「いえいえまだまだあります」
ドーンは追加の書類を持ってきた。
「リーザの書類は俺がやる必要はないんじゃ……」
「リーザさんは文字を書けますか?」
「お恥ずかしながら書けません」
「では奴隷主であるソウイチロウ様にお願いする他ありません」
「そんなー」
文字を書けない一般人は相当数いる。そのために職員が書類に代筆するのが認められているのだが、今は被害状況の確認と復興の手続きに職員が出払っていて、そのサービスを利用出来ない。そのため宗一郎は大量の書類と格闘しなければならなくなった。
音を上げる宗一郎を横目に見ながらアリッサは手早く自分の書類に書き込んでいく。一通り終わった所で助けに来たのが冒頭部分である。
宗一郎が書類の山に音を上げるのも仕方ないと言える。
宗一郎はガイアの文字の読み書きは出来るが、簡単なものだけである。書類に使われている難解な文章など読めるはずがない。単語を拾い上げ、繋げて読むことが精一杯である。
また読み書き出来ると言っても、ガイアの文字は宗一郎にとって外国語である。もし中高と英語を習った日本人が、いきなり英語の書類に英語でサインしろと言われて出来るだろうか?
宗一郎はそんな局面に立たされているのである。
しかも途中からアリッサがラシルドに呼ばれて宗一郎一人で書類と悪戦苦闘するはめになった。リーザは当初から罰の悪そうな顔をして、書類と向き合う宗一郎を応援している。
そんな地獄のような机仕事が終わったのは夜もふけて日が変わろうという時であった。
「終わった」と机に突っ伏した宗一郎は「やっと寝れる」とそのまま目をつぶろうとしたが、ダンッという音で跳ね起きた。
「色々間違っていますので、直して下さい」
ニコッと笑ったドーンは宗一郎にとって悪魔が微笑んでいるようにしか見えなかった。
修正が終わって宗一郎が就寝したのは、2時過ぎ。夕方に奴隷主命令と言ってリーザには就寝するように命じていた。起こすのはマズイと思い、抜き足差し足でドーンの屋敷の割り当てられたベットに寝転がり泥のように眠った。アリッサとリーザの寝息が良い子守唄になった。
宗一郎が何故こんなに急いでいるのかと言うと、アリッサが急かしたからである。
「私はナターシャを救うため、宗一郎は平穏無事な生活をするために、この町からはすぐに出るべきね」とはアリッサの言であるが、内心は宗一郎に群がってくる若い女をシャットアウトするためである。「ポッと出の女になんかやんないよ」というのが彼女の本心であった。そのため一日で書類を仕上げるハメになった宗一郎がクタクタになったのである。
その苦労は報われて、リーザは正式に宗一郎の奴隷となった。
翌朝アリッサに起こされた宗一郎は、寝ぼけ眼で朝食を取り、役所に向かった。
道中通行人から声をかけられた。宗一郎は適当に返したが、女性に抱きつかれると一気に目が覚めた。心地よい感触を楽しむ間もなく、その女性はアリッサに吹き飛ばされた。
役所には既にドーン、ラシルド、マリーンがいた。
「おはよう」
お互いに挨拶を交わしてから本題に入る。
「さてこれがダンの町よりソウイチロウ様に送られる報奨金です」
ドーンが布袋を置く。
「国境警備兵の報告も届きました。リーザさんによる暴行が確認されましたが、リーザさんは誰かに操られていたようだと、彼らは一様に証言しています。その賠償金も差し引いた上で、ソウイチロウ様に提出して頂きましたネリーの討伐報酬を合わせ、更に町長権限で少し色をつけまして大金貨2枚になります。大金貨では使いづらいでしょうから、1枚分は小銭にしておきました」
布袋の中には大金貨1枚、金貨、大銀貨、銀貨が数枚と、膨大な大銅貨、銅貨が入っていた。
「大金貨2枚?そんなにもらっていいの?」
「大金貨ってすごいのか?」
「そっかソウイチロウはお金の価値が……大体銀貨1枚で宿屋に泊まれるわ」
この世界では、銅貨、大銅貨、銀貨、大銀貨、金貨、大金貨の順に価値が上がっていく。日本円で言うと大体銅貨1枚が10円に相当し、大銅貨は100円と上がっていき、大金貨は100万に相当する。日本に比べて、物価の安いこの世界では銀貨1枚、1000円で宿に泊まることができる。
宗一郎が手にした大金貨2枚というのは日本円で200万となり巨額であった。
「しかしもう1つの大金貨も小銭にして欲しいのだが」
「おやおやそうでしたか。しかし小銭が増えますと持ち運びに不便ですよ」
「持ち運びは何とかなるけど、大金貨あると、3等分出来ないじゃん」
「はい?3等分とは?」
「俺だけがこの町を救ったわけじゃないから、俺とアリッサとリーザで3等分。あっ、マリーンとラシルドの分を忘れていた。でもラシルドは兵士だから関係ないか」
