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勇者X  作者: 厚揚げどーふ
一章 旅立ち編
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勇者X エピソード0

本編前の出来事です。本編とは世界が違います。こちらは日本の設定となります。

 その日、教室の床に這いつくばっていた佐藤の姿を見たとき、僕の胸を突き動かしたのは、純粋な正義感などという綺麗事ではなかった。


 ただ、怯えきった彼の瞳が、あまりにも哀れで、可哀想だったから。


 それだけの理由だった。


「おい、次はお前がこれ飲めよ」


 クラスでも問題児として知られる男子生徒が、佐藤の水筒を手に取った。中には泥水が混じっている。誰かがわざと泥を入れたのだろう。


 男子生徒は、それを佐藤の頭から浴びせようとした。


 その瞬間、僕は気づけば二人の間に割り込んでいた。


「もうやめろよ。そんなことして、何が楽しいんだ」


 一瞬、教室が静まり返った。


 次いで、冷ややかな視線が一斉に僕へと向けられる。


 そのときの僕は、まだ知らなかった。


 たった一度の行動が、自分の日常を大きく変えてしまうことを。


 それが、僕の「身代わり」としての生活の始まりだった。


     *


 翌日から、僕の日常は一変した。


 机に書かれた落書き。いつの間にかなくなっている教科書。聞こえるように繰り返される陰口。


 昨日まで佐藤に向けられていたものが、今度は僕に向けられるようになった。


 地獄のような日々だった。


 それでも、僕には耐えられる理由があった。


 放課後、誰もいなくなった旧校舎の裏。


 そこで佐藤は、いつも僕の手を握り締め、泣いていた。


「ごめん、僕のせいで……本当にありがとう。君は僕のヒーローだ。いつか絶対に、この恩は返すから」


 佐藤のその言葉だけが、すり減っていく僕の心を、かろうじて繋ぎ止めていた。


 彼が救われたのなら、僕の犠牲にも意味はある。


 そう信じていた。


 あの日の放課後までは。


     *


「おい、佐藤。お前、いつまでアイツと仲良しごっこしてんだよ?」


 僕と佐藤が呼び出されたのは、放課後の教室だった。


 そこには、いじめグループのリーダーをはじめ、何人もの生徒が集まっていた。


 そして、リーダーの足元には、一本の万年筆が転がっていた。


 亡くなった祖父から譲り受けた、僕の大切な形見だった。肌身離さず持ち歩いていたものだ。


「佐藤。お前がその万年筆をここで踏み潰せ。そうしたら、お前を完全に俺たちの『仲間』として認めてやるよ」


 息が詰まった。


 僕は隣に立つ佐藤を見た。


 彼は真っ青な顔で、ガタガタと震えていた。


 ――大丈夫だ、佐藤。


 僕は心の中で語りかけた。


 ――僕の名前を出して、先生を呼びに走ればいい。僕のことは気にしなくていいから、君だけでも逃げてくれ。


 僕は、彼ならそうしてくれると思っていた。


 けれど。


 佐藤は、ゆっくりと歩き出した。


 そして、僕の万年筆の真上に立つと、こちらを振り返った。


 その顔には、怯えを必死に隠そうとする、歪んだ笑みが浮かんでいた。


「……そうだよね。こんな奴の持ち物、汚くて見てられないよ」


 パキリ。


 硬いプラスチックが割れる音が、静かな教室に響いた。


「佐藤……? 何を……」


「うるさいな、近寄るなよ、偽善者!」


 佐藤は僕の声を遮るように叫び、さらに強く万年筆を踏みにじった。


「頼んでもいないのに勝手にしゃしゃり出てきて、被害者ぶって本当に気持ち悪い! お前みたいな独りよがりのバカ、最初から大嫌いだったんだよ!」


 いじめグループの爆笑が、教室に響き渡った。


 僕は、何も言えなかった。


 目の前で、祖父の形見が壊されていく。


 それ以上に、信じていたものが壊れていく。


 僕の胸の奥で、何かが決定的に砕け散った。


     *


 佐藤の瞳には、もう僕への感謝など残っていなかった。


 そこにあったのは、自分だけが助かりたいという剥き出しの自己保身。


 そして、僕を踏み台にしてでも、少しでも上の立場へ這い上がろうとする欲望だった。


 僕は、床に散らばった万年筆の破片を見つめた。


 祖父の形見。


 佐藤を助けたこと。


 彼が泣きながら握ってくれた僕の手。


 いつか恩を返すと約束した、あの言葉。


 何もかもが、ひどく遠いものに思えた。


 やがて僕は、ゆっくりと立ち上がった。


 不思議なことに、視界は妙に澄み渡っていた。


 涙は出なかった。


 胸を締めつけていた痛みも、いつの間にか消えていた。


 その代わり、胸の奥に、どす黒く冷たい何かが満ちていく。


(ああ、そうか)


