勇者X エピソード0
本編前の出来事です。本編とは世界が違います。こちらは日本の設定となります。
その日、教室の床に這いつくばっていた佐藤の姿を見たとき、僕の胸を突き動かしたのは、純粋な正義感などという綺麗事ではなかった。
ただ、怯えきった彼の瞳が、あまりにも哀れで、可哀想だったから。
それだけの理由だった。
「おい、次はお前がこれ飲めよ」
クラスでも問題児として知られる男子生徒が、佐藤の水筒を手に取った。中には泥水が混じっている。誰かがわざと泥を入れたのだろう。
男子生徒は、それを佐藤の頭から浴びせようとした。
その瞬間、僕は気づけば二人の間に割り込んでいた。
「もうやめろよ。そんなことして、何が楽しいんだ」
一瞬、教室が静まり返った。
次いで、冷ややかな視線が一斉に僕へと向けられる。
そのときの僕は、まだ知らなかった。
たった一度の行動が、自分の日常を大きく変えてしまうことを。
それが、僕の「身代わり」としての生活の始まりだった。
*
翌日から、僕の日常は一変した。
机に書かれた落書き。いつの間にかなくなっている教科書。聞こえるように繰り返される陰口。
昨日まで佐藤に向けられていたものが、今度は僕に向けられるようになった。
地獄のような日々だった。
それでも、僕には耐えられる理由があった。
放課後、誰もいなくなった旧校舎の裏。
そこで佐藤は、いつも僕の手を握り締め、泣いていた。
「ごめん、僕のせいで……本当にありがとう。君は僕のヒーローだ。いつか絶対に、この恩は返すから」
佐藤のその言葉だけが、すり減っていく僕の心を、かろうじて繋ぎ止めていた。
彼が救われたのなら、僕の犠牲にも意味はある。
そう信じていた。
あの日の放課後までは。
*
「おい、佐藤。お前、いつまでアイツと仲良しごっこしてんだよ?」
僕と佐藤が呼び出されたのは、放課後の教室だった。
そこには、いじめグループのリーダーをはじめ、何人もの生徒が集まっていた。
そして、リーダーの足元には、一本の万年筆が転がっていた。
亡くなった祖父から譲り受けた、僕の大切な形見だった。肌身離さず持ち歩いていたものだ。
「佐藤。お前がその万年筆をここで踏み潰せ。そうしたら、お前を完全に俺たちの『仲間』として認めてやるよ」
息が詰まった。
僕は隣に立つ佐藤を見た。
彼は真っ青な顔で、ガタガタと震えていた。
――大丈夫だ、佐藤。
僕は心の中で語りかけた。
――僕の名前を出して、先生を呼びに走ればいい。僕のことは気にしなくていいから、君だけでも逃げてくれ。
僕は、彼ならそうしてくれると思っていた。
けれど。
佐藤は、ゆっくりと歩き出した。
そして、僕の万年筆の真上に立つと、こちらを振り返った。
その顔には、怯えを必死に隠そうとする、歪んだ笑みが浮かんでいた。
「……そうだよね。こんな奴の持ち物、汚くて見てられないよ」
パキリ。
硬いプラスチックが割れる音が、静かな教室に響いた。
「佐藤……? 何を……」
「うるさいな、近寄るなよ、偽善者!」
佐藤は僕の声を遮るように叫び、さらに強く万年筆を踏みにじった。
「頼んでもいないのに勝手にしゃしゃり出てきて、被害者ぶって本当に気持ち悪い! お前みたいな独りよがりのバカ、最初から大嫌いだったんだよ!」
いじめグループの爆笑が、教室に響き渡った。
僕は、何も言えなかった。
目の前で、祖父の形見が壊されていく。
それ以上に、信じていたものが壊れていく。
僕の胸の奥で、何かが決定的に砕け散った。
*
佐藤の瞳には、もう僕への感謝など残っていなかった。
そこにあったのは、自分だけが助かりたいという剥き出しの自己保身。
そして、僕を踏み台にしてでも、少しでも上の立場へ這い上がろうとする欲望だった。
僕は、床に散らばった万年筆の破片を見つめた。
祖父の形見。
佐藤を助けたこと。