「私はいらないわ。ラシルドの為にやったことだから」
「そうか……なら3等分したいから、大金貨を両替ーー」
「ソウイチロウ、それはあなたのお金よ。もし私が少しでも貢献したというのなら、何かプレゼントが欲しいわ。それで十分よ」
「プレゼント……それで良いのか?」
「ええ」
「リーザは?」
「リーザはアリッサ……さんと同じで何も要りません。そのお金はソウイチロウ……《さん》のものだと思います」
宗一郎は奴隷契約書を提出する時に、詳細条件として2項目ほど明記していた。
奴隷契約書は両者のサインの他に、詳細条件を記入する欄がある。この国において奴隷への体罰は基本的に禁止(役所に届け出た奴隷のみに適用、また守られない例も多々ある)なのだが、この詳細条件に違反した場合はその限りではない。ただし詳細条件が余りにも細かすぎたり、厳しすぎると奴隷への負担が重くなるため、役所が認めない場合もある。
宗一郎が詳細条件に記入したのは、「『様』付け禁止。せめて『さん』付け。可能なら呼び捨て」と「自分、引いては奴隷への卑下の禁止」であった。
宗一郎としては無条件でもよかったのだが、気恥ずかしいために1つ目の条件を、リーザの心の中に巣食っている奴隷根性を取り除くために2つ目の条件をつけた。
その結果リーザは宗一郎とアリッサを「さん」付けで呼ぶことになった。
「そっか。リーザもそう言うのなら。ドーンさん、やっぱり両替は大丈夫です」
「そうですか。ではこのままお渡ししますので、受領証へのサインを」
「ここですね」
「はい、ありがとうございます。これで手続きは全て完了となります」
再度魔物討伐のお礼を言われて、宗一郎は役所を後にした。
「ソウイチロウ、俺からも再度お礼を言おう。この町を救ってくれて感謝する」
「良いよ。気にすんな。そういえば、この手紙は返しておくぜ」
それはラシルドが宗一郎への信頼を託すために預けた、ジリの寝返りの手紙である。
これからラシルドはこの手紙を使って、ジリを引退に追い込まなければならない。
「すまんな」
宗一郎からラシルドへと手紙は返された。
「それで?お前はこれからどうするんだ?」
「そうだなー。アリッサの仲間を助け……ってアリッサは何処までラシルドに伝えたんだ?」
宗一郎が書類と悪戦苦闘している時、アリッサはラシルドに身の上話をしていた。
「全て伝えたわ。私が元皇女だったことも、魔族の力が発現したこともね。その上でラシルドは協力してくれるって」
「そうか。ラシルド、感謝する」
「良いってことよ。俺には一生返せないほどの恩がお前にはある。この町のみならず、シャフタール家の命を救ってくれたお前にはな」
「なら話が早い。アリッサの仲間を助ける為に金稼ぎをしたいんだが……」
「待て待て。その前に俺から提案がある。一度タージフの王都に行って、我が王と会ってくれないか?」
「王と?」
「ああ、王は絶対にお前を気に入るし、何よりお前ほどの戦力をみすみす逃したとあっては王に面目が立たない。もしかしたら王もアリッサの仲間を取り戻すのに協力してくれるかもしれない。それに今は夏の終わりで直に冬が来る。南の王都で冬を乗り越えるってのも手だと思うぞ」
「どうする?アリッサ、リーザ」
「私はソウイチロウに従うわ」
「リーザもソウイチロウ……さんに従います」
「わかった。一度王都へと行ってみよう。もしかしたら王様が助けてくれるかもしれない」
アリッサとリーザが頷く。
「そうか。すまないな。我儘を言って」
宗一郎は王都へ向かうと決めたら、ラシルドが王都への道を示した魔法の筒をくれた。その筒は高級品であり、金貨数枚はする。日本円で言うと何十万もの大金である。
それほど値がはる理由は、一度魔力を込めれば何年も持つ耐久性と、国が生産管理しているためプレミアがつくからであった。生産管理理由は軍事的なものであった。詳細な地図のないこの時代では、簡単に都市の場所が判明する魔法の筒の重要性は極めて高かった。安価で売れば敵国に流れ、軍事目的に利用されるため、高値でしかも限定生産で売る必要があった。
ピョートルが宗一郎に与えたのも同種の魔法の筒だが、こちらはユティエ村を指しているため、ラシルドのよりずっと安く、金貨1枚で買える代物だった。
「ではシャフタール家へと向かう」
宗一郎と別れたラシルドがそう宣言すると、役所から姿を見せたドーンがシャフタール家のお抱え奴隷術師サルクを引きずってきた。ラシルドは昨夜の内に事情を話しており、ドーンはラシルドの計画に同意して協力を申し出ていた。ラシルド、マリーン、ドーンがシャフタール家に向かって、残されたハインツの指揮の下で復興が行われることが決定していた。
彼らは颯爽とダンを後にした。