 僕は顔を上げた。


 目の前には、歓声を上げるいじめグループ。


 その中心で、安心したような笑みを浮かべる裏切り者。


(僕がするべきだったのは――)


 次の瞬間、僕の拳が、いじめグループのリーダーの顔面にめり込んだ。


     *


 そこから先のことは、よく覚えていない。


 ただ、殴った。


 蹴った。


 向かってくる相手を、片っ端から叩き伏せた。


 怒りに任せて、力の限り。


 もう、何も考えたくなかった。


 ようやく我に返ったとき、目の前には何人もの生徒が倒れていた。


 僕をいじめてきた者。


 見て見ぬふりをしていた者。


 そして、僕を裏切った者。


 誰もが、血まみれになって床に横たわっていた。


 取り返しのつかないことをした。


 そう思った。


 けれど、不思議と後悔はなかった。


 もう、後戻りはできない。


 ならば、これからどうするべきか。


 僕は考えた。


 なぜ、みんなはいじめを見て見ぬふりをするのだろう。


 なぜ、助けようとしないのだろう。


 答えは、簡単だった。


 力が足りないからだ。


 逆らえば、自分が標的にされる。やり返される。今の立場を失う。


 だから、誰も動けない。


 ならば。


 僕が、一番上になればいい。


 誰よりも強くなり、誰も僕に逆らえないようにする。


 そして、ほかの者たちを平等にする。


 誰かが喧嘩をしたなら、両方を殴る。


 誰かが誰かをいじめたなら、いじめた側も、いじめられた側も、同じように罰する。


 誰か一人が上に立つことも、誰か一人が下に落ちることも許さない。


 僕が支配する。


 その支配の下で、全員を同じ立場に置く。


 そうすれば、誰も誰かをいじめられない。


 誰も、誰かを恐れる必要がない。


 みんなが同じなら、みんな平等だ。


 みんなが平等なら、争いはなくなる。


 争いがなくなれば、平和になる。


 ――そうだ。


 これが、僕の望んでいた世界だ。


 僕は、そう信じることにした。


     *


 それから、僕はさらに多くの生徒を力で従わせた。


 恐れおののく者もいた。


 反抗する者もいた。


 けれど、最終的には誰もが僕に従うようになった。


 喧嘩をする者がいれば、両方を殴った。


 誰かが誰かをいじめれば、両方を罰した。


 例外は作らなかった。


 そうして、僕は学校の頂点に立った。


 以前と比べれば、校内は少し落ち着いたように思えた。


 少なくとも、僕の目の届くところで、誰かが一方的に誰かをいじめることはなくなった。


 僕は、それを平和と呼んだ。


     *


 週末。


 荷物をまとめた僕は、一人で廊下を歩いていた。


 そのとき、背後から声がした。


「お前のせいでめちゃくちゃだ! 僕の学校生活を返せよ!」


 振り返る。


「佐藤……?」


 彼が、そこに立っていた。


 次の瞬間、腹のあたりが痺れるように熱くなった。


 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


 視線を落とす。


 校舎の床に、赤い雫がしたたり落ちていた。


 その先に見えたのは、自分の血と、鈍く光るカッターナイフの刃。


 刺されたのだ。


 そう理解した途端、視界が揺らいだ。


 意識が遠のいていく。


 けれど、その瞬間の僕は、驚くほど冷静だった。


 恐怖も、怒りも、悲しみもなかった。


 ただ、一つの感情だけが、胸の奥に残っていた。


(ああ、やっと死ねる)


 僕、有坂学の人生は、ここで終わった。

閲覧ありがとうございます。次回から本編に入ります。異世界からスタートです

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