彼が泣きながら握ってくれた僕の手。
いつか恩を返すと約束した、あの言葉。
何もかもが、ひどく遠いものに思えた。
やがて僕は、ゆっくりと立ち上がった。
不思議なことに、視界は妙に澄み渡っていた。
涙は出なかった。
胸を締めつけていた痛みも、いつの間にか消えていた。
その代わり、胸の奥に、どす黒く冷たい何かが満ちていく。
(ああ、そうか)
僕は顔を上げた。
目の前には、歓声を上げるいじめグループ。
その中心で、安心したような笑みを浮かべる裏切り者。
(僕がするべきだったのは――)
次の瞬間、僕の拳が、いじめグループのリーダーの顔面にめり込んだ。
*
そこから先のことは、よく覚えていない。
ただ、殴った。
蹴った。
向かってくる相手を、片っ端から叩き伏せた。
怒りに任せて、力の限り。
もう、何も考えたくなかった。
ようやく我に返ったとき、目の前には何人もの生徒が倒れていた。
僕をいじめてきた者。
見て見ぬふりをしていた者。
そして、僕を裏切った者。
誰もが、血まみれになって床に横たわっていた。
取り返しのつかないことをした。
そう思った。
けれど、不思議と後悔はなかった。
もう、後戻りはできない。
ならば、これからどうするべきか。
僕は考えた。
なぜ、みんなはいじめを見て見ぬふりをするのだろう。
なぜ、助けようとしないのだろう。
答えは、簡単だった。
力が足りないからだ。
逆らえば、自分が標的にされる。やり返される。今の立場を失う。
だから、誰も動けない。
ならば。
僕が、一番上になればいい。
誰よりも強くなり、誰も僕に逆らえないようにする。
そして、ほかの者たちを平等にする。
誰かが喧嘩をしたなら、両方を殴る。
誰かが誰かをいじめたなら、いじめた側も、いじめられた側も、同じように罰する。
誰か一人が上に立つことも、誰か一人が下に落ちることも許さない。
僕が支配する。
その支配の下で、全員を同じ立場に置く。
そうすれば、誰も誰かをいじめられない。
誰も、誰かを恐れる必要がない。
みんなが同じなら、みんな平等だ。
みんなが平等なら、争いはなくなる。
争いがなくなれば、平和になる。
――そうだ。
これが、僕の望んでいた世界だ。
僕は、そう信じることにした。
*
それから、僕はさらに多くの生徒を力で従わせた。
恐れおののく者もいた。
反抗する者もいた。
けれど、最終的には誰もが僕に従うようになった。
喧嘩をする者がいれば、両方を殴った。
誰かが誰かをいじめれば、両方を罰した。
例外は作らなかった。
そうして、僕は学校の頂点に立った。
以前と比べれば、校内は少し落ち着いたように思えた。
少なくとも、僕の目の届くところで、誰かが一方的に誰かをいじめることはなくなった。
僕は、それを平和と呼んだ。
*
週末。
荷物をまとめた僕は、一人で廊下を歩いていた。
そのとき、背後から声がした。
「お前のせいでめちゃくちゃだ! 僕の学校生活を返せよ!」
振り返る。
「佐藤……?」
彼が、そこに立っていた。
次の瞬間、腹のあたりが痺れるように熱くなった。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
視線を落とす。
校舎の床に、赤い雫がしたたり落ちていた。
その先に見えたのは、自分の血と、鈍く光るカッターナイフの刃。
刺されたのだ。
そう理解した途端、視界が揺らいだ。
意識が遠のいていく。
けれど、その瞬間の僕は、驚くほど冷静だった。
恐怖も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、一つの感情だけが、胸の奥に残っていた。
(ああ、やっと死ねる)
僕、有坂学の人生は、ここで終わった。
閲覧ありがとうございます。次回から本編に入ります。異世界からスタートです




