第1話「目覚めた橋は、あと三十秒で落ちる」
目を覚ましたとき、俺の視界は激しく揺れていた。
耳をつんざくのは、足元から響く木材の悲鳴と、遥か眼下で岩を砕く濁流の轟音。そして、周囲で顔を青ざめさせている人々の悲鳴だった。
状況を把握するより先に、頭の中に明確な『量』が流れ込んでくる。
ここは深い渓谷にかかる古い吊り橋の中央。
俺を含めて、橋の上にいるのは十五人。
風の強さ。橋を支える麻縄の摩耗具合。十五人の体重の合計。
理由はわからない。自分の名前すらぼやけているというのに、この橋が限界を迎えるまでの時間だけが、絶対的な確信を伴って弾き出された。
――あと、三十秒。
「きゃあああっ!」
鈍い音を立てて、右側のメインロープが弾け飛んだ。
足場が大きく右へ傾き、腐りかけた踏み板が次々と谷底へ落下していく。橋にしがみついていた数人が滑り落ちそうになり、慌てて残ったロープへとしがみついた。
対岸まではおよそ十メートル。走って渡り切るには傾きすぎているし、何より踏み板が残っていない。
残された時間は、二十秒を切った。
「だ、誰か! 助けてくれ!」
「ルミナ様、どうかご加護を……ッ!」
村人らしき人々が、涙を流しながら祈りの言葉を口にする。
ルミナ。加護。その言葉を聞いた瞬間、彼らの身体の奥底にある小さな熱のようなものが、俺の感覚に引っかかった。
一人一人が持っている力は微弱だ。火を起こす程度の魔力、風を少しだけ吹かせる力、あるいは単なる腕力。どれも、この崩落から十五人全員を救い出すには到底足りない。単独では何の意味もなさない、小さな数字の羅列。
だが、全部を足し合わせればどうだ?
俺の左手首が、焼け焦げるように熱を持った。
視線を落とすと、そこには見慣れない幾何学的な紋章が光を放っていた。直線が折れ曲がり、一つの形を成している。
それが何を意味するのかは思い出せない。だが、使い方だけは知っていた。
「助かりたいなら、残った縄を握れ。俺に力を貸すと、自分で決めた者だけだ」
俺の口から出た声は、酷く冷静で、自分でも驚くほど平坦だった。
泣き叫んでいた村人の一人が、すがるような目で俺を見る。
「た、助かりたい! 力なら、いくらでも貸す!」
「私もよ! お願い、子供だけでも……っ!」
叫べない者も、残った縄へ手を重ねた。老人は震える指で握り、母親は子供を片腕に抱いたまま、もう一方の手を伸ばす。十四人全員が、俺の命令ではなく、自分の意思で力を差し出した。
その瞬間、十四の小さな熱が俺の感覚へ接続された。
生きたいと願うだけでは足りない。何のために、誰へ力を預けるのかを理解し、自ら示した意思だけを、俺の力は『同意』として受け取るらしい。
いける。俺が対象を認識し、本人が目的を選んで力を預けたなら、束ねられる。
――総和。
心の中でそう唱えた瞬間、十四人分の力が俺の左手首に向けて一気に収束した。
農作業で鍛えられた筋力。微弱だが確かに存在する身体強化の加護。一瞬の風を呼ぶ力。
バラバラだったベクトルが、俺という一つの演算器を通して同じ方向へとまとめ上げられる。同時に、全身の筋肉と骨が軋みを上げ、頭痛が視界を白く染め上げた。当然だ。他人の力を十四人分も一つの肉体で処理すれば、無事で済むはずがない。
だが、俺の負担や痛みなど、計算に入れる必要のない不都合な項に過ぎない。無視すれば済む話だ。
残り時間、十二秒。
束ねた腕力を両腕へ、風を橋の下面へ流す。落ちかけていた橋床が一度だけ持ち上がり、対岸まで傾いた細い道になった。
「今だ。走れ!」
村人たちが一列になり、残った踏み板を駆け抜ける。老人を両側から支え、母親が子を押し出し、十三人が対岸へ転がり込んだ。
最後尾の小さな子供だけが、恐怖で足を竦ませている。
残り時間、五秒。
橋の左側のロープが千切れる音が響いた。
俺は傾く足場を蹴り、最も対岸から遠い位置――最後尾で泣き叫んでいた小さな子供の襟首を掴み上げた。
「息を止めろ」
総和された力を、両脚の筋肉と、跳躍を補助する風の魔力へと全振りする。
足元の踏み板が完全に砕け散った瞬間、俺は空気を蹴り飛ばした。
重力をねじ伏せるような強烈な推進力が、俺と子供の身体を宙へ打ち出す。
背後で、吊り橋の残骸が谷底へと吸い込まれていく轟音が響いた。俺の身体は弧を描き、十三人の村人たちがしがみついていた対岸の固い大地を越え、斜面の草むらへと勢いよく転がり込んだ。
激しい摩擦と衝撃。肺から空気が強制的に押し出される。
全身の筋肉が断裂しそうな痛みを訴え、視界が明滅した。総和の反動だ。俺は咳き込みながら、腕の中にいる子供が無傷であることを確認して、小さく息を吐いた。
なんとか、帳尻は合ったらしい。
「ああ……助かった……」
「奇跡だ……女神様が救ってくださったんだ……!」
対岸に這い上がっていた村人たちが、涙ながらに大地へ口づけをしている。
誰一人欠けていない。必要な仕事は終わった。俺は痛む身体を引きずって立ち上がろうとした。
その時だった。
「そこまでだ、動くな」
冷たく、硬質な声が頭上から降ってきた。
見上げると、純白の法衣に身を包んだ男が、銀色の杖を構えて立っていた。背後には、武装した兵士たちが数名、剣を抜いて俺を半包囲している。
「ガルド神官様!」
村人の一人が男の名前を呼び、安堵の表情で駆け寄ろうとした。
しかし、神官ガルドと呼ばれた男は村人を冷ややかに一瞥すると、杖の先を真っ直ぐに俺へと向けた。
「橋の崩落は神託によってすでに示されていた。お前たちが巻き込まれたのは、信仰の足りぬ愚かな行動の結果に過ぎない。だが……」
ガルドの細められた眼光が、俺の左手首に刻まれた紋章を射抜いた。
「お前のその紋はなんだ? 光の女神ルミナ様が与え給うた『加護紋』に、そのような醜悪な形は存在しない」
「醜悪かどうかは知らないが、役に立っただろう」
俺が淡々と事実を述べると、ガルドは鼻で嗤った。
「多数の弱き力を無理矢理に従え、一つに束ねる力など、神託の示す調和を乱す邪法に他ならない。お前が何者かは知らんが、神託にない力を持つ異端者であることは明白だ」
「異端……?」
十五人を救った事実よりも、自分の知識にない力が存在することの方が問題らしい。
俺の反論を待つことなく、ガルドは冷酷に言い放った。
「捕らえよ。神託の都を脅かす悪性の病は、早急に排除せねばなるまい」
兵士たちが距離を詰め、俺の腕を乱暴に背後へとねじり上げる。
反動で動けない俺を縛り上げながら、ガルドは見下すように冷たい視線を浴びせてきた。助けられたはずの村人たちは、神官の威圧感に怯え、誰一人として声を上げることはなかった。




